第98回 史上最大の家康の「いちゃもん」から400年

  〜大阪冬・夏の陣を生んだ方向寺の梵鐘銘文〜

  京都東山の京都国立博物館の大和大路沿いの巨石組みは、いわば歴史遺産といえる。三十三間堂七条通隔てた南にある。この石組みを北に歩くと、方向寺であ る。都では大仏さんと呼ばれていた。いまはその面影はなく、石組みが三十三間堂から妙法院までの広大な境内をしのばせるにすぎない。
  京の童歌にある。
     京の京の大仏っさんは 天火で焼けてな
     三十三間堂が焼け残った アラどんどんどん
     コラどんどんどん 後ろの正面どなた
  豊臣秀吉東大寺大仏殿にならって京で大仏殿建立を計画したのは天正13年(1585)。東大寺は20年かけたが、5年で完成させよと、普請奉行小早川隆景 に命じた。せっかちな秀吉らしい。奈良の大仏殿は永禄10年(1567)の三好三人衆松永久秀の争いで焼け落ち、復興は進んでいなかった。秀吉は関白就 任の威光を朝廷や大名に示すため、聚楽第とあわせて建設に取り組んだ。
  方向寺は結局27年の歳月をかけて文禄2年に完成した。しかし、慶長大地震で倒壊し、秀吉は京の建物が持ちこたえたにもかかわらず、大仏殿倒壊に怒ったというが、器が大きすぎて揺れに耐えられなかったのだろう。
  秀吉が世を去り、関ヶ原合戦から14年を経過していた。家康は各大名を傘下にいれ、征夷大将軍として天下を治めていた。大阪城では淀君、秀頼が豊臣家を守っ ていたが、家康に対抗する力はなかった。秀頼は父の遺志を継いで大仏殿を再建した。東大寺大仏殿よりもひとまわり大きく、京の町のどこからでも眺めること ができた。
  豊国神社から博物館までの300㍍の大和大路には大名が献上した往時の巨石が現存する。巨石のなかでも、蒲生氏郷の献上石は家紋入りの幅4間、高さ2間もあ り、目をひく大きさである。家康が秀頼の社寺修復を認めた背景には、大阪城の豊富な軍資金を減らすことにあったというが、英国商リチャルド・コックスは大 仏殿の豪華さを「内部の壁はすべて丹色に塗られ、中央に黄金の大仏が頭を天井につけんばかりの姿で趺座」と、記している。
          
  関ヶ原後の秀頼について東北の雄、伊達政宗は、秀吉側近から家康の臣下にはいり、正宗の娘と家康の息子松平輝の婚儀をまとめた今井宗薫に書状を送り、秀頼の前途を憂慮しながら家康の出方を鋭く見抜いていた。
  正宗は大阪方の対応に疑問を持ち、秀頼幼少の間は江戸か伏見で家康のそばに置き、成人したあかつきには家康の判断で処遇してもらうことがのぞましく、宗薫か ら取り次いでほしい旨の内容になっている。正宗は同じ内容の書状を秀忠側近の本多正信にも送っている。正宗は秀頼思っての所見と断っているが、大阪夏の陣 では徳川方についた正宗のことゆえ本音はどこにあったのかはわからない。ただ秀頼を気にかけていたようで、このまま大阪にいれば謀反にあい、切腹に追いこ まれかねないとしている。また秀吉の息子であっても力量なくして治められず、後継うんぬんは早いと、記している。関ゲ原直後の諸大名の大阪、徳川への見方 が書状から読みとれ、徳川家が完全に京、諸大名をおさえていたわけではなかった。後継は成人した秀頼の器しだいが世間評であった。
  家康は方向寺再建までは認めたが、淀君と秀頼母子による大仏開眼法要の盛大な挙行は見過ごせなかった。老獪な家康の腹の中を読む参謀が秀頼周辺にはいなかった。三成に代わる参謀不在が家康の術中にはまることになった。
  家康との折衝は秀頼家老の片桐且元があたった。且元は賎ガ岳七本槍の一人で秀吉に可愛がられた。父は浅井家の家臣の関係から淀君の信頼を受け、秀頼の側近を 勤めた。一方、家康に伏見の屋敷を提供するなど家康の覚えよく、家康に協力的であった。使者として駿府、江戸に長期滞在して秀忠から歓待を受けている。
          
  関ケ原で家康についた大名同様に且元は徳川との融和により、秀頼を守る路線であったが、豊臣と徳川の間にあって策士を演じるほどの力量はなく、家康の意向を 大阪に伝えていたため、大阪方からは疑いの目で見られていた。淀君は家康にもう一人の使者である乳母の大蔵卿の局を送り、家康の真意をさぐる。家康はこの 使者には鐘銘文には触れず、「秀頼は秀忠の娘(千姫)婿殿」と、きげん良く語り、報告を受けた豊臣方は安心し、批判の矛先は且元に向けられた。
  慶長19年旧暦8月3日。新暦では9月初旬が供養の日に決まり、天台宗500人、真言宗500人の僧が居並ぶ壮大な法要が準備され、600石の餅、銘酒3千樽を運びこまれた。
  徳川方でははかりごとにかけては定評のある本多正純、学者の林羅山がワナをしかけていた。豊臣方を安心させて、いきなり中止に追い込む理由付けが鐘の銘文だった。この銘文は南禅寺の僧文英清韓による選文であったが、家康側近で寺社部門を監督した金地院崇伝が難癖をつけた。
          
  『国家安康 君臣豊楽』の8文字が問題になった。銘文約800字の中の8文字を取り上げたいちゃもんである。この解読を担当した金地院崇伝は、後に黒衣の宰相 とまで呼ばれた政僧で、社寺行政を仕切り、大徳寺の沢庵和尚から「天魔外道」とまで罵倒され、沢庵を追放している。崇伝は五山の学者僧に鐘銘について諮問 し、家と康を割ったのは礼に反するという返答を得ている。現代でもそうであるが、諮問の回答は前から決まっていて、崇伝があらかじめ根回しをしていたこと は間違いない。
  林羅山は徳川呪詛の銘文といい、説明に来た清韓を厳しく糾弾した。国家安康の4字は、家と康が別れて使用され、さらに君臣豊楽は豊臣栄えるを意味し、徳川家 を侮辱しているという難癖だった。理屈を探していた家康はいたく満足し、駿府で家臣に対して「方向寺供養は徳川を呪うものだ」と、激怒した。7月26日、 本多正純から供養停止の通告が且元に届いた。晴天霹靂の通告に大阪方はあわてた。とくに且元は崇伝から「問題なし」の手紙を受け取っていたから真意を質すも、次の難題をぶつけられた。
  家康は関ケ原後、豊臣方と事を構えるより、融和を選び、千姫を嫁がせている。この方針が変わったのは秀頼との二条城における対面だったといわれている。
  家康は秀頼に対して先入観を持ち、評価していなかった。そこで対面の非を取り上げ、秀頼の無能ぶりを世間に広める作戦が二条城の対面だった。淀君は対面に反 対していた。関ケ原で敗れたとはいえ豊臣家は関白の家柄であり、征夷大将軍の身分とは対等のはずで、まして二条城に呼びつけるなどもってのほかと、怒った が、秀頼の意向も組み対面は実現した。
  秀頼19歳、家康70歳。京の人は秀吉の息子来るに沸き、沿道に人があふれた。軍勢を誇示して乗り込んだ家康であったが、成長した秀頼に目をみはり、落ち着 いた受け答えに「賢い男よ。いいなりにはならん」(駿府記)とつぶやき、豊臣への警戒心をつのらせた。秀頼が凡庸であれば気にもとめなかったはずだ。
  秀頼、淀君は豊富な資金をもとに全国の社寺の復興に取り組み、出雲大社伊勢神宮、醍醍寺など40余の社寺が再建修復されていた。武の家康に対して、あくま で京に足をおいた社寺勢力をみかたにつける文化を重視した。方向寺はその文化事業の集大成にあたる。奈良の東大寺を上回る大仏殿の再建は秀吉の遺訓であ る。突然の中止の知らせとともに家康との折衝にあたった且元から驚くべき解決条件がもたらされた。
  秀頼の江戸参勤、淀君の江戸住い、大阪城から国替えといういずれも飲めない条件であったが、且元は大阪城に戻り、条件を提示し、収めようとする。反発した大 阪方は且元殺害を計画し、失敗すると且元を使者からはずした。大阪城を出た且元にすれば、徳川との戦に巻き込まれずにすみ、すでに心は秀頼から離れてい た。淀君は且元に翻意をうながす書状を送るも、聞き入れなかった。
  淀君に関して、後世の歴史は厳しいが、この書状などを見るかぎり、気配りのできる女性だった。徳川の史家らは悪者にしたてて、秀頼を巻き込み、豊臣を滅亡させた女にしたかったのであろう。
  家康は且元の対応報告に(笑いをみせた)(当代記)。事は家康の思惑どおりに進み、伊達正宗が危惧した展開をたどる。大阪冬の陣の幕があいた。
  大阪城をながめるにはJR環状線で遠望しながら、地形をつかむのがポイント。上町台地の北端に位置し、北の台地下は淀川が流れ、運河、堀の3重の構えになっ ていた。元は石山本願寺の跡地で、本願寺が信長との石山合戦で焼失した後、秀吉によって築城された。縄張は黒田官兵衛が担当した。安土城の石垣を踏襲した 石垣は瀬戸内海や六甲から運ばれ、高さ6㍍、幅14㍍もある巨大石。徳川時代になって改修され、大きすぎて動かすこともできないまま、地下深く埋もれてい るのが発掘調査で明らかになった。
  現在の大阪城は昭和6年に再建され、往時のまま残るのは大手門など11の建物(重文指定)にとどまる。
  慶長19年(1614)10月11日、大阪方は篭城の準備にかかった。且元去った城内では大野治長を中心とする集団指導体制でのぞんだ。治長は淀君の乳母、 大蔵卿局の子どもで、淀君とは幼馴染だったと、いわれ、身長は6尺余のなかなかの男ぶりと、記録にはある。三成とは秀吉側近争いで敗れ、一時、関東へ追わ れ、関ヶ原では家康について参戦し、淀君、秀頼が大阪城に移ると、徳川方に戻らず、秀頼に仕えた。余談になるが、秀頼が長身の男前であったため、淀君と治 長の間にできた子ども説が江戸時代になって流布された。
  治長は軍議で篭城を主張し、かねて大阪方に招かれていた真田幸村らが主張する城を出の迎え撃つ作戦と対立するも、押し切った。
  大阪方には豊富な軍資金で周辺から集めた浪人が多数雇用され、人数では徳川方に見劣りしなかったが、問題は質で、篭城説の根拠になっている。篭城でもちこたえ、西国大名らが支援する環境をつくる作戦だった。しかし、戦端は堺から始まった。
  『10 月10日頃、堺の町民が大阪方に味方し、硝煙1000斤を献上』(当代記)して堺は秀頼につき、大阪方は13日、堺に出陣、今井宗薫親子をとらえて大阪城 へ監禁した。宗薫は秀吉に仕えた茶人であったが、没後は家康側につき、豊臣方からは裏切りものと非難された人物。堺は大阪方が支配し、徳川方の堺奉行は逃 走して片桐且元に救いをもとめ、且元配下の軍勢と戦闘になった。大阪方と、追放の旧大阪方があいまみえる構図は、関ヶ原の再戦である。この戦いは大阪方が 勝利し、京、伏見に進み、家康暗殺計画まで検討している。
  大阪冬の陣最大の激戦地は鴫野、今福(現城東区)。ここは大和川と淀川の合流点にあたり、大阪湾に続く物流拠点にあたる。徳川方はここを抑えて兵糧供給をとめる作戦であったが、7時間の戦闘は大阪方が堺に続いて勝利した。しかし、大阪方は次第に包囲をせばめられていく。
  大阪城攻めの先陣は井伊直孝である。城壁を突破し、進入するも真田幸村らが井伊、前田勢を退け、「徳川の負け戦」の噂すら聞こえたという。この状況下で講和 に動いたのが織田有楽斎だ。信長の末弟で本能寺後は秀吉、関ヶ原では家康、さらに秀頼に仕える茶人らしからぬ変わり身の速さを見せ、家康の信頼篤く、膠着 状態を打開するべく徳川の意向を汲んだ講和だった。秀頼は当然ながら拒否し、豊臣方は意気あがるも12月にはいると、講和機運が城内に強まり、和平会議が 開かれ、淀君の人質や秀頼に対する不信な行為はしないことでまとまった。現状維持の内容は徳川の時間稼ぎにほかならなかった。
  年あけて3月。秀頼の使者として淀君の妹初らが駿府に出向き、家康に条件の緩和を懇願した。真田幸村上田城の家臣宛の手紙で「もし、ことし中も静かであれ ば、お面にかかれるが、定めない浮世の一日先はわからない」と、再戦はもはや避けられないことを悟っていた。家康は大阪を支配して関西を治める方向に傾 き、豊臣滅亡へ進んでいた。
  大阪城堀を歩く。極楽橋を渡った城内は公園になっている。ここが山里曲輪(くるわ)。淀、初、江の三姉妹が引き取られて過ごした場所であるが、茶の湯や会見 場にもなった。石碑には淀君、秀頼の終焉の地の文字が刻まれている。4月から始まった戦いで大阪方は冬の陣とは逆に敗れ、5月7日、大阪城天守閣は炎上し た。幸村は一発逆転を狙い、家康の陣を襲い、あと一歩まで攻めた。平野口を通過する家康を予想、地蔵堂に地雷をしかけた。家康が席を立った時に地雷は爆発 し、一命をとりとめた。家康の運の強さが土壇場までついて回った。幸村の死で戦いは終わり、8日、淀君、秀頼が山里曲輪で自害した。淀君48歳、秀頼23 歳。この石碑には花が供えられ、波乱の人生を生きた淀君を追悼している。秀頼、淀君の対応が豊臣滅亡につながったという後世の指摘はすべて徳川、勝者によ る理屈である。豊臣滅亡と大阪城支配は徳川が政権を不動のものにする予定の行動であった。おそらくいかなる選択をしていても死を免れることはない。父、母 親の死を見てきた淀君にとって、家康への屈服を断固拒否した最期こそ、戦国女性の誇りであったのだろう。
          
          
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