第20回  京の旅 「仙洞御所」で風雅の庭に自由を発見  閲覧(536+238)   2008/06/25

粟津征二郎  E-mail : awasei-a@topaz.plala.or.jp


  京都の庭で穴場を教えてほしい。こんな注文を良く聞く。「社寺の庭は回ったから、市内の中心で、しかも静かなところ」。難問であるが、即答できる庭が仙洞(せんとう)御所。京都御苑内には明治までの天皇の政務、祭祀の場であり、住まいのあった京都御所のほかに、築地塀隔てた大宮御所、隣接して仙洞御所がある。仙洞御所は京都御所の東南に位置し、蛤門をくぐってそのまま真っ直ぐに行くと、京都御所の建礼門があり、さらに進み築地塀の途切れた角向かいが大宮御所だ。ここも築地塀に囲まれ、厳重な警備が敷かれているが、門前までは誰もが自由に散策できる。仙洞御所は大宮御所の南隣にある。京都御所は春、秋の一般公開を除いて観覧は許されないが、仙洞御所は事前に申し込みさえすれば、観覧できる。土日、祝祭日は公開していないが、平日なら前日、受付に申し込むと、翌日は観覧可能だ。往復ハガキの申し込みは3カ月になっている。

  大宮とは、皇太后太皇太后の継承である。つまり大宮御所は女院御所として造営された。この最初の住人が東福門院・和子。徳川秀忠と徳子の娘で、後水尾天皇中宮になり、2皇子、5皇女を産み、明正天皇の母。実母の徳子は浅井長政お市の3女で、茶々(淀君)は叔母にあたる。

  前回、小谷城址で書いた浅井一族の血をひく。明正天皇(女帝)以降も3帝の養母になり、皇室を支え、京都文化復興に大きな足跡を残している。隣接の仙洞御所は、退位した天皇の住まいで、内裏の御所を「上の御所」と呼ぶのに対して、「下の御所」とも呼ばれる。仙洞御所の庭を案内する前に、仙洞・大宮御所のできた経過、時代背景を説明する。

  1626年(寛永3)、徳川幕府は秀忠、家光が入洛、二条城に後水尾天皇中宮和子、公家らを迎え、5日間にわたり、歓待のかぎりをつくした。歴史上、有名な二条城行幸である。幕府の権威を朝廷に示す狙いもあった。幕府の朝廷に対する干渉は強まり、後水尾天皇は3年後、突然、退位を表明する。中宮・徳子にも寝耳の水の衝撃だった。皇位をまだ7歳の娘(明正天皇)に譲り、800年ぶりの女帝誕生に内裏はむろん、幕府も狼狽する。あつれきの中で、引き金になったといわれるのが、家光代理として天皇に謁見した春日局の参内。無位無官の家光乳母の謁見は前代未聞の出来事であり、公家たちは「朝廷の権威ここまで落ちたか」と嘆いた。

  幕府は後水尾上皇の心中を察知し、怒りを和らげるべく、退位後の住まいを造営する。これが仙洞御所であった。大宮御所とは廊下でつながり、広大な9万平方余の庭を共有する隠居所が完成した。退位したものの、実権は上皇がにぎったのはいうまでもない。後水尾院は仙洞御所を寛永の文化サロン化し、立花を好んだ院は半年に30回以上の禁中立花会を開いた。その後、5代の上皇の住まいになったが、建物は6度の火災で焼失、庭だけが残る。一方、大宮御所は遷都で大半は取り壊され、現在は天皇・皇后の京都行幸啓の宿所のほかに国賓が泊まり、故ダイアナ妃らが宿泊した。

  前置きはこのぐらいにして大宮御所正門からはいる。ここが京都の真中、すぐ近くに民家があり、車が走る。想像すらできない。大原、嵯峨野でさえ、これほどの静寂と、庭を歩くこと忘れて、自然に溶け込める場所は少ない。築地塀の周囲を歩いて、外から広さをつかんではいってみたものの、そんな事前の計測は役にたたない。広さは数字の面積でなく、目と感覚で計るものだと教えている。広さは実際の何倍にも感じるだろう。池と木々、築山の配置の妙が奥行きと広がりを与える。なによりも、この御所を包む、のびやかさ、解放感というか、樹木ひとつにも、制約がない。

  大きな池が北池。北に歩いて間もなく、6枚の切石を並べた六枚橋の前にくる。西の入り江は阿古瀬淵の名があり、近くにあったという紀貫之邸宅にちなむ。苑路は小高い丘になり、中島は鷺島と呼ぶ。この島ではないが、庭内の高い松に鷺がとまり、やがて、ゆるやかに飛び立つ。絵のようである。

  北池の南端からの苑路は、楓の木がつらなり、夏は緑、秋は紅葉が迎える。このまま歩くのが惜しい。立ち止まり、深山の池ほとりにたたずみ、風雅を楽しむ。

  仙洞御所は形式として南北の池の周囲を巡る回遊式庭園と、説明されるが、歩くだけの庭ではない。船を池に浮かべ、船上から花月風鳥を自由気ままに、味わう宴の舞台でもあった。庭のどからでも楽しめる。木々の梢まで甘受するのびやかさは、造園時の意匠を隅々に残しながら、かたちを変えて来た庭の歴史とも無関係ではない。小堀遠州のつくった庭は、絵図と見比べると、船着から東岸の土佐橋を渡り、出島あたりの直線状の切石積護岸に荒々しい石組の配置に姿をとどめる。いまでは作者の意図を超えて、庭もまた時代、時間を歩き、仙洞御所に染められた。

  徳川の権勢を示す時代を背景に生まれた仙洞御所には、御水尾天皇譲位のいきさつからして、江戸の思惑があった。金閣寺の僧、鳳林承章が日記に綴った御水尾院の寛永サロンから花鳥風月の宴は、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の上皇まで続く。この間、火災に遭い、御所再建を繰り返し、嘉永7年の火災を最後に建物造営はない。庭は御水尾院の手直しを最初に幾多の改変を経て、今日の姿に近くなったのは仙洞と女院を合わせた1747年(延享4)の桜町時代になる。桜町上皇歌人、冷泉為村に命じて「仙洞10景」を選定している。

  紅葉橋は北池と南池の水路にかかり、西岸には八橋南に州浜が広がる。州浜は京都御所の御池庭、桂離宮に取り入れられているが、仙洞御所の州浜の規模は最も大きい。水際に敷き詰められた丸石は小田原藩主で京都所司代の大久保忠真が石ひとつと、米1升と交換して小田原から取り寄せた。一升石の俗名がある。州浜からは山桜、松がのび、中島の八橋の眺めは花見時に限らず、仙洞御所の誇る景観である。

  仙洞10景の「醒花亭の桜」は、州浜から桜の馬場と呼ばれる苑路、その奥にある醒花亭からの花見時の遠望である。寛永の指図書には、名前がなく、御水尾時代の造営といわれるが、特定できない。庭園全体を南からのぞむには、ここが最高の位置に建っている。名前は唐の詩人、李白の「夜来月下臥醒花影」のに始まる詩から採り、明の文人、文徴明書の額がかかる。4畳半の主室には1間の床を配し、稲妻形の奇抜ともいえる違棚の書院を持つ。醒花亭東の築山は仙洞御所内で最も高い。さしずめ御所の丘で、悠然台と名がある。ここからは近接の町、祇園祭山鉾巡行の鉾が見えた。石段がいまは森の中の丘に続く。利休の「浮き世の外」のわび、奥山の庵を訪ねる趣がある。

  醒花亭から州浜に沿って苑路を歩く。北池からここまですでに1時間半を経過した。時間忘れ、参観の最後の紅葉山西北、又新亭に来た。外腰掛にすわり、参観の余韻に浸る。心をのびやかにする名園である。春の桜、秋の紅葉はいうまでもなく、夏の緑、冬景色もすばらしい。語り、歩き、伸び伸び風雅を楽しむ庭だ。桂離宮修学院離宮の陰に隠れているものの、京の旅にぜひ加えたい。


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