第81回 ♪♪嵐電に乗って京都キネマ行進曲

  〜 弥勒大魔神太秦大映通り〜


  古い町名の多い京都で戦後生まれの町ながらなつかしい名前の町がある。
大映通り』。日本映画のふるさとの道である。大映通りのある太秦には四条大宮から嵐電に揺られて、ゴトン、ゴトンの奏でる行進曲をバックに訪ねるのがふさわしい。嵐電四条大宮と嵐山間の11キロの路面と軌道併用の電車である。しかし、京都で仕事しながら、嵐電に乗ったのは数えるほどしかない。
  モボ101形の車両は京福電車の顔。21形から301、501、611、新しいのでは2001があるが、今回は101に乗り合わせた。大宮を出発して軌道両側の民家とマンション、工場の町並みをぬって電車は走る。踏切が多く、あの警笛も健在だ。
  西院駅を過ぎて路面を渡るもすぐ軌道敷に戻り、西大路三条駅から再び路面電車になる。車が並行して走り、山の内駅は市電停留所並みの道路上だ。
嵐電の開通は明治43年。大宮―嵐山間の11kmを結んだ。湘南鎌倉の江ノ電とともに鉄道フアンには人気が高い。車窓から見る京都はすっかり様変わりして『蚕の社』など駅名にみられる旧跡に平安京の残影をとどめている。この電車がにぎわったのは戦前・戦後の映画興隆期だった。
  嵐山観光とともに映画の町、太秦の足の役割を果たしてきた。太秦蚕の社駅の次の駅である。蚕の社平安京以前の山城で勢力を誇った秦氏ゆかりの社で、蚕養(こかい)神社にちなんでついた。渡来系秦氏は養蚕のほかに機織、製陶などを広め、広隆寺創建に深くかかわった。太秦駅真言宗御室派広隆寺前にある。太秦の玄関といっていいだろう。
  電車はここで降りる。広隆寺山門は路面になった電車道のすぐ前だ。市電の走っていた頃は、八坂神社、大徳寺相国寺金閣寺、東寺など門前に停留所があったが、いまでは、電車と山門の風景はここしかない。
               
  広隆寺聖徳太子ゆかりの国宝弥勒菩薩半跏思惟像で知られ、修学旅行生必見の京都最古の寺である。
  生徒たちは、教室で鑑賞前の注意として60年安保の夏に起こった薬指折損事件を聞くのが常だ。教師たちは旅行生の過ちとして語るようであるが、当事者は京大生だった。
私の新聞記者生活は事件6年後に始まり、太秦署を持ち場に隣接の区役所、消防署、広隆寺、撮影所を徘徊してネタを集めた。そのつど薬指の話を耳にした。警察のスクラップを開いては薬指その後を取材したこともあった。
  1960年8月21日紙面はどの新聞も一面からトップ記事になっていた。拝観の京大生が「弥勒菩薩に魅せられ、キスしようとして指を折った」という見出しが躍っていた。国宝一号と京大法学部生の組み合わせ、「キスしたくて」の動機は、センショーナルに取り上げられた。謎めいた微笑みを目にしたドイツの哲学者カール・ヤスパースが「人間の存在を最高に表現」と激賞した弥勒菩薩破損である。
  「キスしたくて」は記者たちの話を面白くする思惑も働いたが、あたらずとも遠からずで、当の学生は触れてみたくて顔に近づき、そのさい、仏像右ほほそばの薬指に接触して折った。しかし、学生は「なぜ、あのような行動を起こしたのか、わからない。自分の心理も説明できない」と、語ったという。意図的、計画的な行為を否定するところは法学部学生らしい。この学生は弁護士になったと聞く。真相を知る弥勒はただ微笑むばかりだ。
               
  弥勒菩薩をあとにして映画の町にはいる。広隆寺前の電車道の西に大映通りの標示がかかっている。弥勒像と並ぶ太秦の看板は映画の町だ。愛宕さん参りの灯篭が入口に立っている。通りをしばらく歩くと、三吉稲荷神社と、『日本映画の父、牧野省三』の碑が太秦映画史に導く。竹やぶだった太秦が撮影所建設で開発され、ねぐらにしていたタヌキやキツネは追われた。その供養も兼ねて神社ができた。昭和4年の話だ。
  太秦に撮影所が並ぶ以前の京都の映画史は日本映画の歩みと重なる。
  明治30年、京の実業家、稲畑勝太郎はフランスの映写機を使い、京都で日本最初の映画を上映した。稲畑の友人、横田永之助は稲畑から映画興行を託され、映画会社を設立した。日本最初の映画会社といわれ、日本活動写真(日活)の前身にあたる。横田は西陣千本で舞台監督していた牧野省三に映画製作を依頼、最初の時代劇『本能寺合戦』が生まれた。大正になり、日本活動写真会社(日活)は東京、京都に撮影所設置し、映画づくりに取り組む。京都の撮影所は二条城近くの御前一条にあった。
                牧野省三
  牧野省三は坂東妻三郎、片岡知恵蔵、大河内伝次郎らスターを育て、創成期の映画の父と呼ばれた。関東大震災で東京の映画会社はそろって京都に移転し、下鴨に『松竹下加茂撮影所』ができた。日活が太秦の竹やぶの中にうぶごえをあげたのはその後になる。
  寺、竹やぶなど時代劇ロケに適していたことが太秦を映画の町にさせた。嵯峨あたりの竹林をイメージすると、当時の太秦の姿に近くなる。
  酒屋の主人が振り返る。「当時は藪の中に6軒しか家がなかった。それが映画人の往来で道ができ、店ができていく。映画のような話ですわ」
  昭和17年、大映映画、新興キネマ、日活の3社が合併、大映京都撮影所になった。
  通りは活況を呈し、時代劇衣装のスターからその他大勢までかっ歩した。夜店通りともいわれ、毎月5、15、25の日には夜店が並んだ。戦後は東横映画(現東映)が京都撮影所をつくり、松竹が続いた。日本のハリウッドの名がつくにぎわいは、昭和30年代の全盛期を境に映画斜陽化の波をかぶった。
  映画とともに歩んだ商店街には銀行、スーパーが出店、人気商売の浮き沈みを味わう。電気店は「撮影所で電化製品を売り歩きました。飛ぶように売れ、月末には集金の店の主人が行列でしたな。踏み倒しもあったが、豪快な買い物でおべんちゃらぬきのオイコラのいえるお得意さん。苦労もしたが、楽しかった」と、昔をなつかしがる。無から有を生じる商いの醍醐味があった。大映撮影所の「A2」とよばれるスタジオでは、『羅生城』『雨月物語』『地獄門』『山椒大夫』の名画が生まれ、ベネチア、カンヌ、アカデミーなど国際グランプリに輝く。
               
  東京オリンピック以降のTV時代は映画斜陽の流れを速めた。この流れに立ちはだかる大作が大映で企画された。昭和41年の『大魔神』。当時の永田社長は「この映画は起死回生になるだろう」と、得意の永田ラッパを鳴らしたが、思惑はずれに終わった。
  通りの中華料理店主、森内一夫さんとは、取材を離れて映画談義をしたことがある。森内さんは市川雷蔵勝新太郎の立ち回りグループにいた。『座頭市』で初めてセリフのない役をもらった。仲間には川谷宅三がいた。若い人は知らないがピラニヤ軍団を率いて悪役で鳴らし、性格俳優で人気を得てドラマの主役も演じた俳優である。
  「雷蔵さんは思いやりのある、深みのある人で勝さんとは対象的でした。雷蔵さんが生きていたら大映は倒産しなかったかもしれないし、私も映画の世界にとどまった」
  大映倒産は昭和46年12月。破産争議は千日におよんだ。
  「役者は会社がめんどうみてくれない。中国まで行って、料理を勉強してここに戻ってきた。昔の仲間は散り散りになったが、太秦にいれば消息もわかり訪ねてくれる。川谷なんか、名が売れてからもたびたび訪ねてくれた。斬られ役の話が尽きることはなかった。出前で再建の大映に定食を届け、なつかしくてたたずんでいたことも。昔の夢みたいものがある。もっとはばたいて生きていければいいが、ここを離れることはできない」
               
  
  森内さんの思いは、太秦に店を構えた映画人に共通する。通りには映画人の生活がしみついている。「仁義なき戦い」ではある店のチンが藤純子演じるお竜さんに抱かれる大役をもらい、通りの話題になった。スター女優が衣料品店でパンツを買った話は、たちどころに広まった。お姫様のパンツだからだ。
  そんな元映画人の店も代替わりして映画関係者はわずかになった。食堂の主人は市川歌右衛門おかかえの照明係だった。ライトひとつ、スターをいかによく見せるか、職人芸が求められた。主人の息子は宝塚映画の技術を担当していた。
  「親父の病気で店を継いだんですわ。最後は木下恵介さんの『なつかしや笛や太鼓』でした。技術なら負けん。自負もあったが、思い出にとどめた。友人の俳優が来ると、映画の感想を求められ、つい熱くなる」
  元録音担当は太秦を離れて暮らしながら、足は通りに向く。
  「通りを歩いていると、昔の仲間に会える。昔は金を持たずには通りを歩けない。若いもんにあえば、メシいこかと誘い、払うのが毎度のこと。引っ越して喫茶店で近所の人と同席したら、レシートを持って払ってしまう。それでみんなから変わっていると、評判になった。遠くからここに来るのはなつかしいからではない」
  通りに立つと、スタジオの熱気、監督の怒声、ざわめきが聞こえ、「用意スタート」のガチンコで息ひそめる静寂、『カット』の声、終わったあとで飲む酒、一日の興奮が足元から伝わってくるからだ。「あんなぞくぞくする気分は博打でも味わえない。それが仕事ですやろ。恋といってもいいかな」
  大映倒産の年、商店街は大映の火を地元に残すため、通りの名称を大映通りに改めた。再建の大映は撮影所を閉鎖、大映の映画づくりは終わるが、松竹、東映太秦での制作を継続、東映映画村オープンや京都映画塾開校など映画の火はTVドラマの時代劇、テーマパークに継承されている。大映倒産後、スタッフたちの再就職の場が地元で生まれた。「映像京都」という職人集団である。市川昆監督の呼びかけで俳優、美術、技術、録音の職人が集り、中心になったのが美術の西岡善信さん。西岡さんは時代劇に限らず、京都制作の映画美術には決まってかかわってきた。
               
  市川昆監督の『炎上』を覚えている人も多いだろう。金閣寺炎上のシーンには、裏があった。圧巻のラストの炎上シーンでは、夜空に金粉を撒き、炎の美しさをつくりあげた。その映像京都も解散した。
  今年春、大映通りがひさしぶりに脚光をあびた。『大魔神』の復活である。倒産後、倉庫に眠っていた大魔神レプリカを通りのスーパー前に展示したからだ。高さ5㍍の大魔神は映画の町の
シンボルとして蘇った。通りの喫茶は映画資料室や映写室を備え、映画フアンの語らいの場になっている。
               
  「往時を知るものには寂しい限りや。向こうから取り巻きを連れてスターが通り過ぎる。ヨッツという一言がいいんですわ。現実にはそんな出会いは通りでなくなった。夢、幻の世界でいい。思い浮かべるのが俺たちの心の映画になっている」
  されどわれらの日々、映画の青春は永遠である。
 

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