第91回 雛に託す女の願い、厄払い

  〜全国各地で観光行事になった「流し雛」〜

  3月の風がいすわる寒波を追い払いつつある。寒さも峠を越したようだ。すでに雛祭り開幕の地域もある。雛飾りの種類も檀雛から吊るし雛、さげもんなど地域によって異なるが、観光客に人気があるのが流し雛。人形を舟に乗せ女の厄をおくる行事は、山奥の里から東京、京都、千葉房総、人形づくりの埼玉・岩槻と全国に広がる春を 呼ぶ女の祭りになった。
  和歌山県加太。淡路島の東にある港町は紀淡海峡に面して潮の流れが早く、複雑である。南海電車加太線の終点駅で、車なら大阪から1時間の距離になる。加太の町は3月3日の正午、小船いっぱいに積んだ雛人形を海へ流す淡島神社の例祭でにぎわう。境内に2万もの人形が全国から奉納される人形神社で知られ、カメラを手にしたマニアも多い。          
          
  淡島神社が流し雛のふるさとになったのは江戸時代。それも地方から始まり、本家が流し雛の行事に取り組んだのは戦後37年になってからだ。それまでは神社祈 祷の人形を海へ流していたが、今日の雛流しの華やかなものではなかった。地方行事が本家に伝播する経緯は淡島神社の成り立ちから説明しなくてはならない。
  祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなじむみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。大己貴命大国主命で、息長足姫は神 功皇后のことである。いずれも国づくりと縁の深い神々である。神代の昔、神功皇后が船で遠征からの帰路、嵐にあい、お告げでたどり着いた島が友ケ島(加太 の向かい側)。そこには少彦名命大己貴命が祀られていた。後に皇后の孫にあたる仁徳天皇が友が島に立寄り、不便であろうと、島から加太へ遷宮したのが旧 暦3月3日。少名彦は古事記によると淡島から常世の国へ渡った神で知られる薬神。病気厄払いの崇敬を集めたという。
          
  中国では3月最初の巳の日が忌日とされ、災厄を免れるため、水辺で身を洗い清める風習があった。これが奈良期に伝来、平安時代には人形を川に流す「みそぎ」 になり、一方、宮中の子どもが手づくりの紙人形で遊ぶ「ひいなあそび」のふたつの流れができた。これが後の雛飾り、流し雛の原型といわれている。「ひいな」とは小さく可愛を意味している。ママゴト遊びの雛人形と人形によるみそぎは本来、別のものであったが、時代を経て雛飾りに女の厄払いの意味が込めら れ、今日の雛祭りの風習になった。
  淡島神社へ話を戻すと、淡島の神にはもうひとつの縁起がある。天照大神の6番目の娘に生まれた淡島の神は住吉の神に嫁ぐが女の病にかかり、船で流され、淡島に着き、ここで治療にあたり、やがて女の厄払いとして信仰を集めるという話だ。
  雛祭りは江戸時代の文化。この頃、紀伊から淡島願人と呼ばれる遊行僧が全国を歩いていた。「淡島の神は堺の浜から流され給う。あくる日、淡島に着き、巻物を 取り出してひな形をきざませ給う」などと神棚を背負い祭文を唱え、代参りと称して櫛、簪など装身具を奉納させた。本鼈甲(べっこう)でないと、願いはかなわないといっては訪問詐欺まがいまで登場した。ところが女の病・厄払いは人気を博し、上方で僧の姿が江戸では神主装束になり、花柳界で評判をとり、ついに は歌舞伎のネタになり市村座で上演された。
  和歌山というところはこの種の伝統の地で熊野信仰の比丘尼高野山を拠点にした遊行僧である高野聖を輩出、各地に信仰を広めた先達を生んでいる。
  雛流しはこの淡島願人と深く結びついている。
          
  取市用瀬(もちがせ)は鳥取城下の南30キロの中国山地に抱かれた山間の里。合併で編入されたが、千代川が町中を流れ、流し雛は室町時代から家庭で受け継がれてきた。もともとは鳥取城下の風習が伝わり、地域に根付いたもので、流し雛観光の老舗格だ。
  昭和30年頃、雑誌に紹介され、TVで一躍、脚光をあびた。旧暦3月3日の夕方、男女一対の紙ヒナを桟俵などにのせ、無病息災を願い、川に流す行事で、着物 姿の子どもたちがカメラの被写体になり、ツアーも組まれる人気だ。流し雛そのものは折り紙に近い。いまでは町で市販されているが、旅役者が住み着き、紙の 雛をつくり、売ったのが始まりという。
          
  用瀬に隣接の智頭町は 因幡街道の宿場で、古い町並みが往時のにぎわいをしのばせる。ここでは3月末の3日間、雛あらしと呼ぶ子どもの行事がある。子どもたちが家々をまわり、ご 馳走にあずかることを「あらし」というそうだ。重要文化財に指定の石谷家では雛飾りを公開するが、部屋数40の豪壮な屋敷と雛人形は雪深い里に春の訪れを 告げ、華やぎを運ぶ。
          
  流し雛は、広島・大竹、岡山笠岡市北木島、奈良・五条市など限られた地域の行事であったが、昭和47年、柳川市で俳句仲間が始め、鳥取・倉吉、東京・隅田川、人形づくりの埼玉・岩槻、近年では京都・下鴨神社、龍野市、下関市と続々、誕生していく。
  紙の舟の雛人形に「淡島さんへいっておくれ」と、送り出すところもある。これは淡島願人に厄払いを託した時代の名残で、紙雛が厄払いだけでなく代参の役も担っている。
  和歌山の粉河町では3月3日、紀ノ川に雛人形を流すと、加太浦へ着き、淡島さんの元へ届いて願いが叶うと、言い伝えられてきた。
  江戸末期の淡島願人が全国各地と淡島神社を結んだ風習になるが、本家の淡島神社では流し雛の神事はなかった。そのはずで淡島さんに送られた人形を再び海へ流すのは理屈に合わないからだ。
  神社には紀州藩に姫君が誕生すると、豪華な雛人形が奉納され、この風習が一般化してさまざまな人形が届くようになった。雛人形だけでなく、フランス人形も加 わるから国際色豊なことこのうえもない。神社境内を埋め尽くした人形は夜になると歩き出す話がまことしやかに広がり、泉鏡花の非在と実在が交錯しあう幻視 に引き込まれた女性たちがここを心霊スポットとして訪ねるようになった。髪の毛が伸びる人形はドラマの格好の舞台を提供した。
          
  鏡花の短編「雛がたり」は幻想的な描写に満ちている。たとえば
  「遠くで、内井戸の水の音が水底へ響いてポタン、と鳴る。不思議に風が留んで寂寞した。見上げた破風口は峠ほど高し、とぽんと野原へでたような気がして、縁に 添いつつ中土間を囲炉裡の前を向こうへ通ると、桃桜溌と輝くばかり、五檀一面の非毛氈、やがて四畳半を充満に雛、人形の数々」
  全編がこんな調子である。火事で失った雛人形に旅先で再会した主人公は、いうまでもなく鏡花自身にほかならない。鏡花は9歳で母を亡くしている。彼の母は加 賀藩の能楽家の娘に生まれ、江戸下谷で裕福に育った。少女時代をしのばせる雛一式を大切にしていた。鏡花にとって雛は母の形見であった。泉鏡花研究書で私 が印象に残る『泉鏡花 百合と宝珠の文学史』(持田叙子著、慶応大学出版会)によれば、鏡花は端午節供など男の子の祝いについての記憶は語っていない が、母親が雛檀の前にお膳をあつらえ、仲良しの近所の女の子や親戚の女の子を呼んで遊ばせた雛まつりに関しては折りにふれなつかしく回想している。
  「母親の雛を思ふと、遥かに龍宮の、幻のような気がしてならぬ」と記しているこの雛は鏡花19歳の折りに生家の火事で焼けたのか、行方不明になり、以来、幻の雛を文学の中で雛を追い、雛小説を書き続けた。
  いったん、鏡花の森にまぎれこんだら最後、どこまでも迷宮につきあうことになる鏡花作品であるが、持田さんの本は道案内しながら、魔界の旅と、鏡花ひとなりを交錯させていく。雪残る金沢の春、うれしげに人形を手にした鏡花の母親への思いを引用して雛まつりをしめくくる。
  ― ここで桐の箱も可懐かしそうに抱きしめるように持って出て、指蓋(さしぶた)を、すっと引くと、吉野紙の霞の中に、お雛さまとお雛さまが、紅梅白梅の面影 にほんのり出て、口許に莞爾(につこ)とし給ふ。唯見て、嬉しそうに膝に据ゑて、熟(じつ)と視ながら、黄金の冠は紫紐、玉の簪の朱の紐を結ひ参らす時 の、あの若い母のその時の、面影が忘れられないー   
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