第110回 池波正太郎を歩く

  〜京都に江戸を見た鬼平こと長谷川平蔵

  TVで鬼平シリ−ズがしぶとく放映されている。CSでは古い作品、BSは比較的新しい。毎度おなじみの筋立てであるが、ひきこまれていく。江戸が舞台。と ころが新しい作品は京都、近江八幡ロケになっている。東京でかつての江戸をロケで再現するのは不可能に近い。原作者の池波正太郎も小説を書くにあたり、京 都をよく歩いた。
  京都は江戸時代が建物から暮らしまで色濃く残っている。平安の都というが、平安建築などわずかしかない。応仁の乱で壊滅的打撃を受けた京は貴族、僧らが各地 に避難、主たる建築は焼けた。京の旧家ではいまだに「先の戦争で」といえば、応仁の乱をさすほどだ。京の復興は信長、秀吉、家康の時代になってからだ。
   京都御所は江戸時代に8回もの再建を繰り返し、老中松平定信による寛政の建築は平安様式を復活し、紫宸殿の姿を再登場させた。花街にしても上七軒、島原の あとに祇園先斗町、宮川町が江戸時代に隆盛を迎えた。東京は昭和30年代後半、つまり東京オリンピック前から建物、橋、川などが壊され、新しくなった。 私たちの学生時代である。直木賞作家に仲間入りした池波は東京の変貌に危機感を持ち、京都通い始めたのもこの頃である。
          
  池波正太郎は大正12年浅草に生まれ、父は日本橋の問屋番頭、母は飾り職人の娘。両親の離婚で祖父に引き取られ、小学校卒業後は奉公にでる。兜町で相場を 張り、その資金は映画、演劇、吉原での遊蕩に投じ、戦後は区役所勤めのかたわら、作家長谷川伸の門下になり劇作品を発表した。昭和35年(1960)、 『錯乱』で直木賞を受賞し作家生活にはいる。長谷川伸所蔵の『寛政重修諸家譜』に出てくる長谷川平蔵に強く惹かれ、『オール読物』に鬼平シリ−ズを連載す るきっかけになった。
  『オール読物』は没後25年のこの5月号で鬼平特番を刊行している。京都が鬼平シリ−ズで舞台になるのは「鬼平犯科帳3」である。父宣雄は1年の火盗改役 を経て京都奉行へ転任になった。しかし、翌年父は死亡、父に随行した平蔵の京都暮らしも短期で終わる。家督を継いだ平蔵は15年後、火盗改役につき、父の 墓参のため、同心を供にして京へ旅した設定になっている。
  ―行く先は千本出水の華光寺である。この寺は蓮金山と号し、日蓮宗妙顕寺派の末寺で、平蔵の父、宣雄がここに眠っているのだー
   長谷川宣雄の葬儀は華光寺で営まれ、墓もあったが、その後は江戸に移され、小説に出てくる墓はない。平蔵の墓参りはフィクションである。平蔵は回想する。 新妻久栄をともなっての京暮らしであったが、平蔵は放蕩を極め、祇園の茶屋の帰り道、突然の雨にあい雨宿の茶店で女主人お豊にであう。平蔵はお豊に魅了さ れ、人目避ける仲になった。後に平蔵は京都暮らしを剣の友、岸井馬之助に語っているが、これは池波自身の京都評といってもいい
  『いやもう京都よ。酒も香りも女の肌も江戸とはまるでちがうのだな。これは町のたたずまいも、川の水も、山も木も違うということなのだ。ま、京に比べると、江戸は雑駁なものよ』
  いささかほめすぎのきらいもあるが、東京の人間にとって京都は人も町も異次元の世界なのだろう。私など東京に同じ思いを抱いているから、その気持ちはよくわかる。
  お豊は「鬼平犯科帳3」(艶婦の毒)で登場する。父の墓参の帰り道、北野天満宮へ参拝した平蔵は境内で供の同心木村忠吾が豊満な女と近くの料亭にはいるとこ ろを目撃する。この女こそ、若き日の平蔵が京で心奪われたお豊だった。お豊は盗人宿の女主人。15年前、父宣雄は盗人グループの探索から盗人宿を探り出 し、張り込みの部下が平蔵とお豊の濡れ場を目撃した。平蔵が父から雷を落とされたのはいうまでもない。お豊は町奉行所の網をくぐり逃走し、平蔵にとって 「女体からたちのぼる汗のにおいが茴香(ういぎょう、生薬)のような芳香をはなった」京の謎の女だった。
  漢方薬店でこの匂いをかがしてもらい、お豊のイメージを描いたが、セリ科の香りに甘みのある香りは、遊び人の平蔵をしてとりこにしたぐらいだから、私など美人の看護婦と艶福な女将を前にした気分になった。
  平 蔵はお豊が表向きは烏丸五条の商家の後妻にはいり、裏では盗みの頭の女として、ひきこみ役をしていることを突き止めた。平蔵は茴香の香りのお豊を思い起こ し、お豊はその昔、相手にした若い侍の姿を忠吾に重ねてのあいびきであった。お豊が侍好きなのは、武家生まれの出自のためで、捕縛されて町をゆくお豊を平 蔵は見送るが、お豊には回想の平蔵でしかなかった。盗賊一味を捕まえた手柄を京町奉行に譲り、平蔵は忠吾を従え、愛宕山参詣から嵯峨野の散策を満喫した。 「兇剣」冒頭に嵯峨野の(平野や)で鯉の洗いに舌鼓を打つ二人が描かれている。
  海沿いでは鯉の料理はなじみが薄いが、京で鮮度のある魚は川魚である。鯉の洗いは淡白かつ脂がのり、鯛やヒラメに劣らない味だ。京都では琵琶湖の魚が逢坂山 を越えて、毎日、運ばれ、嵯峨野、嵐山では桂川産の鮎をはじめ、鯉などを食した。そのまま食べると、匂いがするが、これを清水の生簀に入れて、腹の中をき れいにしてから食べた。逢坂山の湧水は琵琶湖の魚の中継地になり、ここで臭みをとってから京へ持ち込んだ。現在も鰻の店が料理を売り物にしている。
          
  (平野や)は愛宕神社一の鳥居脇の茶店として描かれているが、現地にあるのは茅葺の「平野屋」。この店は鮎問屋の昔から400年続く。構えからして一見さんに は敷居は高いものの、素材を生かした京の味を提供する。池波正太郎も通った。女将によれば、池波らしき客をなんどか迎えたが、あいさつしないままになった という。このさらりとした接待が池波にはなによりのもてなしのようだった。
  「平野屋の鮎のうまさはまるで百年も前へ月日がさかのぼったかのような江戸の雰囲気にひたって食べるのだから味覚と旅こころが渾然と溶け合い、なんともいえぬ 心地がしてくる」と、随筆に書いている。京にいながら江戸に置き換え、そこに小説の主人公をおいて酒を飲むのが池波流である。京を代表する鮎料理屋であっ ても、かつての茶店の味わいを残している。店前の床机に坐って食べる茶団子。抹茶付きで喫茶店並みの頃合の料金で、若い女性など雰囲気を楽しんでいる。一 見さんを相手にしない茶店ではない。
          
  TVの鬼平シリ−ズでは江戸の場面でよく見た京の風景が出てくる。多いのは今宮神社の茶店鬼平ら火盗改が盗賊一味の張り込み場面はここだ。東京にはこんな風 景は深大寺あたりまでいかないとないだろう。セットなら作り物臭くなる。あぶりもちをほうばりながら、あたりをうかがうシーンはおなじみだ。
  TVの鬼平は現在の中村吉右衛門で4代目になる。初代は先代幸四郎、2代目は丹波哲郎、3代目は中村錦之助。それぞれ個性のある鬼平を演じたが、池波自身は吉 右衛門がベストといっている。この吉右衛門になってから京都がロケ地になったことも面白さを倍加した理由になる。TVで映像化するにあたってスッタフが心 がけたのはまず原作ありきであった。池波の描いた江戸風俗をいかに再現するかだった。池波も京都に通い、江戸の匂いをかぎ、空気を吸った。江戸の粋(い き)は京では粋(すい)になる。池波の江戸っ子美学は、京でも磨かれ、作品に投影されていく。
          
  高瀬川沿いから寺町通をよく歩いた。寺町から太町通を横切り、北へ行くと西は京都御所、松並木の通りには新島譲旧邸(記念館)、蘆山寺などが並び、江戸をイ メージすることができた。この蓄積が作品の風景になった。高瀬川沿いには歩いて語り合う店がいくつかあった。元関取のチャンコ店「逆鉾」。ここは新国劇辰巳柳太郎の肝いりでできた店。混み合う店で南座出演の辰巳と池波は大声で芝居談義に花をさかせた。池波は新国劇の脚本と演出をてがけているだけに時には 怒鳴りあい、まるで喧嘩と思うほど熱中したという。チャンコをつつく京都人も店に響く江戸弁に耳をすませ、顔を見合わせたことだろう。
  池波は原作の映像化のさい、料理の資料をつけていた。食べ歩きも小説の素材になり、うんちくをかたむけた。京で通った店のひとつに木屋町三条の「松鮨」(現 在、蛸薬師柳馬場へ移転)があった。カウンターに10人座れるかどうかの狭い店。おまかせになっていて、値段は銀座の一流店というか、祇園の料亭並みと思 えばいい。この店に行くため、池波は京へ来たと、書くほどほど心酔していた。座れば、ぼそぼそ会話しながら料理を待つだけ。なにが出てくるかも楽しみだ。 池波は書いている。
  「ガラスのケースへ、これ見よがしに魚介を並べたりせぬ本格の鮨やなのである。東京ふうでもなく、大阪ふうでもなく、京都ふうでもない独自の鮨だ。それをにぎるあるじの爪の中までもなめたいほどの美しい鮨だ。あるじの手先が(すし)になってしまっている」
  江戸時代の鮨屋を思い浮かべてつまんでいる池波の顔を想像してしまう文章だ。
  前を流れる高瀬川森鴎外の『高瀬舟』の舞台。病弱の弟殺しの兄が舟で同行する同心に語る殺しのいきさつと、聞き入る同心の描写は、鴎外が小説を書くさいの 心棒、尾てい骨といえる。高瀬川のせせらぎは、森鴎外池波正太郎を流れに映し出していた。池波は勧善懲悪の切り捨てご免でなく、悪人と呼ばれる男女の人 生と長谷川平蔵を重ねあわせて江戸を描き出した。長谷川平蔵は老中松平定信と意見を異にしながら、石川島に犯罪者の厚生施設にあたる「人足寄場」を幕府に要望し、幕府に認めさせている。
  日暮れの京の町。題名のすごさで後ずさりしそうな『艶婦の毒』の主人公お豊と平蔵には今生の別れの場になった。釜座下立売の家で捕縛されたお豊を道へだてた家の軒下から見守る平蔵。その前をお豊は歩いて行く。
  「お豊はゆうゆうとして縄をうたれた。柏屋の戸口からながれでる灯を背負うようにして外へあらわれたお豊の表情はよく見えなかった。
  お豊は平蔵のほうに視線もむけず、ゆったりとした足どりでひかれて行った」
  この一行に池波正太郎作品の心棒が貫徹している。池波にとっての京の町。
  ―自分というものと京の町が「切っても切れぬ」ものとなったのは、やはり時代小説を書くようになってからだ。それまで気にもとめずに見たり、聞いたりしたものや、何気なく通りすごしてきた町すじに堪えがたい愛着を覚えるようになった」(散歩のとき何かたべたくなって)―
          
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     メモ
  池波正太郎の足跡をたどって食べ歩き
  昼どきなら河原町四 条上ル一筋目東入ルの「しる幸」。観光客に人気のある店で味噌汁が自慢。池波は刺身を好んだ。2千円前後。池田屋襲撃事件の発端になった薪炭商古高俊太郎 がここの主人の一方で京の志士たちと倒幕のパイプ役を勤め、新撰組に捕まる。店は代替わりを繰り返している。「松鮨」は敷居が高い向きには、かつて「松 鮨」の板場が開いた「もり川」がおすすめ。深泥が池近くにあり、おまかせなら5千円から1万円。鯖鮨は評判。一見お断りの店は西陣のすっぽん「大市」。予 約がいる。ここは里見惇ゆかりの店。志賀直哉が連れられて通い、芥川龍之介直木三十五川端康成らがなべをつついた。幕末には近藤勇土方歳三も店をく ぐった。甘いものでは、今宮神社のあぶりもち、上賀茂神社そばの神馬堂の焼餅、北野天満宮の長五郎餅を好んで食べた。
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