第129回 秋の近江京と大和を結ぶ天平の恋
〜白鳳時代の弥勒菩薩を訪ねて〜
私の住む大津市は 細長い。うなぎの寝床にたとえられ、古代から現代まで時代ごとに町がつくられ、琵琶湖に沿ってひらがねの「し」の字の大津ができた。琵琶湖の水運が栄えた 明治までは船が北は堅田から瀬田川沿いの石山寺周辺を結んでいた。現在は京阪電車の石坂線が石山寺と坂本をまこと、のどかに走っている。御多分に漏れず、 赤字路線のため、存廃の論議は大津市と京阪電車の間で細長と続いている。
大津が日本史の中心に躍り出たのは、1350年前の天智6年3月、蘇我入鹿を暗殺して権力を握った中大兄皇子が大和から近江への遷都を断行したことに始まる。
唐・ 新羅の戦いに敗れた国内の不満をそらす起死回生のかけだったと、いわれている。当時の大和朝廷は内に政争、外には唐もからんだ朝鮮半島の高句麗、百済、新 羅の覇権争いが日本にもおよび、内憂外患の様相をていしていた。百済がほろび、大量の百済人が日本に逃げてきた。その受け皿になったのが近江である。天智 7年正月、中大兄皇子は即位して天智天皇が近江の地で誕生した。当の律令制度をモデルにした近江令の制定、我が国最初の戸籍にあたる庚午年籍に取り組み、 近江に移住の半島からの帰化人の技術を取り入れた都づくりを進めた。
近江・蒲生野周辺には百済王族の余自信、鬼室集斯ら高官700人が移住していた。百済最高官位の「佐平」から土木技術者らは天智政権の中枢を担っていた。しかし、天智天皇は思い半ばで病に臥し、後継をめぐる息子大友皇子と、天智弟大海人皇子(天武天皇)の争いは壬申の乱となって、大津の宮を廃都にした。わずか5年の都だった。
大津宮はどこにあったのか、いまだに全貌は明らかでない。その所在をとく鍵になった寺跡が比叡山麓にある。『扶桑略期』(平安期の史書)はこう記している。
―天皇、大津宮に寝ぬ。夜半、夢に法師を見る。来たりていはく、乾の山にひとつの霊窟あり(以下略)。出でてかなたの山をのぞめば、火光細くのぼること十余丈可りなりー
崇福寺建立の縁起は、乾と反対の南東に大津宮があったことを教えていた。1974年(昭和49年)、その方角の近江神宮南の住宅地から大津宮建物跡が発掘され、江戸時代から続く大津宮論争はひとまず決着した。それまでは崇福寺のあった山裾の滋賀里が有力だった。
京阪電車の滋賀里駅から比叡山に向かって坂道になっている。通称志賀越えの道。両側の民家は穴太積み石垣で囲まれ、古道の面影を残している。穴太積みの職 人は滋賀里隣の穴太駅周辺に集まっていた。振り返れば琵琶湖が一望できる。天智天皇は当時の最新技術で尾根をけずり、平にして..崇福寺を建立した。飛鳥を離れた地に官寺。平安京はむろん、延暦寺の姿、形すらなかった。崇福寺は志賀寺とも呼ばれ、奈良時代には朝野の崇敬は篤く、奈良の大安寺、薬師寺、興福寺、法隆寺、東大寺などと並ぶ10大寺に数えられた。
崇福寺は平安期に、再三にわたり堂宇を焼失、寺運衰退して白鳳期の名刹の歴史を閉じた。発掘調査で堂宇跡が見つかり、『今昔物語』『元亭釈書』の弥勒堂、 講堂、三重塔、十三間僧坊、炊屋、湯屋など並ぶ伽藍が確認された。3つの丘陵の尾根に堂宇が分散して並んでいた。本尊は弥勒菩薩である。この仏像がどんな 姿であったかは定かでなく今昔物語にある「丈六」、つまり等身大の仏像が唯一の手掛かりになる。
弥勒菩薩とは、釈迦入滅後の56億年未来に現れ、人を乱世から救済する未来仏。仏教が伝来して間もない白鳳期は弥勒信仰が広まった。奈良時代から平安期に は、女性の心をとらえ、崇福寺の弥勒菩薩人気ぶりは紀貫之が古今和歌集で「しがの山越えに女のおほくあへりけるによみてつかわしける」と紹介している。
奈良時代には持統天皇治世下で崇福寺が悲恋の舞台になった。持統天皇は天武天皇の后で、父は天智天皇。天武には高市、穂積の皇子、但馬皇女の異母兄弟、妹が いた。古代は異母兄弟姉妹の婚姻は一般的であったから、高市と但馬は同じ館に住み、夫婦の関係にあった。そこへ穂積皇子が登場して但馬は心奪われた。但馬 は藤原鎌足の娘と天武の間にできた皇女。万葉集は二人の恋の歌を納めている。
天平の男は多妻であったが、女もまた恋に積極的で負けていなかった。持統は額田王をめぐり兄弟で争う父天智と、夫大海人(天武)の姿が頭にあり、穂積を崇福寺へ勅命で送り、引き離した。但馬は近江へ行く穂積に後を追うから、道に標をつけてほしいと、歌に託した。
後れ居て 恋ひつつあれば 追ひしかむ 道の隅みに標結へわが背
この歌の前にも但馬は激しい歌を詠んでいる。
人言を繁み言痛み おのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる
人のうわさなど気にするものか、なんとしてもこの恋はかなえてみせるという決意を歌にした。川は恋の障害を意味するが、高市は若死して二人の障害はなくなるも恋は実らなかった。
10数年後、但馬は死に、穂積は雪降る日、亡き人の墓をのぞみ挽歌を贈るが、但馬に一途な恋に応えられなかった男の悔恨がこもっている。
崇福寺の弥勒堂跡に立ち、但馬の思いを受けられなかった穂積をとりまく複雑な人間間関係に思いめぐらし、それにしてもここぞという時の女は強いと思う。とこ ろで三島由紀夫は崇福寺を舞台にした短編「志賀寺上人の恋」において人生で初めて美貌女性に恋した高齢の上人が都の女性宅を訪ね、手を握られた翌日、静か に息をひきとる話を書いている。男は惚れたら命がけという三島美学であるが、残念ながら万葉歌の女の迫力にはかなわない。
弥勒菩薩と但馬の恋歌が重なり、崇福寺は平安期に女人参詣でにぎわう。今昔物語は「丈六の仏像」としているが、形はわからない。ここからは弥勒菩薩のロマンである。
弥 勒菩薩で現存する同時期のものとしては京都太秦の広隆寺、奈良當麻寺、石光寺の仏像が思い浮かぶ。広隆寺は秦氏の氏寺として平安遷都以前からあり、聖徳太 子ゆかりの寺である。国宝弥勒菩薩の優雅な姿は朝鮮半島渡来か、日本制作かで論議を呼んだ。崇福寺も渡来人の協力で建立の経過から、広隆寺弥勒菩薩の姿を 考えるが、天智天皇ゆかりの奈良・當麻寺のほうが建立経過からして、崇福寺像に近い気がする。
當麻寺は近鉄南大阪線當麻駅か ら歩いて15分の二上山裾にある。眼下に飛鳥宮跡が広がり、崇福寺と同じ構図の地形だ。この寺の弥勒仏は丈六の座像で、優雅さこそないが量感あふれた本尊 にふさわしい堂々たる姿である。像は塑像(粘土)のため、漆を塗り、その上に金箔を張り付けている。7世紀末の制作の考証から我が国最古の塑像といわれている。
この寺から歩いて10分の山麓に石光寺がある。天智天皇勅願寺。近江京へ移る前、天智天皇は飛鳥宮で暮らしていた。ある日、山に光るものを見つけ、三石を掘 り起こした縁起は大津宮から山中に光りを見た崇福寺縁起とぴったり重なる。石仏は平成3年発掘され、新聞に大きく取り上げられた。
比叡山の紅葉がゆっくり近江の山裾までおりてきている。崇福寺跡の礎石に腰を下ろして、當麻寺、石光寺、広隆寺の仏像を幻の堂宇の中に置いて見た。像が脳裏に浮かびあがる。あっ、幻の弥勒菩薩。叫ぶ間もなく消えた。
まだ仏像がない時代、インドの僧は何日も山にこもり、仏にあうことを祈願したというが、まさかである。秋の午後のいたずらだろう。
☆メモ
桓武天皇は天智天皇をしのび、崇福寺に隣接地に梵釈寺を建立している。崇福寺のほうが寺格は上だったが、両官寺は平安期の寺運は隆盛し、宗派に関係なく諸宗 兼学の研修道場として僧を受け入れた。山越えの道上に崇福寺跡の碑がたつが、正確には盆釈寺跡で、崇福寺は谷越えの尾根になる。近江神宮には崇福寺跡から 発掘の舎利容器を展示。