第80回 京の先端風俗はいま− 先斗町(床)そぞろ歩き

  夜、京をそぞろ歩く舞台を2つ上げなさい。仮に京都検定の問題に出たとするなら、即座に書ける場所がある。石塀小路と先斗町。共通するのは石畳。石塀小路はあやしげな下心がある時、誘うにふさわしい。京の夜の情緒を味わうのであれば、祇園よりも先斗町だ。
  高瀬川の東、鴨川の西の狭い通りである。先斗町という町名があるわけではない。南北の通り呼称である。先斗町通四条下ル○○町が正式な地名になる。著名 お茶屋と、モダンな店、和と洋、新と旧が軒を連ね、互いに歩みより調和という空間をつくりだしている。迷路好きには薄暗い路地が魅力だ。東西に延びている 路地は、昔、50あったが、いまは32になった。先斗町から木屋町に抜け、高瀬川沿いに通じる路地は12で、残りは行き止まりになっている。消防署の「通 りぬけできません」の標示が掲げてあるから、迷うこともない。
          
  先斗町とは南北500㍍の通りの名称で、徳川初期の4代将軍、家綱の時代に鴨川改修工事で出現した。後に花街も許され、南蛮寺もあったという。先斗町をいきなり(ぽんとちょう)と読むのは無理な話で、外来語だからだ。ポルトガル語の先端を意味するPONTA、PONTOの語源説が一般的である。
  先斗町を(ポント)と誰もが読めるようになったのは、まだ新しい。和田弘とマヒナスターズが1964年に歌った「お座敷小唄」の一番の詩
      ♪富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も雪に変わりはあるじゃなし
  爆発的にヒットした歌になぜか先斗町が富士山と並んで出てくる意外性はメロデーとかみあい、全国に広まった。平安時代の中国町名は、京の町に数多く残るが、 ポルトガル語名は、ここしかない。外来語ゆかりの地名は全国に散見できるものの、観光地の名前や樹木名からの命名が多く、ポルトガル語もしくはラテン語の 町名は九州・宮崎県延岡の無鹿(むしか)ぐらいだ。
  先斗町から横道にそれるが、無鹿は天正6年(1578)、豊後(大分)の切支丹大名、大友宗麟が理想のキリスト教王国を建設の地に選んだ延岡港に近い土地である。同行したポルトガル人宣教師、ルイスフロイスの助言で「MUSHICA」(音楽の意)と命名した。宗麟はミサの旋律を聞き、ここにユートピアを思い立ったというが、島津勢に敗れ、王国建設は幻に終わり、無鹿の名のみ残った。
  明治初期の西南役では西郷軍と官軍が無鹿の丘、和田越で決戦を展開、西郷隆盛は薩摩に敗走した。遠藤周作の晩年の短編小説「無鹿」はこの地を訪れた主人公がキリシタンの理想都市の夢と人生を重ねる短編である。
  先斗町高瀬川開削でにぎわう船頭や客の宿、遊び場として生まれた。(ぽんと)という呼び名がなぜ、広まったか。この新しい町にキリシタン医療院があり、「聖なる地」の意味のST.PONTOが京の町に定着した説、さらには鴨川(皮)と高瀬川(皮)に挟まれた堤(鼓)ゆえにポントと鳴る説などにぎやかである。江戸末期の「和訓栞」はPONTO説を採用し、ポルトガル語源の根拠になっている。
  当時の京雀にとって、異文化漂う国際通りであり、話題に事欠かなかった。京都人は伝統を重んじながら、新し物好きで定評がある。火ひとつとっても仏教は叡山 の不滅の法灯に代表される古い火を守り、神道は清い火、新しい火で穢れを祓った。新旧融合が京文化に流れている。先斗町は、時代の先端でもあった。
  格式にこだわらない通りは幕末になると、脱藩浪士の出入りするところとなり、花街でロマンスの花を咲かせた。狭い路地で佐幕派と勤皇派入り乱れて刀を抜きあい、いくつもの路地は格好の逃げ場になった。先斗町会津藩の利用が多く、高瀬川沿いには土佐藩邸、三条には彦根藩、さらに北には長州藩邸(現ホテルオオ クラ)があった。
          
  時代の風を受け入れた先斗町の気風は、現代にも継承されている。
  新フランス料理の店が京都で最初に登場したのはこの通りである。ヌーベルキュイヌーズのブームが去り、見直しにはいった80年代と思うが、懐石風フランス料理として評判をとった店のシェフ、井上彰男さんに取材したことがある。井上さんは東京會舘で賓客料理をてがけ、先斗町で『禊川』店を開いた。
  禊川は大正初期に鴨川の水をひき、高瀬川に注水するため、丸太町から二条までの鴨川西岸につくった運河の名からとった。
  お座敷洋食は東京にありましたが、ただ料理をお座敷でたべるだけでした。うちは先斗町のたたずまい、京の味わいをフランス料理にどう盛り込んでいくか。これにしぼりました。洗練されていて違和感のない料理です」
  フ ランス料理を小さく分けて食べる様式は京都独特のものとして雑誌に紹介された。調理場とカウンターは離れていない。舞台俳優と客の関係にたとえた人もいた。ちなみに先斗町の洋食の草分けは四条北の『開陽亭』。洋食を箸で食べる「洋弁」が生まれた。舞妓さんらが洋弁を食べるにくる店だ。塗りの器に洋食を盛り、箸で食べる組み合わせは人気を呼んだ。
  和風は洋風に限りなく近づき、その逆も成り立つ。通りを歩いて目をひく格子戸のお茶屋の隣は横文字カフエ、フランス料理、イタリヤ料理、蕎麦屋、ぜんざい店など種々雑多であるが、にもかかわらずどこかで調和している。
  古いものと新が互いに競い、客もまた若者と熟年が肩を並べている。色分けしないで反対に歩み寄るつなぎ風俗が通りを構成しているのが先斗町だ。
  四条から三条までの南北の石畳の通りの看板は300を越えた。しかしお茶屋も健在である。最盛期には200軒を数え、芸舞妓の姿に出会うことなく歩くのはまれだった。和30年代以降はお茶屋の転廃業が目立つも近年は落ち着きを取り戻している。祇園に比べて、庶民的な開放感が特徴で敷居は構えほど高くない。
  5月は歌舞練場の「鴨川をどり」開催中のため、通りはきれいどころでにぎわう。鴨川をどりは明治5年にはじまり、中断があって同28年に復活、今年で176 回(春秋開催)と、回を重ねている。都をどりとともに花街の人気を集めるが、「都をどり」が総をどり形式なのに対して、ショーの要素を取り入れ、舞踊劇に 仕立てている。今年は「女舞忠臣蔵」。一時は洋楽も加わり先斗町らしい和洋折衷で喝采をはくした。
  茶席も先斗町らしい椅子点である。明治5年、仙洞御所で開かれた博覧会の茶席で裏千家宗匠が外人客のため椅子点にしたのが最初で、先斗町歌舞練場も受け継いでいる。お茶屋組合は先斗町について「歴史のある町並みを昔のままでなく、新しい創造をくわえていくのが伝統やと思うていますんや。歴史の重たさを残していくのは当然で、そこから離れて先斗町はありません」と、祇園とは一線をかくしている。格子戸と瓦屋根にこだわるのではない、他業種の集る通りで、共通す る住民意識をはぐくんでいくのが先斗町のまちづくりだ。
  「鴨川をどり」のあとは、京の夏の風物詩、床の季節。五条から二条までの鴨川西岸の店が鴨川へ床を出し、客を迎える。先斗町の店が大半を占めている。床の歴史は桃山時代、鴨川の中洲で見世物小屋ができ、川の浅瀬に床机を立てて足をぬらし、涼をとりながら見物したのがはじまりになる。出雲阿国たちにとって中州が 舞台だった。江戸時代には豪商が舞妓を呼び、遠方の客を接待した。円山応挙安藤広重が当時の床を描いて全国に床は知れ渡った。現在の西側だけでなく東側の祇園寄りにも床はあった。明治期に中州がなくなり、琵琶湖疏水の完成で鴨川の流量が増え、床は現在の高床式に姿を変えた。京阪電車の三条延長で東側の床 は廃止され、鴨川片側だけの床が今日まで続いている。
          
  鴨川の床は計83軒ある。このうち先斗町は31軒を占め、床の中心である。観光客にとって床は、料金がオ−プンのため、安心して利用できる。予約時に料理と費用を決めることもできる。食べながら支払いを気にするほど味気ないことはない。
  店種類は和食、フレンチ、イタリアン、中華、韓国と多彩である。懐石風が主流であるが、回転寿司チエーンの床は4500円で鴨川の風情と京の情緒を味わえる など気楽、手軽さ、安いが売りだ。シチュウで評判の店は豆腐、サバ寿司がおまかせの最後に出てきて人気がある。うなぎ、おばんざい、焼肉、居酒屋風座敷、洋食弁当(2890円)など5000円あれば、十分だ。ピンの店でも15000円前後におさまり、舞妓を呼べる老舗もあり、接待に利用されている。
  変り種は床のバー。カウンターでカクテル、ハイボールが飲めるが、床チャージが1000円つく。床料は500円から千円が相場である。新風俗はコーヒーチ エーン。ここは行列ができる。喫茶店を図書館代わりにしてレポート作成の女子大生は、喫茶店を語らいの場にしていたおじさん、おばさんの時代から様変わり の若者文化だ。薄暗い喫茶店でなく明るい、人の出入りひんぱんな空間は、安心して勉強に集中できるのだろう。カラスや蛇の目を逃れ、人家のそばに巣をする キジバト、ヒョドリなど野鳥の心理に似ていなくもない。若い女性には人声しない、静かな場所は不安でむしろ落ち着かないのかもしれない。
          
  先斗町の帰りは鴨川沿いを歩く。男の一人は、ここでは敬遠される。思索中なんて考える人はいない。盗撮目当てか等間隔に並んで座るカップル見たさの邪心の持ち主とみなされる。
  三条から丸太町までの河川敷の上は床の灯がロマンチックにカップルを包む。衆人監視の場であるが、喫茶店ではできない肩寄せ合い、手を握り合う語らいを提供してくれる格好の場である。暇人が等間隔のカップルの距離をはかってみると、歩数できれいに7歩になっていたそうだ。
  この恋人たちの距離感を文化人類学の見地から考察した本格的な論文はまだない。テレビや雑誌、学生が調査報告しているが、互いに正面を向き、隣のカップルを意識するでなく、意識する自由な7歩空間は先斗町の謎、研究の余地を残している。料理人は料理の味がいいさじ加減、煮炊きの時間を頃合(ころあい)という 言い方で表現するが、『7歩』は恋人たちの頃合文化である。
  風俗のPONTOをいく界隈は、人の目を気にせず物見高く歩くのがやはり楽しい。