第96回  幕末揺るがす祇園祭の惨劇  

        〜近江商人の見た池田屋事件〜  

  近江商人小杉屋の番頭、元蔵は商いのため、京へ出てきていた。小杉屋は主人と元蔵のふたりが切り回す新興の店である。まだ近江五個庄に店を構え、出店は なく、京の商いは商人宿「近与」を拠点に商いをしていた。「近与」は三条木屋町にあり、商人の定宿になっていて、荷受け、発送もできた。いまでいうレンタ ルオフィスに近い。
            
  梅雨明け前の元治1年6月6日(新暦7月8日)、京の町に祇園祭の囃子が流れていた。元蔵は大阪から戻ると、京の町は大騒ぎになっていた。鉄砲、槍の兵が三条通を固めていた。
  「なにがおましたんですか」
  「小橋西の池田屋で浪士が大勢して人を殺し、会津彦根、桑名の諸藩が出張っていますのや」と、見物の町衆は答えた。これが元蔵の聞いた池田屋事件の一報であ る。新撰組池田屋襲撃は5日夜。一夜あけて町は平静を取り戻していたが、元蔵は事件の真相をまだ耳にしていない。詳細を知るのは一日後である。当時、新 撰組よりも壬生浪士が世間の呼び名だった。新撰組池田屋事件の2年前、京都守護職の下部組織として結成され、主に歓楽街、祇園、伏見の治安を担当した。 守護職の下には旗本らで構成する京都見回組があり、御所や役所の警備についていた。急進的な尊王攘夷長州藩に近い公家を追放した一年前の8・18宮中政 変で公武合体派の会津、薩摩が孝明天皇から信頼を得て、長州藩を排除し、入洛を制限した。この政変に新撰組は出動して評価されている。
  池田屋事件新撰組の名を京の町に知らせ、浪士の集団が見回組にとって代わるきっかけになった。
           池田屋の二階
  池田屋事件の発端は四条小橋近くで薪炭商、枡屋主人古高俊太郎が新撰組に捕縛されたことに始まる。古高の店があった木屋町四条からこの項を歩きたい。高瀬川 沿いは旅館や荷揚げの店が並び、活況を呈していた。川沿いには土佐、対馬、長州、肥後、彦根などの京屋敷があり、料亭は各藩の志士たちの密会や隠れ家に なっていた。同時に密告が相次ぎ、小杉屋元蔵は日記に「どこそこの店は密偵の噂がながれ、京の町は不穏一色に包まれ、うっかり口もすべらせない」と書いて いる。京の町は長州藩ひいきで幕府には厳しかった。それだけに町の警備をまかされた新撰組の探索は執拗で容赦なかった。
  古高の店、枡屋喜右衛門宅跡は現在、四条小橋一筋上ガル(北西)の路地奥にあり、「志る幸」という和食の店になっている。店の脇に『勤皇の志士古高俊太郎邸跡』の標石が立っている。かつては高瀬川に船入れ荷揚げがあり、店に出入りできた。
  路地の暗闇の灯りが150年前に案内する。枡屋は20人ほどの使用人をかかえた薪炭商で、筑前(黒田)藩の御用達を勤め、諸藩との商いの大店であった。枡屋 喜右衛門は仮の名で本名は古高俊太郎といった。商売は表の顔で裏の顔は長州藩や一部公家との間をつなぐ密偵を勤め、長州藩が頼りにする町衆であった。古高 は謎の多い人物で近江栗太郡古高(守山市)の郷士に生まれ、父は大津代官の手代を経て山科の毘沙門門跡の寺侍になり、俊太郎はそのあとを継いだ。
           枡屋跡
  毘沙門堂は京都五門跡として格が高く、門跡の慈性法親王有栖川宮家から入寺、また古高の妹は鷹司家に出仕するなど古高と公家のつながりは深いものがあっ た。池田屋事件は古高の捕縛を知った長州藩士らが急遽、集合して対策を練った夜に起こった。当時の京は新撰組をはじめ、長州藩士や浪士への警戒が厳しく、 危険このうえもない。にもかかわらず、なぜ表の顔は町衆にすぎない古高を取り戻す相談をしたのか。古高が長州藩の内情に詳しく、久坂玄瑞(妻は吉田松陰の 妹)、桂小五郎有栖川宮家をつなぎ、書簡の伝達など役割は大きく、自白によって藩や親長州の公家への影響を憂慮したからであろう。しかも枡屋の地下蔵か ら槍、火薬などが発見されていた。
  長州藩新撰組、公家などに密偵を送り込み、この情報のまとめ役が古高で、枡屋は長州藩京屋敷の情報センターという説は根強い。古高に関して、新撰組には店 に出入りする不審者の情報が届き、また古高と浪士の接触をマークしていた。このほか古高がよそから店の主人におさまったことに不満をいだく枡屋の番頭の密 告もあった。
  旧暦6月5日早朝、古高は捕まり、直ちに壬生の屯所(前川邸)に連行され、蔵の2階で拷問を受けた。すさまじい攻めに自白した内容は祇園祭の前の風の強い日 を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮(賀陽宮)を幽閉、一ツ橋慶喜松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ移すという驚くべきものであった。
           壬生屯所
  中川宮は伏見宮四男に生まれ、孝明天皇が信頼する皇族。公武合体に与し、松平容保とも交流があった。京の長州勢追放の8・18政変では中心的役割を果たした。
  新撰組は自白を得て、池田屋に踏み込んだのはなく、古高逮捕のあと、京都のめぼしい場所を探索して、長州藩ゆかりの池田屋に狙いをつけたことは、定説になっ ている。会津藩新撰組から要請を受けながら、約束の時間に現れず、新撰組独自に突入している。仮に自白内容の報告を受けているなら、模様ながめしている 場合ではないからだ。
  会津藩兵が池田屋に到着したのは踏み込みから2時間後である。新撰組から出動要請を受けてから4時間も経過していた。浪士集合の理由だけで切り込むには弱い。長州と事を構えたくない会津の政治的判断が出動を遅らせたのであろうか。
  池田屋三条大橋西詰北にあった長州藩士の常宿。長州藩の京屋敷(現在のホテルオオクラ京都)までは近く、新撰組はかねて内偵していた。事件後、池田主人は 捕まり、池田屋は営業停止。再開するも廃業に追い込まれ、代替わりして佐々木旅館に衣替え、さらにパチンコ店など経て現在は飲食関係の店になっている。
           三条大橋
  小説、映画、テレビなどでおなじみの池田屋事件には多くのフィクションが含まれ、史実と混同されがちだ。これは小説などが先行し、池田屋事件の研究は行われてこなかったことに起因する。
          
  参考までに池田屋事件のタネ本をあげると、『池田屋事変殉難烈士伝』(1904、西川太治郎著)、『新撰組始末記』(1928、子母沢寛著)、『池田屋事変 始末記』(1931、寺井維史郎著)いずれも戦前の著作だ。NHKドラマにもなった司馬遼太郎の『新撰組血風録』にも子沢寛の小説から引用したと見られる 架空の話や史実と異なる描写があり、読者は史実と受けとめがちだ。たとえば、新撰組の山崎丞が商人に変装してもぐりこみ、中から手引きするくだりがある。 しかし、山崎はこの切り込みには参加せず、壬生で留守番、後日、幕府から参加者への褒賞も受けていない。
  長州藩には古高捕縛の早朝、枡屋近くの対馬藩から連絡があり、留守居役乃美宣在らが対応を協議している。藩が表にでることはやめ、あくまで浪士の古高奪還の 線でまとまり、池田屋談合が決まった。池田屋に集結の浪士は20数名といわれ、正確な人数は定かでない。長州藩など浪士側の資料が少なく、大半は会津藩記 録、近藤勇書簡、永倉新八回顧録によって事件は構成され、史実との違いを指摘されてきた。新撰組近藤勇以下7名である。近藤は応援到着を待って突入を考 えていたが、夜10時段階で少数による踏み込みを決断した。
  表待機2人を残して4人で突入した。数の上では浪士側優勢で、事実、新撰組は沖田、藤堂両隊員が突入直後に離脱している。近藤勇の気迫が数の不利を補い、近 藤、永倉の二人で相手をパニックに追い込んだ。土方隊が到着までの2時間、池田屋の攻防が続き、多くの浪士は逃走した。この中に桂小五郎がいた。桂こと木 戸考允は後に自叙伝でその場に居なかった旨を記しているが、屋根伝いに逃げ、親しくしている対馬藩屋敷で難を逃れたのが真相のようで、自叙伝は戦わずして 逃げた言い訳と、見られている。いかにも慎重な桂小五郎らしい。
  池田屋内では階段落ちがあまりにも有名であるが、ドラマに出てくる大階段はなかった。
  新撰組会津兵が出動後も現地にとどまり、長州藩の壬生屯所襲撃の噂に備えた。翌日正午になって引き上げる新撰組に沿道は見物人であふれた。小杉屋元蔵が目 撃した京の町はまだ死体が放置され、道に血の跡がついていた。この出入りで池田屋集結または駆けつけた長州、土佐などの浪士や藩士9人が死亡、4人が捕縛 され、翌日さらに20人が縄をうたれた。
  古高ら事件の関係者が拷問を受けたのは壬生の旧前川邸と六角獄舎である。前川家は御所や守護職の金を預かる掛け屋で四条坊城下ルにあった。古高は前川邸の蔵2階で拷問を受け、自白した。事件から1カ月牢につながれ、7月20日処刑された。
  六角獄舎は前川邸西北、向かいは新撰組屯所の八木邸があった。四条大宮から西に3筋目の南、壬生狂言壬生寺のすぐ北になる。前川邸は個人の住いのため、中にはいれないが、八木邸は京都市指定有形文化財として一般に公開されている。近藤勇と対立した芹沢鴨暗殺の刀傷が柱に残り、幕末の暗闘を伝えている。
  池田屋事件新撰組の名を高め、朝廷・幕府から800両の報奨金が出ている。事件関係者に一人10両が分配されたほか、特別手当として近藤勇に20両、土 方13両、沖田ら10両、それ以外の隊員は7両を手にした。会津藩は面目を施し、容保と中川宮の関係はより緊密になっていく。
  会津の京屋敷は当初、黒谷にあった。現在の浄土宗黒谷金戒光明寺である。京都では黒谷さんと呼ばれているが、もともとは家康が二条城、京都所司代とは別に大量の兵を駐屯できる寺に仕立てあげている。門は南にひとつしかなく、参道は入り組み、城の構えに近い。
  京都守護は彦根藩の役割であった。井伊直弼暗殺の処理(病死扱い)、安政の大獄の責任をとらされ、10万石減封のうえ、京都守護など主要な役をすべて降り た。当然、混乱し、会津藩にその任が回り、池田屋事件の2年前、会津藩松平容保は周囲の反対を押し切り、入洛して黒谷を本陣にした。会津と長州の相克は この年から始まり、池田屋事件長州藩の倒幕・反会津の流れを加速させた。
  この事件では、勤皇浪士以外の民間人も多く捕縛され、刑死している。会津桑名藩は翌日、京の逃走の浪士一掃を指示、新撰組は歓楽街における探索を続行した。
  会津藩京都御用所は江戸、会津に事件の経過を知らせる急報を送っている。
  『6日、大銃打ち手も差し出し、祇園、大仏辺(大和大路七条)まで駆け回り、都合11人を召し取り、9人を討ち取った』
  大 銃出動は東山の長州行きつけの茶屋で長州、土佐の3人を不審者として捕縛したさい、裏から男が逃げ、会津藩の柴司が斬りつけた。土佐藩は不当ないいがかり と、怒り、新撰組と黒谷を襲撃論が出たため、それに備えた措置である。負傷した土佐藩士は自刃し、会津藩も柴に詰め腹を切らせてことをおさめた。まだ20 歳台の藩士が藩の面子で命を落とした。祇園の四条芝居場の脇茶屋の娘から長州屋敷に通報があり、藩士の吉岡庄祐が母親と斬り殺されたという。長州藩は「浪 士でなく長州屋敷のお役人と説明している女将をいきなり斬り、続いて吉岡を斬殺した」と所司代に抗議している。
  池田屋を離れたところで起きた殺傷は、会津、長州、土佐に遺恨のうねりとなって京を覆っていく。池田屋事件がなければというタラレバは研究者が好んでつかうセリフだ。維新を遅らせた、早めた両説あるが、会津側で見るか、長州側に立つかの違いだろう。
  一年前の政変で京への出入りを制限された長州藩は慎重、急進に割れていた。藩論は事件を境にして京進撃に舵を切った。高杉晋作らの慎重論を久坂玄瑞、真木和 泉らが抑え、「会津を叩きつぶせ」と、さみだれ式に京へ出発した。会津藩の記録では6月末から7月初旬にかけて200人規模の集団が武装して陣を構える、 と報告している。京駐在の将軍後見職一橋慶喜の長州対応は二転三転して会津にゲタを預けた。慶喜は水戸時代から英邁さで嘱望されていたが、激動の時代に 向かない指導者で、悪くいえば優柔不断。容保は慶喜のいいかげんさにあきれ、尾張藩などの徳川家に苦言を呈している。
  長州藩主毛利元親は、家臣の意見、具申に「そうせい」というだけの藩主であったが、高杉晋作の起用など人事の決断はすばやく、慶喜にないものを持っていた。 長州藩の急進派は「相手は松平容保のみ。これを討つ」と、息巻き、7月18日、天竜寺、天王山、伏見の3カ所から御所へ向けて進撃。禁門の変が勃発し、京 は丸焼けになった。御所周辺の旧家で「この前の戦争で焼けて」と、いえば禁門の変をさすほど京都の大火で、「ドンドン焼け」の名がある。
          
  戦いは幕府、会津側の勝利になり、長州は俊英の久坂、真木らを失い、幕府に恭順の意を表して、幕引きにした。
  近江商人小杉屋元蔵は禁門の変の翌日、おびただしい長州の死者が運ばれる姿を見ていた。藩の重鎮を失い、藩士に交じり、商人、農民らが加わった総力戦で敗れ た長州に再起の力はないと見られたが、高杉晋作のもとに再び結集した長州藩は、ついに倒幕を実現させた。戊辰戦争で執拗なまでの会津攻めは、池田屋事件か ら禁門の変にいたる憎しみが底流にあった。
  会津戦争に一人の池田屋事件関係者がいた。和田義亮(大沢逸平)である。大和の郷士から勤皇運動に身を投じ、池田屋には当日、手伝いとして志士たちの世話を していた。新撰組突入を知り、庭へ逃げ、風呂釜に隠れて生き残り、翌日、長州屋敷に駆け込み、事件夜について留守居役に語っている。1か月後の禁門の変で は長州軍に合流し、敗れた真木和泉の遺言を長州藩に伝えた。倒幕に立ちあがった長州藩と行動をともにして戊辰戦争を戦い、東北遠征して会津落城を見届け、 維新政府の官吏になるも京都に戻り、西陣織職人になった。晩年を織り一筋で過ごし、西陣振興に尽くした和田。彼の見た維新は青雲の志を抱き、求めた理想と はかけ離れたところへ進んでいた。どろどろとした暗殺は繰り返されていた。池田屋の敵を討てと、長州藩とともに会津戦争に加わり、悲惨な落城を見た彼は、 京で職人としての再出発を誓ったのであろう。維新の激流に身を置き、士官したのち、政府を去った草の根の志士たちは数多い。池田屋の生き残りの志士である 和田は激流にあって立ち止まり、刀を捨てた。祇園ばやしの音にのって、和田の西陣織に打ち込む息遣いが聞こえてくる。
  池田屋事件の翌日に現場にいた近江商人小杉屋元蔵は、商売よりも本好きの変わり者で通ったが、商いのセンスは鋭く、京に店を構え、御所の中川宮家にも出入り していた。容保が宮家を訪ねる場面にも遭遇している。本家が彦根藩領であった関係から幕府に親しみを持つ一方、勤皇運動にも共鳴していた。歴史書や本居宣 長の国学書を読み漁った小杉屋元蔵は、維新に期待していた。同じ頃、和田が歩いた東北を元蔵も戦火の中、商いのため、福島の山奥の宿にいた。混乱の世に揺 れる蝋燭の火の下で日記を綴り、手をかざしてみた日本の明日。御一新のあとに来た富国強兵の日本は、元蔵の考えた日本と、あまりにも違っていた。
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