第132回  作家藤沢周平の舞台を歩く

〜教え子から学んだ人間と故郷の絆〜

          藤沢周平

  私の住む大津市は 琵琶湖の南に位置し、湖北は北陸並みの大雪に埋もれて、南も一日雪模様の日が続いている。大津市内でも北部はアイスバーンで車の通行に難儀する冬である。 正月以来、こたつ番の読書三昧の生活になった。好きな作家は森鴎外松本清張藤沢周平の三人。最近は葉室麟のシリーズもひいきにしているが、読み返して 飽きないのは前記3人に尽きる。今年は藤沢周平没後20年で企画出版や記念展が予定され、こたつ番には文庫本の山ができている。東北人特有のねばりのある 文章と、透明感ある文体、少年期から青年期の心理描写はいつ読んでも郷愁を誘い、風呂に浸かり、思い起こしている。

  江戸ものもいいが、やはり海坂藩を舞台にした作品は東北の山と町が情感豊かに描かれ、そこでの切ない恋、お家騒動、チャンバラは読んでいてもわくわくする。

  海坂藩は架空の東北譜代藩である。江戸から120里の三方を山に囲まれ、北のみ海に面する設定である。海坂藩が最初に登場する小説は直木賞の『暗殺の年輪』。しかし、さほど印象に残らない。海坂藩と人の描写が鮮やかなのは『蝉しぐれ』である。

  ―城下からさほど遠くない南西の方角に起伏する丘がある。小川はその深い懐から流れ下る水系のひとつーこれが海坂藩紹介のイントロだ。モデルになる町はいうまでもなく郷里の鶴岡市で ある。「海坂」は結核治療のため、静岡に転地していた頃の俳句同人誌名からとっている。大海原は遠く水平線にゆるやかな弧を描く。このあるか無きかの弧を 海坂と呼ぶと、由来を書いている。ただ藩をながれる川は『暗殺の年輪』では北から南へ流れ、『蝉しぐれ』では蛇行して北東へ流れている。これは初期の作品 がふるさととの交遊が中断していたことも関係するのかもしれない。

藤沢周平(本名小菅留治)は昭和2(1927)年、鶴岡市高坂の小菅繁蔵、たきの4子に生まれた。庄内盆地の農家の生家は果樹が豊富で子どもたちを喜ばせた。山形師範学校を卒業後、隣村の村立湯田川中学に赴任、社会、国語を教えた。湯田川温泉はひなびた、情緒ある温泉町で、老舗旅館の「久兵衛」女将、大滝澄子さんは藤沢の教え子である。

  大 滝さんの思い出は「わずか2年でしたが、先生は背が高く、やさしかった。山へ連れていき、詩を読んだり、小説の話をしてくれ、クリスマスパーテイをクラス で開いた。先生とツリーを飾り、美空ひばりの『悲しき口笛』を一緒に歌った」と、地元紙に語っている。旅館には藤沢周平コーナーがあり、藤沢フアンの宿泊 客に人気がある。

  新米先生が残した最高の思い出は放送劇。自らシナリオを書き、生徒一人ひとりのセリフを用意した心配りは先生が去った後も生徒の胸に刻まれた。

  藤沢は集団検診で結核が発覚、入院のため、学校を去った。生徒たちは病気のためと聞かされたが、突然、姿を消した先生の安否を心配した。

  直木賞を受賞した藤沢は湯田川中学を講演のため、訪れた。20年の空白があった。結核で入院、東京、静岡に転地。回復して郷里で復帰のつもりがかなわなかった。病み上がりの男の就職は敬遠された。

  (わずか2年 で病気休職。教え子たちは40近い。私が話だすと女の子たちは顔をおって涙をかくし、私も壇上で絶句した。わたしの姿を見て、声をきくうち、20年前の私 や自分たちのいる光景をありありと、思い出したのではないか。講演のあと、教え子たちに取り囲まれ、「先生、いままでどこにいたのよ」と、なじる子もいて 父帰るの光景。教師冥利に尽きる。忘れていたわけではなく、一人ひとりの顔と声はいつも私の胸の中にあった。しかし、業界紙につとめ、間借りして小さな世 界で自足していたころ、自分の居場所を知らせる気持ちがなかったことは事実である。教え子たちにとってゆくえ不明の先生だった)

  湯田川中学に教師で赴任した当時の心境を『小説の周辺』でこう語っている。

  ―教え子は他人でなく新米先生もこの子たちのためならばなんでもしてやろう、と思ったー

  なんとも牧歌的と いうか、教育の原点、よき時代の教師と子弟の姿が描かれている。子どもたちが再会を涙ながら喜ぶ光景が目に浮かぶ。この講演を機に子どもたちと小菅先生の 交流が始まり、大滝さんの旅館が常宿になった。『蝉しぐれ』の海坂藩城下が架空の藩とは思えぬ息遣いが感じられるのは、再会でふるさとへの思いが深まった こともあるだろう。

 『蝉しぐれ』は藤沢作品の代表作にあげられるが、80年代の作品は秀作ぞろいである。

  私は『風の果て』『秘太刀の骨』『三屋清左衛門残日録』なども好きな作品である。

          

  『蝉しぐれ』は少 年時代の文四郎が蛇にかまれた隣家のおふくの血を吸いだしてやる冒頭シーンや祭り見物に連れていってもらう少女の表情、さらには後半の活劇展開など一気に 読ませる作品だった。『風の果て』は下級武士の子どもが重臣の婿養子になり、藩財政を立て直すも、かつて道場仲間の家老の息子と対立、血なまぐさい政争劇 のすえ実権をにぎる出世物語であるが、サラリーマン社会にそっくりあてはまる構図は業界紙記者の鋭い目が生きている。なかでも山間の新田開発にかけた主人 公のロマンは現代社会が失なって久しいメッセージになっている。

  藤沢周平は故郷へ帰るさい、一人旅を楽しみ、陸羽東線、西線の鈍行で鶴岡へ行っている。仙台の講演を終えて陸羽東線に乗り、小牛田から奥羽山脈を横断する路線は鳴子駅に停車する。この駅で降り、温泉町で ソバを食べ、コーヒーを飲んで次の列車で新庄へ向かった。県境の高原の小さな駅、堺田は、掲示板で芭蕉奥の細道の道筋であることを知った。堺田から一時 間で山峡を抜け、陸羽東線の旅は終わる。鶴岡には西線に乗り換えて庄内盆地にはいる。鶴岡は庄内藩酒井氏14万石の城下である。維新のさい、奥羽越列藩同 盟で会津とともに戦い、官軍ににらまれ、城下の様相は変わった。

  鶴岡市内には城下の名残りがあるものの、小説の海坂藩城下を思い描くのはむつかしい。

  武家屋敷にたたず み、また映画のロケ地を訪ねて小説の主人公たちを重ねていく。庄内藩校致道館は、小説では三省館でおなじみの海坂藩の青春舞台。上級、下級の差別なく遊ん だ藩士の卵は、年とともに進む道の違いを悟る。反発するもの、未来の重役にすりよるものなど生臭くなっていく。しかし、作者の目はひたむきに生きる青春を やさしく見守る。理不尽な仕打ちにめげず、前をむく青春はさわやかだ。藤沢作品の醍醐味だろう。内川(小説の五間川)の流れは、庄内藩の悠久の歴史を映し 出している。

  業界紙記者の藤沢は東京練馬に住んでいた。西武池袋線大泉学園駅の近くにあり、池袋まで30分余の距離である。私も西武練馬に下宿していた。フロ帰りに小さな寿司屋でゲソとギョク(卵焼)でビール1本が最高の贅沢だった。店の主人が「あいよ」といって、いわなくてもにぎってくれた。

  大泉学園は練馬から5つ目の駅になるが、練馬に比べてはかなり田園地帯の印象がある。下宿していた豊玉北の近くの畑から富士山を見た記憶があるから、当時の池袋線東横線などに比べて田舎線、のどかさが漂っていた。藤沢周平はこの都会と田園のはざまが気に入ったようだ。

  晩年の作『海鳴 り』は江戸商家の中年男女のいのちがけの不倫がテーマになっていて、密会の場面ははらはらどきどきする。海坂藩舞台の青春ものは幼馴染の別れと片思いが多 く、添い遂げた設定になっていない。しかし、『海鳴り』は夫、妻を捨てて駆け落ちして幕になる。読み終わり、よかったな、と思った。藤沢はこのラストをど うするか、悩んだようだが、悲劇の心中にするよりは、ふたりを見守る道を選んだ、と、『小説の周辺』で書いている。自分の年齢のせいかもしれないと、理由 を語っているが、私には道徳や規律に縛られない男女の愛情へのまなざしがあると、思えてならない。

  齢に関係なく「ここより永遠に」、という思い入れがふたりの乗った船の後の航跡になってのびている。

 

 

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