第131回  大政奉還から150年

〜幕末の暗闘を経て徳川崩壊〜

  徳川幕府天皇から委嘱されていた政治権力を天皇に返す大政奉還から今年は150年を迎える。徳川300年の終焉の年である。慶応3年10月14日 (1867)、京都二条城黒書院で将軍徳川慶喜が諸大名を前に政権返上を表明した。しかし、これですんなりと徳川幕府が崩壊したわけではない。黒船以来の 激動は朝廷、幕府で継続され、暗闘が繰り返された。

 4年前の京都。孝明天皇和宮と家茂婚姻の翌年,文 久3年(1863)、家茂は徳川幕府将軍としては家光以来、二条城にはいった。200年ぶりの将軍上洛に洛中は大騒ぎになった。禁裏御用達の和菓子「虎 屋」主人である黒川光正(名字帯刀許可)は二条城の物品調達係の役人から呼び出しを受けた。なにか粗相があったか、落ち着かぬ思いで城へ出向くと、和菓子 をつくってみよ、と命じられた。いくつかの菓子をつくり、銀一貫5百匁の前払いと二条城の通行証・御門鑑をわたされた。虎屋は天皇と将軍御用達になった。 宮中御用の商人にも次々と声がかかり、商人たちは緊張した。

  中京で店を構えていた近江商人小杉屋元蔵もそのひとりである。元蔵の本家は近江五個荘にあり、桜田門変後に彦根藩領から賀陽宮(中川宮)領に変更され、 元蔵は村と宮家との窓口役を勤めていた。御所内の宮家に出入りを許され、定期的に参内し、朝廷情報の一端を耳にしていた。家茂上洛の行列を見送ったある 日、参内した元蔵は賀陽宮邸を訪れる京都所司代松平容保とでくわした。賀陽宮は反徳川の長州とは一線を画し、池田屋騒動は公武合体派の中心を担う孝明天皇 の相談役である。

 この会談の1か月前、家茂入洛にからむ不可解な事件が近江の膳所藩で起こっていた。膳所藩は彦根藩とともに京の守護役である。都への出入りを監視する。関が 原後、家康が城普請の名人、藤堂高虎に命じて築城させた水城の中に浮かぶ眺めは東海道の名物になった。石高は7万石と、彦根に次ぐ近江の譜代藩。幕末にな ると、勤皇藩士と親幕府藩士が対立し、藩論は揺れた。そこへ家茂入洛にともなう宿泊所に指名され、藩主から藩士までまさに首をかけての対応に追われてい た。

 ところが所司代から急きょ、宿泊とりやめの通達が届き、家老が所司代に呼び出され、藩士の家茂暗殺計画を告げられた。密告したのも藩士である。動転した膳所 藩はことの真偽を確かめることなく関係した藩士の30数名をとらえ、11名を処刑した。会談は処刑直後のため、報告を兼ねていたのだろう。事件の真相はい まだ謎である。膳所藩の長州派はこの事件で姿を消している。

 その年の12月25日、孝明天皇崩御した。家茂も大阪で死亡、徳川慶喜が将軍に座った。元蔵は崩御のため祝いごとのない正月、得意先の今熊野の典侍の実家 で後宮の女官から聞いた話として天皇毒殺をささやかれた。話をした老婆は中山慶子明治天皇生母)の奥女中をつとめ、屋敷を下っていた。京都は隠し事ので きない怖い町である。

 孝明天皇は幕府の開国方針に反対するなど公家まかせでない天皇であった。朝廷内の開国派の太閤鷹司政通の意見を退け、朝廷に波紋を広げた。天皇崩御の死因が 噂になる理由があった。疱瘡の天皇が回復の途次、突然の死去。さらに崩御の公表が死から4日後であったことも憶測を呼ぶ。天然痘による病死が公式発表にな るが、死因をめぐる噂は消えなかった。

 黒幕がいる。誰もが考えたのが岩倉具視である。京都市左京区岩 倉の山麓に「岩倉公幽棲旧居」の案内がかかっている。現在は病院と民家に囲まれた住宅街の趣があるが、近くに実相院門跡があるだけの寒村だった。岩倉は下 級公家の家に生まれ、序列の厳しい朝廷では公の場にでることも、発言もかなわなった。野心家の岩倉は関白・鷹司政通へ歌道入門して知己を得て、出世の足が かりをつくる。朝廷改革の意見書を提出し、人材の育成と実力主義の登用を主張した。

 儀典中心の朝廷が黒船来航で政治の表舞台に立つことになった。外交の条約許可や将軍の任命は本来、天皇の認可が必要であったが、幕府の力が強い時代は建前に すぎず、形式化されていた。ところが幕府求心力の弱体化する幕末には朝廷本来の力を行使すべきという勢力が朝廷内で力を得た。さらに孝明天皇の意向も加わ り、認可にあたり幕府との交渉や朝廷内の意見とりまとめ、天皇に奏申するリーダーが求められた。しかし、公家たちは安穏にひたり、優柔不断だったから、天 皇は岩倉の才気ばしった言動を目にとめ、重用するようになる。さらに異母妹の堀河紀子が後宮に迎えられ、岩倉を後押した結果、名門公家を差し置き、朝議を 動かした。

 岩倉具視は長州、薩摩、幕府がからみあう朝廷にあって、弁舌と交渉術で信頼を得ていく。しかし、尊攘派から幕府寄り、さらに王政復古と立場を変える岩倉は警 戒の目でみられ、名門の後ろ盾のない岩倉は近習職を辞すことになる。さらに蟄居と出家を命じられ、5年間の幽棲生活をよぎなくされた。

 蟄居中に禁門の変が発生、岩倉具視は再び動き出した。幕府寄りから転じて薩摩、長州の和解をとなえ、松平容保と親幕府の実力者賀陽宮を批判して策動するも、追放のまま慶応2年12月の天皇崩御を迎えた。

 12月初旬から風邪気味の天皇は17日になって疱瘡と発表され、15人の医師が昼夜治療にあたった。御典医伊良子光顯の日記によれば、25日、この朝、食欲が 出てご快復と報告してもいいくらいと、記しているが、数時間後、奥から女官が医師の間に駆け込み、「お上が、お上が」と叫んだ。天皇のそばには女官が待 機、医師の御飲薬をお世話した。日記には「天皇は吐血され、お苦しみ。医師の誰もが急性毒物中毒症状」とある。これで決まりのように思えるが、ことは天皇 の死である。4日後の発表は病死になった。

 発表の遅れは疑念を生んだ。疱瘡死因であれば、隠すことはないはずであった。朝廷内には天皇の発言、言動を快く思わなかった公家がいて、一刻も早く天皇の交代を望んでいたからである。

 天皇の世話をする典侍天皇の側室、候補)は長州とつながる高野房子をはじめ、岩倉具視の妹堀河紀子らがいた。高野は家茂との婚姻をいやがる和宮を説得する など後宮の実力者。孝明天皇賀陽宮への手紙で典侍の暗躍をなげいている。病床世話はこの典侍と女官でおこなわれ、薬の御匙と呼ぶ女官が医師の薬を運ん だ。仮に毒を盛るなら典侍、女官しかできない。しかも天皇崩御後、岩倉具視は追放解除になり、宮中に復帰し、禁門の変で所払いの長州藩士も一線に戻った。

 岩倉毒殺説には疑問もある。まず疑われるのは岩倉自身であるからだ。ただ、岩倉は志士たちから変節を嫌われ、天皇の信頼を失しなっていたから、切羽詰まった状況にあったことは確かである。

 孝明天皇の死は、倒幕に流れを変えた。岩倉を中心にした討幕派の暗躍は宮中で始まり、倒幕の密勅がくだされた。この密勅は天皇の直筆、花押もなく、不可解なものと、いわれている。

 大政奉還慶喜のもとで行われた。土佐藩山内容堂の建白を受け入れ、政権を返上するが、幕府のいきづまりを天皇による自ら新体制で主導的役割りを果たす道 の選択だった。岩倉具視薩長倒幕派慶喜の意図を見抜いていた。王政復古の号令から鳥羽伏見の戦いを経て江戸城開城徳川幕府は終わった。

 岩倉具視は復帰すると朝議をリード、皇室に対する疑惑やスキャンダルは封印され、学術的にも死因を論じることはなかった。岩倉具視は明治政府の重鎮として不 動の地位を固めるも、西郷隆盛征韓論を退けたことを機に、力を失い、癌で死去する。余談になるが、岩倉具視の娘極子は戸田侯爵に嫁ぎ、その美貌から鹿鳴 館の華と注目をあびた。

 大政奉還から1年を要して明治になった。明治になり、後宮人事が話題になった。実力者の高野房子が「その権勢自ら後宮を圧し、また皇后の意をくむことなく」という理由で罷免された。孝明天皇の変死の責任をとらせたといえなくもない。典侍は後に廃止された。

 昭和15年、日本医師学会関西支部の席上、京都の産科医で歴史学者の佐伯理一郎は岩倉具視首謀、掘河紀子実行犯説を発表、反響を呼んだ。毒殺、病死の決め手 のないまま、天皇の死因は戦後になって新しい展開をみせる。名城大原口清教授が疱瘡の症状のなかに孝明天皇と似た症状があることを指摘、毒殺説を否定し た。作家の永井路子も小説で病死をとりあげた。

 東山の泉涌寺境内にある孝明天皇御陵。病死が通説の中で、変死説は根強くある。砒素中毒をとなえ、病死説の出血性痘瘡の症例は天然病患者のわずか1%でしかないとゆずらない。明治維新の謎は、150年後のいま、京の山に静かに眠っている。

  
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