第95回 八咫烏(やたがらす)の聖地 〜紀州熊野古道をゆく〜

   

  ブラジルのサッカーWカップが開幕した。空で3本足のカラスが舞っている。日本代表の胸のマークは守護神・八咫烏だ。長さの単位で八咫は大きい意味にな る。この旅もニッポンの活躍を祈願して、サッカーゆかりの神社参拝から始めた。八咫烏(やたからす)の故郷は紀州・熊野である。その前に蹴鞠(けまり)の 家元につながる京都の白峰神宮の鳥居をくぐった。京都の堀川今出川を東に行くと、修学旅行生が列をつくっている。

  白峰神宮のある上京区飛鳥井町はその名の通り、公家、飛鳥井家の跡地である。飛鳥井家は鎌倉期以来、蹴鞠の名手を送り出し、江戸時代には幕府から蹴鞠の家元に認定され、飛鳥井家の庭では蹴鞠のはずむ音が響かぬ日はなかった。 

  蹴鞠は8人ほどで円陣を組み、鹿皮の鞠を落さぬようにパス回していくもので、リフテイングの原型。鎌倉期の説話集『古今著聞集』には2千回の記録がある。明 治時代、東京遷都で跡地になった飛鳥井家敷地に明治天皇が平安末期、讃岐に配流の崇徳天皇の霊を祀る神社を建立。数年後に奈良時代廃帝になった淳仁天皇 合祀する官幣大社になった。摂社の地主社・精大明神は飛鳥井家の蹴鞠の守護神を受け継ぎ、いまではサッカーからバレーボールなど球技の神様としてスポーツ 関係者の参拝はあとを絶たない。Wカップ期間中は境内に絵馬が飾られる人気スポットだ。

  平安末期に蹴鞠の達人が現れた。藤原成道である。権大納言藤原宗通の4男。10歳で鳥羽天皇侍従になり、白河天皇の寵臣として大納言に上るも突如、出家して いる。和歌、馬、笛に優れ、なかでも蹴鞠に関しては幾多の伝説を生んでいる。有名な逸話は清水寺の舞台欄干を蹴鞠しながら往復したという。藤原成道は蹴鞠 向上のためには練習と祈願を欠かさず、平安の末法思想でブームを生んだ熊野三山に足を伸ばした。

          

  蟻の熊野詣と、そのにぎわいを揶揄された熊野参詣は平安末期の上皇天皇行幸で知られ、中でも白河上皇の寛治4年(1090)より後鳥羽上皇の承久3年 (1221)までの5代130年の間に90回余を数えた。京都から熊野までは72里(約280㌔㍍)あり、熊野三山一周の道は28里のため、往復1カ月を 要した。距離にすれば京―鎌倉の半分であっても、道は険しく『進みたまふ道中、海に浮かび山に傍ひ、その道甚だ難し』(扶桑略記)にあるように難行苦行の 旅であった。にもかかわらず後鳥羽上皇は10カ月に1回のペースで計21回参詣している。行幸には公家、殿上人ら総勢814人におよび、馬190頭を引連 れていた。

  道は大阪の窪津に始まり、大阪湾沿いに南下し泉州から紀州入りして白浜手前の現在の田辺を経て山中にはいる中辺路、そのまま半島をまわる大辺路、伊勢から向 かう伊勢路のコース。途中に王子と呼ばれる社があり、九十九王子の名があるが、実際は99もなく86社を数えた。この王子は休憩所を兼ね、宿泊所にもなっ た。

  苦行のあとに神秘の扉が開く。それが熊野三山だった。

  日本の太古史には3つの地域名があがる。日向(宮崎)、出雲(島根)、熊野(和歌山)である。そこに大和が加わり、神話による日本が描かれていく。
 
  民俗学者折口信夫は熊野を旅して日本人のふるさとを思い浮かべた。はるかなる波路の果てに『まれびと来る』ふるさとがあるのではないか。

          

  黒潮の流れ。折口の民俗学の師である柳田国男は明治31年、渥美半島伊良湖岬を訪れ、浜辺に打ち寄せられた椰子の実から「海上の道」を書いた。柳田の遺作 というべき「海上の道」は弥生以前の縄文時代から稲作が伝来し、定着していった稲作南伝を考証している。折口の「まれびと」もさすらいの客人を意味し、黒 潮に日本文化の源流を重ねた。

  日本人はどこからきたのか。黒潮の海は、南の島々と日本を結ぶ歴史の流れを手繰り寄せる。熊野には中国の神仙思想にまつわる伝説がある。始皇帝の時代に皇帝 の命を受けた徐福は、不老不死の薬草を求めて船出。3000人を連れた船団は熊野に上陸して熊野に住みついたという。徐福伝説は佐賀、宮崎、鹿児島、八丈 島など全国に広がるが、熊野からは2000年前の中国硬貨が発掘され、中国の『史記』が記述する徐福と、熊野伝説の徐福は一致する部分が多い。「徐福」で あったかどうかは別にして黒潮でたどり着いた中国人はかなりの数にのぼったことは想像に難くない。先住民とまれびとたちが築きあげた熊野は、やがて神々の 支配する聖地になった。

  熊野神話のひとつに八咫烏がある。中国では八咫烏を太陽の象徴とみなされる鳥。神武天皇が九州から瀬戸内を経て熊野に上陸、大和への道を八咫烏に案内されて 大和の国を拓いた神話(日本書紀)に登場する。当時、熊野族は瀬戸内から紀伊半島にかけて水運を抑え、熊野の神が束ねていたという。以降、大和と熊野の関 係は親密になる。特に熊野は鉱物資源が豊富で金、銀、銅、水銀を産し、奈良大仏の金箔も熊野産が使用されている。

  平安末期の熊野参詣は奈良時代より性格を変えている。仏教伝来による神仏習合(融合)は神と仏を一体とする権現信仰(神が仏の姿になって現れる)を生み、極 楽浄土へ誘う阿弥陀如来信仰になった。平安末期の末法思想は社会の不安を高め、死後の世界をおそれる朝廷、貴族たちがこぞって熊野詣を繰り返した。

          

  官位昇進、家内繁栄など現世ご利益を祈願の参詣にあって蹴鞠にかけた成道の熊野詣は異色であった。藤原成道の熊野詣は仕えた鳥羽、白河帝の頻繁な参詣の影響 も考えられるが、30回以上の参詣を繰り返し、公家の参詣では突出している。熊野社殿で「うしろ拝」という後ろ向きのまま蹴鞠を奉納して300回続けたと いうから、熊野で蹴鞠上達を祈願していたのはまちがいない。

  成道は出世の道がふさがれ、参詣したなどの陰口が聞こえるが、蹴鞠を武術同様に位置づけた成道のセンスはわが国スポーツのさきがけとしてもっと光をあててもいい。

          

  熊野は古来より『黄泉の国』というが、これは『日本書紀』の(イザナミノミコト、火神を生むときに、やかれて神退去りましむ。故、紀伊の国の熊野の有馬村に 葬りまつる)の記述がもとになっている。イザナギノミコトは黄泉の国にイザナミを取り戻しにいくもかなわず、黄泉の国から現世へ戻ってくる。甦るの語源は 「黄泉返る」で、仏教と神が一体化したダイナミックなあざやかな習合こそが熊野参詣の魅力だった。

  しばし、世界遺産熊野古道を歩いてみたい。紀伊半島京阪神から白浜までの交通の便がいいが、白浜から南紀勝浦、新宮までは時間がかかり、要する時間だけ 見れば、日本有数の僻地といってもいい。窪津からの熊野古道紀伊水道に沿って紀伊半島を南下、田辺から東に折れ、中辺路にはいる。本宮への最短路は、途 中4泊の行程である。本宮前の発心門王子を過ぎると、あたりは神域になる。常世の国だ。

  熊野三山本宮大社と速玉大社、那智大社からなり、本宮は熊野川をのぼった西岸にあるが、明治までは中州に社があり、洪水で移転している。本宮鳥居に神の使 い八咫烏の大幟がはためく。いうまでもなくWカップ日本代表の胸のマークである。日本サッカー協会八咫烏をシンボルマークにした理由は定かでない。明治 期、日本にサッカー紹介した中村覚之助の故郷が熊野のため、生地に近い熊野本宮の守護神をシンボルマークしたという説が有力であるが、藤原成道の蹴鞠も一 役買っているのだろう。

  天皇、公家、武士など恵まれた階級の参詣が中心であったが、貴賎を問わず、男女を問わないのが熊野参詣の特色であった。聖地への参拝は厳格な精進潔済を必要 とし、女性の出産、生理は赤不浄という名目で拒んできた。ところが熊野権現は信不信を選ばず、淨不淨を嫌わなかった。なんびとたりとも権現の前では平等で あった。和泉式部が熊野で詠んだ歌がある。

  はれやらぬ身の浮き雲のたなびきて 月のさはりとなるぞかなしき

  ここまできて月の障りで本宮参拝ができなくなったと嘆く式部の夢枕に権現が現れ、こう告げた。

  もろともに 塵にまじわる神なれば 月のさわりもなにかくるしき

          

  熊野権現が中世で隆盛した理由は女人受け入れのほかに病めるもの、虐げられたものにこそ救いがもたらせると唱導したことにある。仏教の教えは本来、衆生救済 である。経を読み、修行するのも、そのためだ。有名なのが『小栗判官』の伝説である。相模国に流された小栗判官は毒殺され、閻魔大王の裁きで地上へ戻され る。全身腐り果てた小栗は藤沢の遊行上人に託されるが、大王は「熊野本宮、湯の峰にお入れあってたまわれや」と書き付けた。小栗は土車に乗せられ、さまざ まな人たちによって引かれてゆく。かつての妻、照手姫も加わり、奇妙な道行のすえ、熊野の湯の峰に到着。湯に投げ込まれた。62日後、小栗はもとの姿に 甦った。

  この説話はハンセン病との関係で示唆に富み、家族から忌避され、死を待つしかなかったハンセン病患者と小栗の姿が重なる。また道中の車を引いた人たちはボラ ンテイア。中世の日本で心豊かな物語が人気を得て歌舞伎などの題材になったことを忘れるべきでない。つい最近まで隔離してきた国家の政策をわれわれは認め てきた歴史を考えるなら、温泉治療で迎えた熊野の人たちの偏見なき信仰と互助精神は尊敬に値する。

          

  湯の峰温泉は本宮から2キロほど南にある。かつては参詣の行き帰りに湯に浸かったというが、小栗伝説の湯の壷は温泉街にあり、共同浴場になっている。湯温が 高いことで定評がある。岩穴の湯がつぼ湯と呼ばれ、小栗伝説の湯。3人もはいればいっぱいの共同浴場は確かに熱い。湯垢離(ゆごり)といって参詣の後、こ こで疲れをとって帰路についた。難病で家族から見捨てられた人たちも訪れた。観光協会は「千年でそれこそ何千万にのぼる『小栗判官』でしょうな。誰も分け 隔てなく受け入れた湯なんです」と自慢した。

  湯の峰の近くには大塔川の川底を掘れば湯が沸く川湯温線がある。冬場は大露天風呂が河原にできるが、夏場は水遊びのあと、川底を掘ってめいめいが楽しんでいる。

  本宮と温泉めぐりして那智の滝へ向かう。三山のひとつ那智大社は高低差133㍍の滝が御神体本地仏は飛瀧(ひろう)権現と呼ぶ千手観音。滝の水をあらゆる ものに救いをさしのべる仏の手に擬せたのだろうか。神仏一体での衆生救済は熊野の独壇場である。フランスの作家アンドレ・マルローは来日して那智の滝を仰 ぎ「日本人は自然の中に心を見る」といった。政治家でもあったマルローの目は鋭いものがある。7月14日、滝前の大松明がのぼる「那智の火祭り」は日本三 大祭りに数えられ、この日、水の神と火の霊が出会い、復活する勇壮なドラマである。

          

  三山の最後は熊野川の河口に位置する熊野速玉大社。かつては本宮参詣後、船で熊野川を下った。S字のカーブ曲がると、風景は劇的に変わり、前方は海だ。陽光 を浴びて社殿が輝く社殿の御神体は1キロ離れた神倉山の巨岩、ゴトビキ岩。天をつく岩は陽根(男根)信仰にほかならない。神が海近く降臨した縁起は、海上 の道をたどり、到着した徐福伝説を思い起こさせる。岩の傍らに姫宮・神倉神社が寄り添う。元は神倉神社があり、速玉大社はあとから鎮座の新宮である。熊野 は南方の男と、先住の女が産んだ国ということになるだろう。

  熊野には先住民、さらにはアイヌ系の北方民が住み、そこに黒潮のまれびとが加わる構図は神話の裏を読んだ仮説である。穢れを忌避した社寺の中で熊野は実におおらかでやさしく、開かれていた。

  =メモ

  マグロ漁   那智勝浦は生マグロの水揚げ港。近海はもとより遠洋のマグロもここで競りにかかる。勝浦漁港に二階通路から競りのもようを見物できる。また鮮魚店は食堂を経営、トロばかりでなく、市場に流通しない新鮮なマグロの心臓や胃、ほお肉など珍味が食べられる。

  めはり寿司  炊き立ての白飯を高菜漬けでくるんだおにぎり。熊野川の川仕事や山仕事の弁当の郷土食。目を見開いてかぶりついたところから名がある。旅の携帯食には最高で、海や川をみながらガブっと。 

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粟津征二郎氏の最新作が「学研」より発売されます。
「慈悲の人」 蛍山禅師を歩く
道元の禅風を受け嗣ぎつつ、曹洞宗の民衆化路線を指揮した蛍山禅師とはどのような人だったのか?
        
  (粟津氏談) 蛍山は道元の下で隠れた存在ですが、優れた思想家であり又マネージメントの才能も高い名僧だった。