第65回 鎌倉歴史の旅 暗闘といぶし銀の輝き 津波に耐えた長谷大仏

  逗子開成のボート遭難に続いて、今回は鎌倉の歴史の旅をしたい。前回も書いたが、私は学生時代、航空部に所属しグライダーに乗っていた。最初の飛行が藤沢飛 行場から江ノ島、鎌倉を眼下に、西に富士山をのぞむ周回コースだった。藤沢飛行場はいまはないが、かつては海軍の訓練場で知られ、ちょうど空母のごとく周 囲は切り立った斜面になっており、眺望は素晴らしかった。合宿の帰りは藤沢から江ノ島電鉄で鎌倉まで出かけた。
  その頃は、歴史にさほど興味はなく、藤沢から鎌倉までの30分余の江の電風景のほうが印象深い。江の電は軌道と路面を併用しており、江ノ島駅を過ぎてからは 町の中を車や自転車とともに走り、車が線路にはみ出していると、警笛を鳴らして、立ち往生したことを覚えている。七里ゲ浜―稲村ガ崎間は海沿いを走り、開 けた窓から潮風の匂いが車内にあふれた。
     
  鎌倉は藤沢市と逗子市に はさまれ、相模湾に面している。海、山に歴史があり、歩けば史跡にたどりつく古都だ。藤原氏摂関政治から上皇が実権をにぎり、支配した院政時代を経て、 平家の台頭、さらには源頼朝が幕府を開いた源平盛衰期、北条氏執権の230年余が鎌倉時代である。中世の政権交代は、混乱と血なまぐさい政変をくりかえし ながら、文化、宗教面でも数々の足跡を残した。平安、戦国・安土桃山、江戸時代の影になりがちであるが、まさにいぶし銀の輝きが鎌倉時代にはある。ファッ ションに例えるならば、黒と白の基調に一点の銀のきらめき、と思っている。
  NHKの大河ドラマ平家物語』は、院政末期の京都などが舞台に、いまは、清盛の青年期を描いている。
   原作の平家物語は、鎌倉時代初期に生まれた。ただ作者や成立期について謎が多い。『保元物語』、『平治物語』とともに軍記物の範疇にはいるが、冒頭の一節 にあるごとく、鐘の音に無常の響きを感じる陰翳は、『徒然草』、『方丈記』の厭世感に通じるものがあり、仏教思想の根本といってもいいだろう。作者に僧の 姿を見る研究者もいるが、『徒然草』(226段)で吉田兼好は(信濃前司行長が生仏という名の盲目の僧に教えて語り手とした)と、書いている。平家物語 は、読み物系と語り部系の流れがあり、どちらが原型かは定かではない。
  信濃前司行長藤原行長という実在の人物で祖父は中納言だった。また兼好は信濃入道とも書き、その話から親鸞門下の高弟、西仏を作者にする説もある。 親鸞は釈迦の教えである諸行無常から説き起こし、歌を詠んだ。
  明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
  平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし」という一節は、平家への挽歌にとどまらず、鎌倉以降の文学、日本人の心に影響を与えた。
  平 家物語の名場面は熊谷直実平敦盛のくだりである。この時、16歳の敦盛は一の谷の合戦で直実に捕らえられるが、あまりの若い武将にわが子を重ねた直実は 討つのをためらうが、敦盛の「なにをためらう。はやく討て」の言葉に涙ながらに首を討つが、直実は後に心の苦しみから出家を決意した。謡曲「敦盛」は直実 が世をはかなむ心を舞で表現した。300年後の戦国時代、桶狭間の戦いに挑む織田信長がこの敦盛を舞うくだりは『信長公記』であまりにも有名である。
  (思えばこの世は常の住みかにあらず 草葉に置く白露、木に宿る月よりなほあやし 金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘はるる  
  人間50年、化天のうちにくらぶれば夢幻のごとくなり 一度、生を享け滅せぬもののあるべきか)
  NHKが平家物語を取り上げた理由に、物語成立の鎌倉時代の精神文化があったかどうかは、わからない。私は出家前の北面の武士、佐藤義清(西行)が登場人物に加わっているところに、その意図を感じている。
  西行こそ、平安末期から鎌倉期を旅した「無常」の人だからだ。西行は壇ノ浦で平家滅亡の文治2年(1186)、平家に焼かれた東大寺復興の寄金集めで奥州・ 藤原氏を尋ねる旅に出た。西行69歳。8月15日、鎌倉に立ち寄り、頼朝に出会った。場所は鶴岡八幡宮である。参詣の頼朝は境内にいる老僧に目をとめ、梶 原影秀に命じて尋ねさせたところ、噂に聞く西行とわかり、館に招き、歓迎した。『吾妻鏡』(鎌倉幕府編纂の史書)はこの日の出会いを記している。
     
  頼朝は西行に歌と流鏑馬について質問するも、西行の返事はそっけなかった。頼朝はしつこく問いただし、西行流鏑馬や歌を語りはじめ、歓談は終夜に及んだ。 翌日、引き止める頼朝を振り切り、旅立つ西行であったが、頼朝は銀製の猫を贈り、労をねぎらった。しかし、西行は門の外で遊ぶ子どもに銀の猫を与えて去っ た。
  鶴岡八幡宮への道は、鉄道を利用すると、鎌倉駅東口からのほうが近いが、浜を歩き、富士山と江ノ島を比べて由比ガ浜を北に向かう。参道、若宮大路がずいーと 延びている。大路の途中には、あの遭難歌の三角錫子先生の鎌倉女学院がある。若宮大路は全長1・8キロあり、二の鳥居から三の鳥居にかけて一段高くした歩 道が続いている。段蔓(だんかずら)。頼朝の妻政子が頼家妊娠したさい、安産を祈願して整備した。政子はこの道を歩いて参詣、頼家を生んだ。現在は500 ㍍にわたり、ツツジの植え込みと桜の並木になっており、4月には桜の花が舞う。
  西 行が頼朝と語り合った弓の極意、流鏑馬の舞台である馬場が東西に走り、毎年9月16日には流鏑馬祭りでにぎわう。始まりは文治3年8月15日、西行と会っ た翌年である。すでに義経との間は破綻、追われる義経は奥州平泉に逃げていた。頼朝にとって武勇の誉れを内外に誇示する必要があったのだろう。旅の僧、西 行から京で話題になることを計算したのかも知れない。
  若宮大路の散策は、800年余前の時代をたぐり寄せる。
  西 行が鎌倉入りする半年前、義経の妾、静御前が京から鎌倉に母親とともに送られてきた。義経の行方を質すためというが、頼朝が人質にした見方もできる。4月 8日、鶴岡八幡宮で頼朝、政子の前で静は白拍子の舞を踊った。固辞したすえ、半ば強制された舞である。お腹には義経の子がいた。史実には脚色があるが、平 家滅亡の殊勲者の弟の子を宿す女に、前歴の白拍子の舞を命じた頼朝の性格は、どう考えても陰湿である。静は吉野で別れた義経をしのび
  吉野山 峰の白雪ふみわけて入りにし人足跡ぞ恋しき
  しずやしずやのおだまき繰り返し昔を今になすよしがな
  吾妻鏡は静の舞を絶賛している。頼朝は激怒するが、政子がとりなして、その場を納めた。静は7月29日、男子を出産した。頼朝兄弟は平家に敗れたさい、幼い ため、救われて伊豆へ流され、義経鞍馬寺へ預けられたが、頼朝は弟の子はようしゃなく、由比ガ浜に沈めた。頼朝の心には氷の塊が沈んでいたというしかな い。
  ところで西行の鎌倉訪問は、静の男子出産の2週間後である。たまたまの偶然とするには、合致すぎている。頼朝が境内で見かけた日は八幡宮の行事の日であり、 西行は、その日を狙って頼朝に近づき、静の近況や頼朝の腹の内をさぐり、奥州で義経に会って伝えたという推測はできる。境内にたたずみながら、静の舞と、 頼朝、政子の顔を思い浮かべ、西行がこの旅で詠んだ歌
  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我がおもひかな
  な んども読み返して、それから2ケ月後、吹雪の平泉・衣川にたたずむ義経西行の姿を脳裏に描いた。西行の奥州の旅と義経の奥羽滞在の時期は重なるため、二 人は藤原秀衡屋敷で対面、西行から兄頼朝の話を聞いたにちがいない。義経は2年後、平泉の衣川で秀衡の息子、泰衡の裏切りにより31歳の波乱の生涯を終え た。静は京へ戻るも、消息を伝える文書はない。西行は平泉を訪ねた10月12日、こんな歌を詠む。
  とりわけて心もしみてさえぞ渡る衣河(川)みにきたる今日しも
  西行はその時、2年後の義経の死を予感していたというのは、小林秀雄である。西行に傾倒する小林評は同時代の藤原定家の歌には厳しい。
  心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮れ(西行
  みわたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮れ(定家)
  「二つの歌を並べると、詩人の傍らで美食家がああでもないかうでもないと、いっているように見える」と、までいっている。
  頼朝はそれから13年後に世を去った。頼朝の後は長男、頼家が継いだ。

  こからが鎌倉幕府の血なまぐさい暗闘が幕を開けた。政子の父である北条時政と、頼家の妻の父、比企能員の対立が表面化した。頼家18歳。幕府は13人の有 力御家人の合議制をとり、頼家の権限を奪った。北条、比企の対立に頼家も巻き込まれ、病弱の頼家は長男、一幡に譲ろうとするも、北条側は頼家の弟、実朝を 擁して対抗した。比企一族は、北条時政の暗殺をはかるも失敗、比企一族は滅び、頼家は伊豆修善寺に幽閉されたのち殺された。史書は母政子の役割をドラマ風 に描くが、政子にとって乳母の手で育ち、乳母一族を後ろ盾にする我が子頼家よりも実家の北条と次男実朝を選んだ。政子は実朝の乳母には妹の阿波局をあて、 育てた。
  実朝は12歳で兄の後を継いだ。京文化に憧れる実朝には、京の朝廷も好意的で、実朝の名も後鳥羽上皇が与え、妻も上皇の縁戚にあたる坊門信清の娘を迎えている。
  北 条時政は、実朝を自邸に迎え、将軍としての采配をふるい、幕府内を固めるが、後妻の牧の方と謀り、実朝暗殺を企てた。これにはさすがの政子も抵抗、弟の義 時の協力で父を伊豆に追放している。政権交代直後のごたごたは世の習いとはいえ、内部の敵と、京の朝廷に挟まれた実朝は孤立を深めていく。
  歌をよりどころに、数多くの歌を詠んだ。芭蕉は、弟子に歌人として誰を選ぶか、と問われ、ためらいなく西行と実朝の名をあげた。正岡子規も実朝に傾倒した俳人である。万葉調という実朝の歌
  箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
  風景を詠んだようでありながら、実朝の心の映した歌である。
  ながれゆく木の葉のよどむえにしあれば暮れても後も秋の久しき
  頼家、実朝時代の鎌倉はさながら陰謀と暗殺の都であった。武人の誉れ高い梶原影時、畠山重忠も謀反の罪で一族もろとも葬られた。
  承久1年1月27日、実朝は右大臣拝賀のため、鶴岡八幡宮に参詣した。2尺の雪というから、歩くのも困難な深い雪の日だった。八幡宮の石段を上り口の左に大銀杏の木がそびえていた。日が暮れ、あたりも暗い。参詣を終えて石段を下る実朝に頭巾をかぶった男が襲った。
     
  「父 の仇を討つぞ」と、さけび、実朝に切りつけた。男は頼家の次男、公暁。神宮寺の別当(寺主の次位)僧である。父の暗殺は5歳の時だった。政子にひきとら れ、12歳で八幡神宮寺の僧になり、20歳で別当職についた。この暗殺には神宮寺の僧も加担し、実朝の供をはばんでいる。公暁がいつ、叔父討ちを思いたっ た時期はわからないが、幕府の御家人で、実朝の相談役だった大江広元は異変の到来を知っており、また、政子の弟で執権の義時もこの日を予感したというか ら、公暁の腹は漏れ伝わっていたのだろう。
  義時にいたっては、実朝に同行しながら、途中で体調不良でそばを離れている。身を守る家臣もいなかったところに実朝の悲劇があり、鎌倉幕府内の暗闘がすごさがある。実朝28歳。彼の死で源氏の正統は断絶した。
  石段脇には、隠れ銀杏の名のある木が残った。公暁が銀杏に隠れて、実朝を待った話は後世の創作といわれるが、いきなり切りつけるには、木の陰に身をひそめるしかない。
  暗 殺の目撃した古木は、2年前、強風で倒れた。現在は切り株から新芽を茂らせ、隣には倒れた木の一部が並ぶ。石段をくだりながら、銀杏が見た惨劇を想像して、まだ政権をとって日の浅い武士のとまどい、おののきを感じる。人をたばね、統治する、したたかさを身につけないまま、内部抗争に明け暮れた幕府だっ た。
  実朝の死は、鎌倉武士たちに動揺を与えた。百人余の御家人が出家した。
  京都との融和を望んだ実朝の死は、京都に倒幕のきっかけをつくり、後鳥羽上皇は挙兵した。承久の乱の勃発である。
  鎌 倉をまとめたのは、政子だった。承久3年、朝廷への恭順か迎え撃つかで意見が分かれる御家人たちを前に有名な演説をする。本人自らの演説や代読によるかは 別にして、上皇を名指しせずに「逆臣の讒言(ざんげん)により、不義の宣旨が下された。京時代の苦労と、頼朝公の恩を忘れてはならない。宣旨に従おうと思 うなら、まずこの尼を殺し、鎌倉を焼き払いて、京へ参れ」と、告げた。実朝の墓を馬のひずめから守れ、ともいった。この演説は、御家人を奮い立たせ、承久 の乱に突入、鎌倉勢の圧倒的勝利に終わった。政子について室町期の史書は「日本は姫氏の国、女の治める国」と評価したが、江戸時代になって悪女の評に変 わった。政子は気性の激しさとやさしさを併せ持ち、事にのぞんでは果断であったことはまちがいない。
  承久の乱をもって、鎌倉幕府は京を抑え、頼朝の死から22年で政権は安定したのである。
     
  八 幡宮の石段を上りきると、楼門が迎え、奥に本宮がある。いずれも江戸期の建築(重文)で、楼門の構え、様式は神仏習合の八幡さんならではの山門の趣きが る。ここからは一直線の若宮大路がのぞめ、由比ガ浜が広がる。晩年の清盛といい、頼朝しかり、武士たちは山に囲まれた奈良、京を離れ、山を背にして海に面 した地形を選んでいる。
  鎌倉は鶴岡八幡の参道を軸にしてまちづくりが行われ、若宮大路の東西に幕府の施設が配置された。九州の鎮西奉行の下、宋貿易が盛んになり、九州と鎌倉を結ぶ海路で宋文化が鎌倉にはいった。
  鎌倉を代表する国宝、長谷大仏は宋文化の影響を受けた阿弥陀如来像である。八幡宮の西南の浜に近い、歩いても30分足らずのところにある浄土宗高徳院の本尊だ。奈良大仏より小さいが、露座の銅製仏像は、当初、大仏殿の中に安置されていた。
     
  山 に囲まれた京にはない、大津波に見舞われたのは、鎌倉幕府が滅亡、京が応仁の乱で揺れていた明応7年8月25日。東海・南海地震による10㍍ともいわれる 津波が若大路から大仏殿に押し寄せ、鎌倉は壊滅状態になった。当時の詳細な記録がないのは、被害が大きいかったためだろう。大仏殿は倒壊し、大仏が残っ た。以来、700年余、露座のままの大仏は、津波と風雪に耐え、地震津波の守護仏にもなった。与謝野晶子の歌は詠んだ。
  鎌倉や みほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
  川端康成の小説『山の音』には晶子の歌碑の前で「釈迦牟尼ではなく阿弥陀さま」という会話がでてくるが、ただ晶子は性別のない阿弥陀仏では「美男」と続かず、「釈迦」仏にしたといえなくもない。「みほとけなれど」の断りも意味ありげである。
  鎌 倉時代は法然親鸞の浄土信仰が武士や庶民に広がり、宋から帰国の栄西道元がに禅宗を起こした。鎌倉には臨済禅院の寺格をあらわす五山が開かれ、浄智 寺、建長寺円覚寺寿福寺が名を連ねた。五山は数ではなく最高寺格を指し、室町期には京都の大徳寺南禅寺建仁寺天竜寺、東福寺が五山に仲間入りし た。
  禅 宗に続いて日蓮日蓮宗、異色は鎌倉末期の一遍の時宗である。法然から日蓮まで比叡山で学び、道元栄西は宋という選ばれた僧の中で、一遍は旅を修行の場 にして念仏を唱えて歩き、民衆の心をとらえた。生涯、寺を持たなかった。藤沢にある時宗総本山遊行寺は死後、弟子(時衆と呼んだ)が住んだ坊が発展して伽 藍になったもので、時宗としたのは江戸時代になってからだ。
  学生時代、藤沢飛行場での飛行訓練では遊行寺が合宿所になり、若いお坊さんと一緒の生活をしたなつかしい思い出の地である。
  遊行僧と遊学生の組み合わせと、随分、失礼なことをいい、ここでお詫びします。


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