第109回 荘厳に涙の播磨・浄土寺阿弥陀三尊像

  〜仏像背後から照らす落日の余光〜

 姫路の帰りに、立寄りたい寺があった。JR加古川駅加古川線に乗り換え、粟生へ向かう。加古川線は福知山と播磨を結ぶローカル線で加古川沿いを北へのぼっていく。粟生は田園地帯の中にあり、北条電鉄と神戸電鉄が乗り入れしている。北条電鉄は姫路の北にある加西市と粟生を結ぶまことにのどかな鉄道で、例にもれず赤字に苦しんでいる。神戸電鉄は粟生から神戸市のベッドタウン鈴蘭台までのびる都市近郊線である。
 目的の寺は浄土寺。粟生から2駅目が小野。JR加古川線にも小野町駅があるが、こちらは浄土寺より離れ、神戸電鉄の小野下車が便利だ。バスで10分もかからない距離であるが、歩いても1時間たらずで新緑の散策にはほどよい。
          
 このあたりは東大寺荘園のあった大部(おおべ)庄跡になり、奈良とはつながりは深い。バス停近くから堂の屋根が姿を見せる。鎌倉時代初期、源平の戦いで焼 失した東大寺復興のため、大勧進の重責を担った俊乗坊重源(ちょうげん)が建立した。 石段をのぼり、境内に足を踏み入れる。中央の池をはさんで浄土堂と 薬師堂が向かい合う配置は珍しい。重源が寺を建立したのは建久3年(1192)。重源61歳。
 浄土堂(国宝)は大仏様(よう)の建築。飛鳥や天平時代は中国の影響を受けた寺院建築がすう勢であったが、平安時代には和様が取り入れられていく。宋の建築 は大仏様が特徴のひとつで、屋根のそりがなく、平べったい印象をうける。現存の代表建築では東大寺南大門とここぐらいしか残っていない。大仏様といって も、大仏殿の形式を意味するのではなく、別個の建築スタイルで天竺様ともいわれていた。
 重源は保安2年(1121)に紀季重の子として京に生まれ、武士台頭の時代に出家し、醍醐寺で学んだあと法然を師にして念仏専修の道を歩み、比叡山、高野 山、大峰山で修行を重ね、各地を遊行しながら社会活動に取り組んでいる。漂泊の聖の先人、奈良時代の高僧、行基を師に仰ぎ、仏法と社会奉仕の足跡と重ねて いる。
 行基天平年間、仏教の民衆布教の禁を破り、階層を問わず仏教の教えを説いた。布教の道々で寺を建て、橋、道路、池をつくり、困窮者の施設など社会事業を行った。朝廷から再三、弾圧を受けるもはねかえし、終には聖武天皇から大仏造営の責任者に招聘された。
 重源は宋にも留学し、ここで臨済宗開祖の栄西と知己を得たのをはじめ、宋の建築技術を学び、帰国後は橋や寺の土木建築、工芸の経験を積み、宋人のグループをまとめ、宋風の文化を広めた。
 重源と東大寺の結びつきは定かでない。後白河法皇の命を受け視察の藤原行隆に再建を進言、この進言により、大勧進職に抜擢された。当時、無名の僧が大役を担 うのは異例で、最初、法然に話がいき、法然が辞退して重源を推薦した説もある。ただ、技術、費用、資材調達は困難のため、誰もが引き受けるのをためらっ た。
 重源は勧進職につくと、卓越したマネージメントを発揮した。全国を歩く高野聖のネットワ−クを生かした資金集め、頼朝、後白河法皇など実力者を取り込み、再 建の体制を整えた。拠点になったのが東大寺別所だった。重源は周防、播磨、備前、伊賀など7カ国に別所を建て、再建の資材を確保するかたわら、庵や堂を修 行や布教の道場にしている。
          
 別所は本拠地を離れた土地に別院を建て、道場にして布教する一方、資金、材木を調達して奈良へ送る荘園管理事務所の役割があった。重源は宣伝能力に優れ、一 輪車6台をつくり、東大寺再建の詔書勧進疎を張り巡らし全国を行脚した。60歳の高齢とも思えぬ行脚は抜擢をやっかむ僧たちの口を封じ、信奉者を増やし ていく。この頃、西行に奥州平泉の藤原氏への協力を依頼し、西行を旅立たせている。当時、後白河、源頼朝、平泉の藤原秀衡が相克する混乱の中にあった。平 家滅亡後の飢饉と地震に苦しむ庶民からは仏教存在の意義を問われていた。東大寺再建は救世の旗になり、民衆は支持した。
 重源は大仏開眼法要を終えて、再建計画の第二段階を迎えた建久5年(1194)に播磨・浄土堂を建立した。法然は承安5年(1175)に専修念仏を唱え浄土 宗を開いている。法然は重源について「支度第一」と、彼の実務能力を称賛している。浄土堂は専修念仏の道場として地域にも開放されたのだろう。私が重源の 演出を聞いたのは、NHK大阪放送局の女性プロデユーサーからだった。教育TV「国宝を訪ねて」担当していた彼女はいろいろなエピソードを語り、なかでも 浄土寺の撮影裏話が耳に残っていた。「仏像を撮影していたカメラマンが背後から夕日あびる姿に感動して泣いてしまったのです。他のスタッフも、もらい泣 き」
         
 一度は訪ねてみたいと、思いながら、15年経過していた。浄土堂は境内の西よりに東面して建っていた。薬師堂のある東面は森なのに西は樹木はない。夕陽を堂 に採光するためだ。三間の仏堂で、柱間が20尺(約6㍍)と広い。屋根は直線的で反りがなく、軒も低い。東面に堂の入り口があり、西面は蔀戸になっていて 格子の戸を半開きにして吊り下げられるしかけだ。戸の内側は明かり障子で夕日をやわらく受け止め、仏像の背後から内部を照らす浄土演出をしている。蔀戸は 平安時代寝殿造りに採用されたいわば窓の元祖。蔀は日光や風雨をさえぎる意味で、格子を組み、間に板をはさみ、外へ吊り上げて採光するが、普段は戸を閉 めておけば内部を保護できる。
 堂の内部へそろりとはいる。明るくもなく、暗くもない。外から見る堂は低い屋根であったが、内部は広壮な空間になっている。中央に太い4本の柱を立てて円形 の仏壇に阿弥陀如来像を真ん中に、左は観音菩薩、右は勢至菩薩が並ぶ。天井をはらない化粧屋根裏は高さ5㍍30もある阿弥陀如来をすっぽり包んでいる。両 脇侍も3㍍強もあり、見上げるばかりの大仏である。
 像の作者の快慶は運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師。東大寺興福寺の復興にたずさわり、多くの仏像を残した。阿弥陀如来の目じりまで見開く切れ長の大き な目。快慶の特色であるとともに、宋仏画の特徴でもある。この大きい仏像をあの狭い入り口からどうして運び込んだのか。横にしても無理である。ばらして と、考えたが、三尊の根幹材は台座を貫通して須弥壇下まで届き、礎石の角材で受けている。つまり、堂の外観完成前に制作され、堂と一体化した仕組みである ことを聞いた。堂と三尊像は切り離せない関係だ。
 時刻は2時。太陽は堂の上を西へ傾きつつあるが、寺の拝観時間は5時までのため、4時半がぎりぎりの時間だ。5月の陽光が半開きの蔀戸をくぐり、床を照らし ている。仏の足元が明るい。NHKスタッフと同じ感動を味わいたい一心で、1時間余、光の移動を観察した。光の反射は三尊の手、顔を照らしていく。
          
 重源はここに信者を集めて経を唱えた。刻々と,変 わる光の演出は阿弥陀如来の表情も変える。こんな演出をどこで学んだのか。宋人の工芸師、陳和卿(ちんわけい)のアイデアなのか。陳は大仏鋳造に尽力し、 頼朝は褒美の甲冑などを与えるが、陳は多くの人間を犠牲にした人間からもらえない、と、受け取らず、逆に頼朝を感激させた逸話が残る。陳は播磨大部庄一帯 を与えられるが、重源にすべて寄進した。
 重源は像を高野山にある中国の仏画をもとに制作した(『南無阿弥陀仏作善集』)といい、この図は中国、明で描かれた阿弥陀三尊来迎図に一致することが確認されている。重源は来迎の姿を堂の中で実現すべく、仕掛けをほどこした。
 来迎は浄土から阿弥陀如来が紫雲に乗って菩薩を伴い、死を前にしたものを迎えにくることをいうが、身内を失ったばかりの遺族がこの寺で三尊を見つめる姿を想像するだけでも胸が熱くなる。衆上救済。仏教は国家、貴族から軸足を移して民衆とともに歩み始めていた。
 三尊が夕陽に染まるまでは拝めなかった。NHKのビデオでは堂内が赤くなり、台座あたりが雲の漂う雰囲気をかもし出していた。カメラマンが余りの荘厳さに息 をのみ、涙した瞬間に立ち会えなかったが、床の反射光に浮かぶ三尊の姿は感動的だ。秋から冬なら日没も早まり、閉館までに来迎図の世界が広がるかもしれな い。秋の夕暮れ、日没直前に見られる緑の光線を浴びた仏様に遭遇できる可能性もある。
 ヨーロッパでは幸運の兆として歓迎される緑の光線は気温、快晴、風など条件がそろわないと、めったにみることはできない。北海道の紋別あたりの冬の朝、朝日が 緑色してのぼってくる現象とちょうど逆になる。太陽は赤、青、黄の光を発しているが、青の波長が長く、沈んだあとも青の光線が残り、周りの黄とまじって緑 の光になるという。。
 赤に染まった三尊が日没寸前に緑の光を浴びる瞬間に遭遇した播磨の人たちは目に涙をため、念仏を唱えたにちがいない。舞台と客席がひとつになった時、演出者 の思惑を越えた舞台空間が生まれる。浄土堂なら来迎図の世界だ。大仏殿再建後の重源の足跡は謎の部分も多く、後にかれをねたむ僧の中傷で身をひき、鎌倉の 海で消息を絶ったともいう。
 寺から駅までの帰り道、三尊の姿を思い浮かべながら、重源の求めたものは、民衆救済にあったと、確信めいた気持ちになった。浄土寺から吹く五月の風はなんとさわやかなのだろう。
         
     メモ
  浄土寺 拝観時間午前9時から午後5時(正午から午後1時まで閉館)。10月から3月午後4時まで。500円。写真撮影不可。絵葉書有。
     問い合わせ0794(62)4318
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