第121回 近江商人が開拓した北の小樽港と小林多喜二

  
  =一杯のコーヒーが若者をとりこにしたランプの町=

  小樽が観光地として注目されだした頃、季節は3月。町の通りの隅に雪が残っていた。80年代の後半、北海道観光が注目され、中でも小樽が学生の人気を集めていた。東京からの学生がまず立ち寄るのが北一3号館のカフェホールだった。旅担当記者の私は案内の小樽市職員から「ここのコーヒーが北海道旅行で一番の思い出という学生が多い」と、聞かされ、小樽運河沿いにある倉庫群のひとつ、3号館を訪れた。
                                     
  倉庫の周囲はランプで埋め尽くされ、古びたテーブルとイスの館内は、北欧の町にいる錯覚すら感じた。この北一3号館の成功は日本の観光、まちづくりにとって画期的な出来事であった。名所めぐりという江戸時代からの観光パターンを変えたといっていいだろう。
  いっぱいのコー ヒーが観光スタイルに転機をもたらしたと、私は思っている。残念ながら観光雑誌などでそのような指摘にはまだ出会ったことはないから、私の思い込みにすぎ ないかもしれないが、10年後にオープンした近江長浜の黒壁スクエアも北一3号館がヒントになっている。
  小樽は近江商人と関係の深い港町である。近江商人が拓いた港といっても過言でない。江戸初期の小樽はアイヌ民族が暮らしていた。オタルナイがアイヌ語の地 名(砂浜の中の川の意味)だった。近江商人は江戸初期、北海道に足場を築き、ニシン漁は莫大な富をもたらした。松前を拠点に各地で場所請負人としてニシン 漁を独占。小樽では恵比寿屋岡田家が場所請負人になり、道路づくりから港整備、北前船でニシンを上方へ運び、上方の衣料品などを持ちあがる小樽交易の先駆者である。
  明治維新以降は近江商人の下で働いていた船主の独立で松前藩とともに主役の座を降り、農業、鉱山に手を広げた結果、13代続いた岡田家は破産した。狙いはよ かったが、事業化するには期熟さず、あせりからいきづまり、後発の三井財閥系の名をなさしめた。司馬遼太郎の小説で有名な高田屋嘉兵衛近江商人の後の松 前藩にはいり、北方航路を開拓した。近江商人の場合、先住民のアイヌ人との衝突を繰り返して開拓した経緯から、高田屋嘉兵衛らに比べて評価は低い。司馬遼 太郎はどちらかといと近江商人を冷めた目で見ていたが、それは北海道開拓に見られるアイヌとの相克が根にあったのだろう。
  ロシア交易で外国船が入港した小樽はニシンの港から貿易港になり、札幌―小樽間の鉄道開通により、港に木骨石造倉庫が建設された。その数は300を超えた。 北一ホールもそのひとつである。国際貿易港の小樽には金融機関が進出し、北のウオール街とよばれるにぎわいは札幌をしのいだ。小樽は風が強く、火災に見舞 われた。このため、民家を含めて石造建築が多く、中を木柱で組み、外壁を凝灰岩のブロックを積んだ木骨石造は小樽の建築の特徴にもなった。
     
  80年代の小樽は運河再開発が論議を呼び、運河の幅半分を埋め立て、道路にする折衷で決着した。この再開発でオープンしたのが北一ガラス。ニシン漁のブイ製造 の会社がガラス器づくりに転換、その後のガラス工芸ブームをけん引していく。木骨石造倉庫とガラスの組み合わせはヒットした。私の訪ねた頃の小樽は、ガス 燈が灯り、ランプの照らす先にはガラス器が輝く町に装いを変えつつあった。
     
  小樽の坂道を歩く。JR小樽駅の 南は急な坂道になっている。高商通の名がつく道は地盤が軟弱で雨がふるとドロンコ道になり、地獄坂とも呼ばれていた。港を一望する丘の上に旧小樽高商(現 小樽商科大)がある。小樽高商では外国語教育が重視され、英、仏、露、独、の講座があり、図書館には欧米文学のめぼしい本がそろっていた。いまの経済学は 数値に重く置くあまり、原理原則はかなたに押しやられている。日銀のマイナス金利などこの典型である。銀行に預けた金で貸し付け、融資を受けた企業がもの をつくり、サービス対価で稼ぐ。その循環で金利がつくのが資本主義経済である。もはや経済は自由主義などとほど遠く「国家主義経済」に陥っている。
  一国の経済の重要政策を日銀の委員の多数決で、しかも1票差で決定していくことに異を唱えたマスコミもいない。これが世界経済の流れというなら、遅かれ早か れ現経済体制は崩壊するのは間違いない。大正から昭和の経済学は視野の広い学問であり、実利本位でなかった。1921年(大正10年)、伊藤整(英文学 者)が入学、図書館で読みたい本を借りにいくと、先約があり、小林多喜二(作家、著書に蟹工船など)が借主とわかった。伊藤整小林多喜二の名を知った始 まりは図書館というのが当時の高商ならではのエピソードである。多喜二は伊藤整の1年上にあたり、傾倒する志賀直哉を読み、映画、演劇、音楽に関心を持 ち、卒論はクポトキンの『パンの略取』を選んだ。伊藤整は自伝小説『若い詩人の肖像』で多喜二との交友を描いている。
  私は多喜二の小説を読んだことはなかった。プロタリア作家、蟹工船の作者ぐらいの知識しかなかった。旧高商建物を下り、小樽商業高前の道を左に行くと旭展望 台に着く。小林多喜二の文学碑がここに立っている。碑文に刻まれた多喜二の獄中からの手紙に胸を射抜かれる思いがして、しばし、動けなかった。
  ―冬が近くなるとぼくはなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている。そこは運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは人は重っ苦しい空の下をだれも が背をまげて歩いている。ぼくはどこを歩いていようがどの人も知っている。赤い断層を処々に見せている階段のようにせりあがっている街をぼくはどんなに愛 しているかわからないー
  この手紙の年の6月、満州事変が勃発、多喜二は治安維持法下で非合法の日本共産党に入党する。3年後の1933年3月20日(大正8)、釈放されて地下運動中の多喜二は東京築地署特高に逮捕され、拷問の末、死亡している。29歳の若さだった。
           
  小樽の町を見下ろす丘の上から多喜二の育った町と、町とのつながりをひとつひとつあてはめていく。秋田生まれの多喜二は4歳のとき、家族ともども小樽に移っ た。パン店を叔父の援助で小樽商業に進み、ここで大正デモクラシーの影響を受けた校風の下、校友会雑誌の編集や作文投稿など文章を書き始めた。さらに小樽 高商進学後は志賀直哉を読みふけった。卒業後は北海道拓殖銀行小樽支店に勤め、5年間の銀行勤めのかたわら地域の労働組合との結びつきを深め、『蟹工 船』、『不在地主』を執筆、発表し、プロレタリヤ作家の仲間入りした。プロレタリヤはラテン語源のローマ最下層の人々をさすドイツ語。小樽は貿易業者と金 融資本は富み、港の労働者との間に階層化が進んでいた。
  海岸線から山の手にかけての細長い町は入船町といって歓楽街になっていた。ここの「やまきや」で銀行員の多喜二は16歳の田口タキと出会った。タキは母、妹 らを養うため、店に売られていた。多喜二とタキは映画を見たり、喫茶店で会うなど客と酌婦の関係を離れてデイトを重ね、親密になっていく。
  JR小樽駅の東の線路南に花園町が広がっている。国道5号をはさんで山手は官公庁、海側は歓楽街になっていた。小樽の中心を形成し、かつてここにあった映画館「公園館」、「越治喫茶」がふたりのデイト場所になる。タキが行方を知らさず、小樽を離れた日、多喜二は泣きながら花園町を探し歩いた。
  多喜二はタキの借金を肩代わりして自由にし、結婚を申し込むが、タキは固辞した。ふたりの間の溝を埋めるには、時代はあまりにも過酷だった。タキは戦後、事業家と結婚、平穏な晩年を送り、夫には先立たれた後も101歳まで生き、2009年、亡くなった。
  作家の澤地久枝は著書『わが人生の案内人』(文春新書)でタキと手紙のやりとりを紹介している。取材を申し込む澤地にタキは断った。1980年の手紙にはこ う書かれていた。「とても昔の恋人の話を他人と平気で話すことはできない。私はろくに学校も出ず、なんの教養もないことを恥ずかしく、母も妹もいて小林と の結婚を断った。私はなにも持っていない。それを恥じて結婚を辞退した」
  上京した多喜二の後を追って暮らした東京でのわずかなふたりの生活、小樽の思い出をタキは、心にしまい、生涯を送った。
  運河の道を歩く。若者たちは小林多喜二、まして田口タキの存在すら知らないだろう。倉庫沿いの道も新しい。多喜二の就職した北海道拓殖銀行も姿を消した。戦 前、北海道の耕地面積の半分に抵当権を設定した日本一の不在地主も、バブル崩壊であっけなく破たんした。小樽運河は内陸を掘りこんだものでなく、港の沖を 埋め立ててつくったため、ゆるやかに湾曲している。沖合の船からはしけで物資を運び、倉庫にいれた。ふ頭整備で運河の役割は終え、いまでは小樽観光の名所 になった。幅40㍍は半分になり、散策路が延びているが、北部分(北運河)は昔のままの40㍍を残している。多喜二の未完成小説『転形期の人々』は当時の 運河のもようを印象深く描いている。
  ―運河の岸壁にはいろいろな記号を持った倉庫や保税倉庫が重い扉を開いて居り、えそこから直接に艀の上に荷物の積みおろしをしている。(以下略)そこでは荷 揚人足が何十人も一列に、「歩み板」をわたってあるいは米をあるいは雑穀をかついで倉庫の暗い出入り口を出入りしていた。大福やアンパンやラムネを箱の上 に並べた物売りの女が行きかえりの人夫たちにひやかされて、負けずに口をかえしているー
  この風景はもはやない。ただ北運河の西側に元日本郵船小樽支店の社屋があり、小樽市はこの一帯を文化遺産にしている。国際港小樽の輝きと、汗を流し、貧しくともやさしい笑いを絶やさなかった港の男たちが運河の水面に浮かんでは消えていく。国際化は、一部の富める層が手にし、多くの貧困層が取り残された。
  運河に若い男女が姿を映している。「だめなんだ。みんなが豊かにならなくてはいけない。そんな国にしなくてはいけない」。多喜二はこう熱っぽくタキに語りか けただろう。タキはおそらくまぶしいものを見るかのように多喜二を見たにちがいない。運河沿いの喫茶店のコーヒーは実に味わい深いものがある。
     
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