第106回  小京都津和野をゆく

  〜 文豪鴎外の故郷と城下に秘めたキリシタン殉教〜

 

  3月の声を聞くと、(乗り鉄)の虫がさわぐ。青春18キップが発売されるからだ。JRは春と夏、12月の3回しか発売しない。学生の休みに合わせた措置そうだが、いまどきの学生が青春18をどこまで利用しているか疑問に思っている。還暦過ぎたモトワカ(元若)のほうがはるかに利用しているだろう。1枚のキップ(2300円)で1日時間いっぱい電車にのれる。途中下車も自由だ。5枚つづりで1万1千円の運賃は時間に余裕のある大人には魅力的である。若者は先をいそぐ。やることが多い。
  さてどこにするか。これが楽しい。朝から夜まで各停乗り詰めで行ける距離は京都から東は仙台、西は宮崎あたりが限界だろうか。1日で往復となるともっと狭くなる。東は東京付近、西は山口が折り返し地点。山口線で津和野、さらに益田から山陰本線で京都へ戻るコースである。
  京都―新山口は上郡まで快速で2時間25分、上郡から岡山まで55分、岡山―岩国3時間45分。新山口には京都7時29分に出て16時35分に着いた。途中乗り換えは4回で9時間余の電車旅になった。
  目的地は津和野である。新山口から1時間20分足らずで津和野。SL運転は3月下旬からのため、キハ系の気動車が中国山脈の懐深くはいって行く。雪はやまかげに残るのみだ。
          
  津和野は南北にぬうように流れる津和野川に沿って細長く延びている。吉野山と城山に挟まれた城下町。津和野の名はこの地につわ蕗が生い茂っていたことからつ いたという。鎌倉時代、吉見頼行が山城を築き、14代320年間治めるが、関ヶ原の戦いで西軍につき、城を追われた。このあと、坂崎出羽守が城主になる。 坂崎出羽守は宇喜田詮家といい、関ヶ原では家康について津和野藩主になり、坂崎に改名した。彼は大阪城落城のさい、秀頼に嫁いだ家康の孫娘、千姫を救った 武将であったが、顔にやけどを負い、千姫を妻にする夢はかなわず、約束が違うと、実力行使のあげく自刃した。
          
  城下の掘割は坂崎氏の遺産だ。坂崎氏のあとに因幡鹿野藩から亀井氏が入封し、明治まで11代250年の治世が続いた。津和野の城下は亀井氏のもとで発展した。
  4万3千石の小藩であっても、殖産に務め、石州和紙と評価のある製紙業を興した。和紙は藩の専売品として藩経済を支え、日本海沿いの益田とともに石州和紙の産 地になった。石州和紙は障子紙、半紙などに利用され、山間部のため耕地の少ない津和野では米に代わる年貢に和紙を認めたため、生産がのびた。
          
  津和野では洋紙の普及で和紙づくりは廃れ、人形や工芸品の分野で伝統の紙漉き技術を守っている。津和野駅を降りて、しばらく歩くと、いきなり商家の家並みが 続く。薬、呉服、酒、和菓子の店が通りを挟んで並ぶ。本町通りの名がある。石見瓦を乗せた平入りの2階建てで連子格子の窓は風格に満ちている。やがて城下 の中心の殿町にはいる。道の両側は掘割になっていて錦鯉が泳ぐ。非常食を兼ねた鑑賞用が放流の始まりというが、食された記録はない。殿町の名が語るように かつて上級武士の屋敷が並んでいた。藩校である養老舘、なまこ壁の家老屋敷が3家。なかでも多胡家の薬医門は11代続いた家老の屋敷にふさわしい構えであ る。多胡家は殖産に才腕をふるい、多彩な人材を輩出した。
  屋敷町の景観に異風な建築が目にとまる。ゴシック式カソリック教会である。なぜ中国山脈の山ふところに教会があるのか。津和野を訪ねるまで風光明媚な小京都が秘めているキリタン弾圧と殉教の歴史を私は知らなかった。
  話は幕末の長崎にはじまる。徳川幕府は寛政2年(1790)、隠れキリシタン根絶の方針から浦上の拠点を摘発した。これを浦上崩れと呼んだ。崩れとは隠れキリシタンの摘発と処刑を意味した。摘発は維新前夜まで続き、慶応3年に4番崩れという大量逮捕、さらに明治2年は浦上一村から3394人の男女、子どもが流罪になり、明治政府は逮捕した信者を分散して隔離、改宗を迫った。摘発を「崩れ」というのに対して、拷問などで改宗することを「転び」といった。
  津和野には153人が送られてきた。津和野は藩主亀井茲監のもとで神道が盛んな土地で、維新政府の思想形成には津和野の学者の影響をみることができる。キリ シタン弾圧を推進したのは木戸孝允桂小五郎)である。明治2年、京都で開かれた御前会議に呼ばれた亀井茲監は「断罪せず、改心させるべし」と、主張した ことから木戸に「そこまでいうならやってみろ」と、指導者らを預かることになった。
           写真マリア聖堂
          
  カソリック教会から2キ ロ離れた廃寺で改宗のための生活が始まる。いずれも信教心篤いものの集りのため、やがて拷問による改宗になった。火攻め、水攻め、檻に入れての拘束、氷の 中にいれるなど峻烈を極めた。この結果、41人が死亡し、このうち36人が信教をまげない、と殉教者だった。また信仰を捨てずに生きながらえたものは68 人、拷問による改宗は54人を数えた。津和野での拘束期間に10人の子どもが生まれている。指導者の一人、守山甚三郎は克明な手記を綴り、当時の弾圧のも ようが後世に残された。
  当初、改宗は簡単なことと引き受けた藩は、あせりも加わり、容赦ない拷問が加えられた。教会には手記に基づいた殉教のパネルが展示され、ステンドグラスには拷問を受ける信者の姿が描かれている。
  明治にドイツ人ビリヨン神父が谷間の遺骨を拾い、埋葬したが、碑には「ドミニコ、裕次郎、14歳」など名前が刻まれている。昭和6年、ドイツ人神父が殉教者 のためにゴシック教会を建築、津和野に鎮魂の鐘を響かせた。さらに「長崎の鐘」で有名な永井隆博士が守山手記をもとに白血病の病床で「乙女峠の殉教者物 語」を書き上げ本にしている。
  殉教たちの拘束された場所は「乙女峠」の名が付けられ、マリア堂が建っている。錦鯉泳ぐ山間の町に残る信仰をまげない人間のすごさと、改宗をせまる人間の怖 さ。思想を蹂躙する権力に身震いすら覚えた。時代の転換期は、人間まで変える。まさか、が現実になる。明治6年、岩倉具視は欧米視察で日本のキリシタン迫 害を非難され、電報で報告したことから、全員の拘束を解いた。
  亀井茲監は地元では名君の評が高い。小藩にすぎない津和野藩の存在を高め、維新政府で発言力を持った。藩校の養老舘は神道思想形成の場になり、慈監は全国の 藩にさきがけて国家神道を実践、葬祭をすべて神社主導に変えている。キリシタン弾圧から廃仏毀釈による仏教排斥の流れの中心にいた。人材育成の善政を敷い た茲監と手段を選ばず浦上の民に改宗を強要した慈監の顔を思い浮かべて津和野を歩く。茲監は久留米藩有馬頼徳の6男に江戸で生まれ、亀井家養子になり、津 和野藩主。津和野の風土とは縁が薄い。どこか異質な感じがするのも江戸育ちのためか。
           森鴎外
  この頃、森鴎外は藩校に通い、秀才の誉れ高かった。鴎外は文久2年、代々藩の典医の森家の長男に生まれ、11歳まで過ごしている。鴎外は乙女峠の迫害を知っ ていたにちがいない。典医の父は検視もしただろう。多感な少年にとってこの事件を直視することも、目をそらすことも難しかった。父は上京のさい、鴎外に口 止めをしたかもしれない。鴎外は上京後、一度も津和野を訪ねていない。旅好きな鴎外からすれば理解に苦しむが、やはり、このキリシタン弾圧が背景にあった とみるのが自然だ。
  ドイツ留学中、交際し結婚まで考えたエリーゼ・ヴィーゲルトは小説「舞姫」のモデルになった女性である。彼女と教会を訪れた鴎外はオルガンと聖歌隊の歌に魂をゆすぶられ、涙したという。おそらく津和野の思い出がよみがえったのだろう。
  鴎外は明治政府の汚点になる出来事には一切、口をとざしている。ただ小説山椒太夫の中で、人買いの山椒太夫が逃亡した男に焼き鏝をあて、それを見た太夫息子 の長男が無言で親のもとを去るくだりが描かれている。ある人は上京した鴎外自身を長男に重ね、その後の歴史小説では社会底辺で苦しむ人に注ぐ目には津和野 の幕末から明治の歴史があるという。
  鴎外の旧宅は城山の東の津和野川傍にある。土塀をめぐらした生家は復元され、観光の名所になっている。6歳で論語を読み、8歳から藩校へ通った森林太郎の4畳半部屋も残っていた。隣りには著作、遺品、映像を紹介する記念館があり、鴎外の生涯をたどることができる。
  鴎外は一度も津和野に帰らなかったにもかかわらず、死を前に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と、遺言している。津和野は生涯、心から離れたことは なかった。乙女峠では毎年5月3日、乙女まつりが催される。まつりといっても殉教者にささげる荘厳なミサである。浦上信者を預かった諸藩の中には藩主、藩 士がかくまったところもある。津和野藩の対応は余りにも厳しかった。鴎外死後100年してふるさとに響く歌声はドイツ教会で号泣した鴎外が待ち望んだふる さとの風景にほかならない。
          【メモ】
      
  津和野名物はうずめ飯。 シイタケやニンジンなどを刻み、うす味に煮込んだものをご飯にかけて食べる。石見地方の山間部の食。カマボコや高野豆腐、わさび、ノリ、三つ葉を薬味にす る。手間がかかるため、飲食店ではあまり出さない。日本5大飯のひとつ。ちなみに5大飯は深川飯(東京)、忠七めし(埼玉・小川)、
  さよりめし(岐阜・中濃地方。さんまの炊き込み飯)、かやく飯(関西ほか)
  和紙展示館は鴎外旧宅近く.和紙漉きの工程を見学できる。展示販売も。

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