第111回 北アルプスの麓で刻まれた愛の相克と女像

  〜大糸線でフォッサアマグナをゆく〜

  大糸線の車中の人になった。大糸線は松本と新潟の糸魚川を結ぶローカル線であるが、アルピミニストにとっては夏冬、通いなれた山の銀座線。6月の信州は緑 が光り輝き、まぶしい。松本駅を発車の車窓の進行左にはまず端正な三角錐常念岳(2857㍍)が現れた。大糸線は3000㍍級の北アルプスが座をつらね てそびえる。
  日本文化は東日本と西日本に大きく色分けされている。中部山岳地帯が境界になっている。この下にあるのがフォッサマグナ(大きな溝)。糸魚川―静岡構造線である。東日本大震災以来、列島の火山が活発になっているが、その大半がここフォッサマグナに集っている。
          
  溝は大糸線の走る地下を南北にのびている。日本海に注ぐ姫川はさしずめ構造線北の道案内だ。南は諏訪湖を源流にする天竜川が太平洋へ注ぐ。鉄道なら飯田線である。飯田線は春に(のり鉄)したから、大糸線を北上するなら、電車でフォッサマグナの走破を完了することになる。
  電車は穂高駅に着いた。途中下車して日本に近代彫刻をもたらした安曇野出身の彫刻家萩原碌山の作品を展示する碌山美術館へ向かう。大学1年の夏、霧が峰でグ ライダー合宿の帰り、穂高で降りたのが最初で、案内に導かれて碌山美術館にはいった。当時は本館と杜江舘しかなかった。彫刻はまったくの白紙で、碌山の名 もここで知った。ベンチにもたれ、解説パンフで読む若くして死んだ彫刻家と相馬良安曇野の出会いは、19歳の私にはあまりにも刺激的だった。彫刻はさら りとしか見ていない。
  屋根の上に尖塔を乗せた赤レンガの建物は、北欧の教会の趣きがあり、アルプスの山並みとみごとな調和をしている。美術館のベンチに座り、碌山をしのびつつ眺める安曇野。座り心地の良さと風景でここに勝るところはないだろう。
          
  碌山は明治12年(1879)、安曇野の農家の5人兄弟の末っ子に生まれた。17歳の初夏。常念岳をスケッチしていた荻原守衛(碌山)は白いパラソルの若い 女性から「こんにちは」と、声をかけられる。結婚して安曇野へ移ってきた相馬良との運命というべき出会い。良は後に「木綿縞の半纏に雪袴、丸い顔が初々し かった」と、印象を書いている。碌山は、魅せられたといってもいい。良は嫁ぎ先の夫相馬愛蔵宅で碌山に油絵を見せ、碌山を西洋美術の世界に招きいれた。二 人の出会いを碌山研究家は「断ちがたい絆をつむぐきっかけになった」と論評している。
  美術館には碌山の彫刻が展示されている。代表作の「女」。相馬良をイメージし、モデル説もある作品は手をうしろに組み、ひざまずいた女が立ち上がるポーズを している。安曇野を再び訪れたのは記者生活3年目のころだったと思う。その頃の私は転職を考えていた。アフリカを旅したいなど青臭い、夢にとりつかれてい た。センチメンタルジャニーの気分で碌山の作品をながめ、「女」の姿にたちどまり、ポーズと螺旋状の体の曲線にみとれた。つけやきばの美の心と本物の助平 心が合体した感情でぐるぐると回った。鑑賞の女性たちは「なぜこのポーズを」と、よく質問するという。美術館では「秘められた愛」を語るのが常だ。絵画と 異なり、彫刻は上下左右、裏表自由に鑑賞できる。この「女」は正面より斜め後ろからの姿がいい。明治以降の日本人の彫刻作品で最初の重文指定を受けた碌山 31歳の作品である。石膏の原型は東京国立博物館にあり、ここにあるのはブロンズ複製である。完成直後、喀血して碌山は世を去った。この「女」のポーズに ついて書くには相馬良の生い立ちから、はじめなくてはならない。
          
          
  相馬良の旧姓は星良(ほしりょう)。碌山より3年早く仙台藩士の家に生まれるも、家は貧しかった。12歳で洗礼を受けたクリスチャン。小学校卒業して裁縫学校へ行くも、向学の志強く、学費のかからないミッションスクルール 宮城女学校に入学。ところが学生のストライキ事件に連座して追われ、横浜フェリス女学校へ転校した。良は自伝の中で仙台の暮らしを「陰惨きわめた家の中」 と、書き、ここから脱出する道を探していた。良の美貌は子どもの頃から評判で学校に替え歌まであった。美しい少女は内に激情を秘め、母の妹のいる東京に単 身、乗り込む。叔母は医師の妻で、家には作家や記者らが集り、叔母の娘に国木田独歩の妻になった佐々木信子がいる。
  良はフェリスの教師から島崎藤村、北村透谷の存在を教えられ、彼らの講師をしていた明治女学校へ再び転校した。明治という時代は不思議な時代で、志ある少女が果敢に挑戦していくことを受け入れていた。現代で同じ境遇の少女の夢がかなうか疑問である。
  良は独歩を通じて作家や画家など芸術家の知己をえるが、結婚を考えた相手はいなかった。あの貧しさから脱出できる家庭こそ良の結婚感だった。良の選んだ相手は安曇野の資産家次男相馬愛蔵。周囲は驚くが、彼女にすればなんの戸惑いもなかった。
  安曇野の生活は退屈だった。家事もしなくてよかった。碌山との出会いはそんな日々の中で起きた。碌山が意識したほど良の頭に碌山はなかった。相馬夫婦は上京 してパン屋を買い取り開店する。新宿「中村屋」の前身になる。クリームパンは良の発明から世にでた。事業家としての素養があったのか、中村屋はわずか7年 で軌道にのり、中村屋には多くの芸術家が出入りし、中村屋サロンを形成した。多忙な日々にもかかわらず、良はすでに3人の子どもを産んでいた。碌山が中村 屋を訪ねたのは事業に成功したころである。
  良と再会した碌山はアメリカに留学、バイトしながらデッサンを学び、フランスへ渡る。ロダンの作品に魅せられ、アカデミーで彫刻を選び、短期間で学内グランプリを得る新進作家に仲間入りした。ロダンに会い、指導も受け、帰国した。
  中村屋近くにアトリエを構えた碌山は制作のかたわら良の家に出入りし、夫の間に溝ができていた良の相談相手になった。碌山は良への思いを告白、なぜ離婚しな いと迫るが、良はためらう。愛情がすべてとはいえなかったからだ。妊娠もしていた。碌山は生れた次男を可愛いがり、風聞では良との間の子ども説もながれ た。次男は病にかかり、碌山は看病する良と子どもの姿をデッサンして「母と病める子」を制作したが、次男は死亡する。
  碌山は悲しみから立ち直る良の姿を見て遺作になった「女」の制作にかかり、完成した。モデルは別の女性であったが、良もなんどかポーズをとったかもしれな い。帰国して3年目の春、碌山は喀血して息をひきとる。突然の死に近かったが、本人は結核にむしばまわれた体をわかっていた。良は死後、アトリエでみる 「女」の作品に絶句する。像はしがらみから立ちあがる「良」にほかならなかった。「胸はしめつけられ、息はとまった。立っていられなかった」と、述懐して いる。美術館の入り口に碌山の言葉がかかる。
  LOVE IS ART、 STRUGLE IS BEAUTY
  愛は芸術、相克は美と訳されているが、「女」のもうひとつの題でもある。
  良はその後、中村屋を発展させ、サロンの主宰者として文人、画家らを支援、制作プロデュースする一方、計9人の子どもを産んでいる。「傲慢、我執の標本」と自らを語り、78歳で死亡した。
          
  安曇野の6月は人も少なく、歩くには適している。臼井吉見は小説『安曇野』で相馬夫妻、碌山らの絆と風景を紡ぐように描いている。100年前、小説や映画の フィクションでも描ききれない良と碌山の出会い。このシーンを思い浮かべて歩く。胸に迫るものがある。日本の近代彫刻の扉はここから音立てて開いてゆく。 日本の美術史でこれほど美しく、ロマンチックな遭遇はないだろう。
  穂高駅から再び、大糸線に乗った。1時間に1本のダイヤ編成のローカルながらシーズンには新宿から特急が走り、ひなびた線に都会の風を運ぶ。松本―糸魚川 105キロ、42の駅がある。南小谷まではJR東日本、そこから北の糸魚川までには西日本の管轄になっている。ここは静岡―糸魚川構造線(フォッサマグナ)である。深さ6千㍍の溝がのびている。昔、昔の大昔、1500万年前は海だった。西の陸地と東の陸地が押し合い、合体してできたのが日本列島。そのエ ネルギーはやがて収縮し、その圧力で西縁は隆起して北アルプスが生まれ、地下のマグマは噴火を繰り返して火山脈を東につくった。簡単にいえばこうなる。
  最近の地震、火山活動について一部の学者からフォッサマグナの関係が指摘されている。地殻の変動はその成り立ちを考えるなら、地球の修復活動現象に過ぎず、 これを避ける方策はない。車窓からの北アルプスに見とれつつ、山並みは地溝帯の天辺に位置し、地中深くつながっていることを改めて思う。昔の人が山を敬 い、山岳信仰の対象にした大地に対する感性、畏怖は登山の哲学であるべきだ。山は動く。人間の情念を科学で否定する愚は犯してはならない。
  35分で信濃大町北アルプス登山の玄関口。碌山と相馬良の出会った明治中期から末にかけて高山植物宝庫の白馬岳登山が学者、学生に広まり、大正初期に近代登 山の幕があく。大町で乗り換え、二つ目の駅が簗場。ここはフォッサマグナの断層に位置し、標高800㍍の地に周囲6キロ㍍、深さ60㍍の青木湖など3つの 陥没湖がある。流入川はなく地下の湧水が水源になっている。北には日本海と松本平を結んだ千国街道、いわゆる塩の道が通っている。西に鹿島槍がそびえ、さ らに西が黒部峡谷。白馬は簗場から4駅目である。駅名は「はくば」だが山は「しろうま」。白馬から急流・姫川が寄り添って流れる。
  姫川はひすいの川で知られ、支流の小滝川の谷底には数百トンともいわれる原石が露出しているが、天然記念物の採掘はできない。大糸線の管轄は南小谷でJRの 東日本と西日本にわかれ、糸魚川までの35キロは西日本が運行を受け持つ。穂高から2時間半の旅は終点糸魚川駅に到着して終わった。
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  メモ フォッサマグナミュージアム 糸魚川市の 南、フォッサマグナの断層露頭の近くにある。列島成り立ちから地震、火山活動などを立体的に解説。特産翡翠(ひすい)の展示はみもの。フォッサマグナの命 名者、ドイツ人エドモンド・ナウマンの遺品、業績も展示。ナウマンは明治政府の招きで来日した新進の地質学者。日本をくまなく歩き、地質図を作成、フォッ サマグナの構造を分析した。初代東大地質学教授。野尻湖で発掘の像の化石はナウマンの姓からついた。
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