第112回 日本三大車窓「姨捨」の風景

  〜されど青いリンゴの篠ノ井線をゆく

  「旅鉄」(たびてつ)に目的地はない。あくまで車窓、駅、レール、車内が旅の目的になる。駅弁も入れる必要がある。さらに途中下車しての散策も旅鉄の楽しみだ。
          
  大糸線フォッサマグナの旅は、地球の歴史をたどる冒険と安曇野の「女」像がからみあう壮大なロマンに満ちていた。この先、地球がどうなるか。フォッサマグ ナがぶっちぎれて列島分断の30万年昔に戻る説もささやかれている。鍵をにぎるのが富士山らしいが、根拠はありそうで、また、ない。フォッサマグナが引き 続き、列島合体を継続してさらに隆起と沈下を繰り返すのか、これは科学というよりもSFの世界である。
  大糸線の続きは篠ノ井線塩尻から松本にかけての松本平と、長野市周 辺の善光寺平を結ぶ山越えの路線である。松本と長野間は数十万年の歳月で隆起、褶曲した結果、犀川が蛇行し、深い渓谷を形成したため、川筋に鉄道は敷け ず、山越えになった。この地域は千年に1回のペースで大規模な地殻変動を繰り返し、30万年で約300回の大地震を起こしている。新しいのは1874年 (弘化4)の善光寺地震マグニチュード7・5と想定されている。活断層地表は1回の地震で2−3㍍隆起していることが地層からわかり、30万年で600ないし900㍍隆起した計算だ。篠ノ井線沿線の高さに相当する。
  篠ノ井線篠ノ井塩尻間をさすが、運行形態は長野と松本発が大半で、篠ノ井始発ではない。長野を出た電車は川中島をわたり、篠ノ井駅に着く。篠ノ井線の歴 史は信越本線中央本線を結ぶ連絡線として明治35年に開通した。中央本線より8年も早かった。篠ノ井駅をでると、真っ直ぐな線路が稲荷山駅まで続く。稲荷山駅から姨捨駅に向かい、40分の1(25㌫)の上り勾配にさしかかる。ジグザクに敷設したスイッチバック線路が駅手前からあり、列車はいったん勾配を上り詰め、水平の線路をそのまま前進して停車、今度はバックして姨捨駅ホームにはいった。
  このスイッチバックはSL時代には全国で採用され、山岳路線になくてはならぬ運行形態になった。電化により勾配のぼりが容易になり、スイッチバックは役割を 終えて廃止され、現在では折り返し方式を除けば、全国に12駅しかない鉄道遺産である。ここ姥捨のスイッチバックも鉄道マニアの人気路線で、「乗鉄(のり てつ)」、「撮鉄(とりてつ)」が集ってくる。松本から来る下りと長野からの上りが同じ時間帯に停車する時間は、カメラの列ができるほどだ。平日なら姥捨 駅14時9分に下りが到着して上りを待っている。1分後に上りがバックでホームに滑り込む。
          
  姨捨駅は大正時代の洋風駅舎で眼下には善光寺平が広がる。駅の標高は551㍍。沿線のなかでは14番目であるが、善光寺平の眺望は姨捨にかなう駅はない。篠 ノ井線沿線で高所から盆地を見下ろす立地は姨捨しかないからだ。国鉄時代に制定の日本三大車窓は北海道根室本線狩勝峠肥薩線矢岳越え、それに姨捨駅 であるが、他の二箇所の雄大な風景に比べて姨捨はうねる千曲川、山沿いのリンゴ園、棚田、さらに長野夜景と、変化に富んでいるのが特徴だ。スイッチバック の停車時間を利用したホームからの眺望は、篠ノ井線随一の風景である。
  姨捨は鉄道の名所になるよりもはるか昔から月の名所になっていた。
  古今集の歌
     わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月をみて
  歌にある姨捨山という名の山はない。駅の南に冠着山(かむりきやま、1252㍍)はあるが、地元では駅を中心にした一帯をおばすてやまと称している。名月と棄老伝説が文献に登場した初見は平安中期の『大和物語』である。
          
  信濃野更級(科)に住む男が姨を棄てるも名月をみて後悔に耐えられず、翌日、迎えにいき、連れて帰った説話になっていて、「のちに姨捨山といいける」と、結 んでいる。今昔物語、更級日記も棄老をとりあげている。柳田国男は棄老についてインドの仏教経典(雑宝蔵経)の説話が伝説の源になり仏教伝来とともに広 まったと書いている。
  ホームから眺める美しい棚田は、山奥での希少な土地を水田にした山村の汗の結晶と慎ましやかな営みの絵ともいえる。姨捨は江戸時代から明治にかけて斜面耕作が 進み、棚田が生れた。いわゆる「田毎の月」の名所として俳人たちが月見に訪れた。田毎の月とは月が移動して田ごとに映る様をさしている。浮世絵の安藤広重 は棚田に映るいくつもの月を描いた。
          
  姨捨の棄老伝説を現代小説にしたのは深沢七郎の『楢山節考』。中央公論新人賞を受賞してベストセラーになった。ギター少年から作家に挑戦した深沢はこの小説が処女作になった。
  この作品がおぞましい棄老をテーマにしながら、光を求めて歩いているような気分に陥るのもギターを好み、大のプレスリーフアンの深沢の音感が行間にこもって いるため、と私は読み返して納得した。選考委員の三島由紀夫、伊東整、武田泰淳の3人が激賞、なかでも三島は「衝撃を受けた」と、ほめちぎった。『笛吹 川』も評判をとるが、なぜか芥川賞に縁なく、中央公論連載『風流夢譚』の内容が皇室を侮辱しているとして、中央公論社長が右翼の襲撃を受け、3年の間、執 筆をやめ、各地を転々とした。
  内容が気にいらないからテロに走る行為のうち、不敬であるとして出版元の社長宅を襲った事件はあの戦争前夜を思い起こす戦後史の事件だろう。
  姨捨伝説ゆかりの寺が駅真下の斜面にある。長楽寺。中秋の名月の夜は月見客でにぎわうが、芭蕉は名月を観賞すべく弟子をつれ、木曽路を経て姨捨にのぼり、句を詠んだ。
     おもかげや姨一人泣く月の友
  長楽寺境内には高さ10㍍の安山岩の巨岩が座り、姨捨の場と伝承されてきた。芭蕉句碑もある。芭蕉の更科(更級)紀行はこの時の作になり、芭蕉訪問が姨捨伝説を広めたことがうかがえる。
  列車は姨捨駅を出ると、長いトンネルをくぐる。冠着(かむりき)トンネル。ここを抜けて、筑摩山地をゆく。信濃を北信と中信に隔て、山間盆地が介在し、南・ 北信をつなぐ重要な街道の中継地になっている。稲荷山―姨捨は、はるか下を千曲川が流れ、高低差があるが、筑摩山地は、沿線に集落がり、高原の趣は感じな い。リンゴや高冷地野菜の栽培には不向きな地だ。ただ松茸は良く取れ、信州の産地になっている。
  フォッサマグナの地殻からマグマまでが浅いというのが通説である。長野盆地善光寺平)は地表からマグマまでの殻の厚さがわずか5キロで、世界の標準の平均60キロと比べてマグマと地表が意外に近い。浅間山御嶽山、富士山、箱根につらなるフォッサマグナ火山脈 である。
  沿線の冠着山、聖山は火山の噴出によってできた山で、隆起と火山が混在する地形だ。
  列車は聖高原、明科、田沢の各駅に停車する。北国西街道が西に延びていて、篠ノ井線開通の明治33年西条―篠ノ井間の鉄道開通まで芭蕉の後を追う明治の文人 があえぎながら峠を越えた。正岡子規は明治24年、更科紀行の道をそのまま歩き、田山花袋は鉄道開通で寂れた峠の茶屋で休憩、歌を残している。
     いまもなおありやあらずや信濃なる峠の上にわがみたる茶屋
  明科駅は松本盆地に位置する。松本盆地の山脚は一直線にならび、いかにも断層地帯を思わせる。西条―明科間は難工事で多くの犠牲者を出した。北アルプスか らの水の流れは明科付近で合流して、犀川へ注ぐ。明科を犀口と呼ぶ理由だ。松本盆地の川はその昔、日本海の鮭がのぼってきた。昭和16年に犀川下流の千曲 川に大滝ダムができて、鮭の遡上は阻まれ、一大産地は消えた。それまでは明科のワサビ田まで遡上した鮭が舞い込み、手づかみができたという。鮭の遡上が途 絶えた戦後、水産指導所が池中養鱒に取り組み、先進県の静岡に並ぶ地元特産につくりあげた。なかでも突然変異で出現した黄色の紅鱒が人気を呼び、紅鱒の産 地の地位を確立するが、鮭遡上の歴史が呼び寄せたと、地元の古老たちは鮭の時代をなつかしがる。
  やがて列車は松本に着く。松本駅の標高は586㍍もあり、長野盆地を見下ろす姨捨駅よりも30㍍高い。長野市松本市フォッサマグナが生んだ地形、高低差による文化や歴史の違いをひきずっている。古代の国府は松本にあり、長野は山村に過ぎなかった。平安中期には善光寺参りの門前町になり、江戸時代になると松本は城下町、長野は善光寺と北国街道宿場で栄えた。明治維新廃藩置県では長野市中心の長野県と松本中心の筑摩県にわかれた。
  長野と松本はとかく比較され、仲の悪さには定評がある。その要因のひとつが長野、筑摩合併のさいの県都問題にあった。県庁をどちらに置くか。長野側は旧信濃 で合併、松本は合併するならせめて庁舎は松本に近い上田を請願した。上田説有利の中、筑摩庁舎が炎上し、長野側では放火説も流れ、結局、長野に仮庁舎を置 いて業務をはじめ、既成事実化されたという。県庁は長野にあっても松本は人口でも長野をしのぎ、筑摩県復活の請願が出された。長野県議会で分県が決議寸前 に傍聴席から信濃はひとつの県歌「信濃の国」が合唱され、分県案は否決された。この経過がことあるたびに語られ、仲の悪い風評をつくった。対抗意識は大学 までおよび、信州大学は国立大有数のたこ足キャンパスになっているのをはじめ、高速バスも新宿行きが松本発、池袋は長野発など県民意識に山ならぬこころの 壁をつくっている。ただ、長野は信越本線開通で信州の中心になり、長野オリンピック北陸新幹線開通で急速に都市化が進んでいる。
  国宝松本城をあとに列車は塩尻へ走る。塩尻は関西からも、新宿からも信州への入り口駅として学生時代、良く利用した。駅ホ−ムで売っていた夏の青いリンゴの 味が甦る。リンゴといえば蜜入りの甘さが話題になるが、私は酸味の強い青いリンゴの味が気にいっている。というのも7月末、合宿の帰り塩尻駅で山盛りの青 いリンゴにまず目をみはり、ガブとかぶりついた際の口の中にシュッとくるすっぱさ、かすかな甘さにしびれた。合宿疲れもあっただろうが、こんなうまいリン ゴがあるのかと、思った。皮もうすくてまるごと食べるのに適している。カゴ入りを買い、下宿でバリバリ食べた。
          
  以来、あの味を探しているが、ス−パーにはなく、夏の信州でもまずおめにかからない。
  駅ホームで訪ねても、話が通じない。『あれはお盆のお供えね』というおばちゃんも駅売りの時代のリンゴの記憶は薄れている。青いリンゴは「祝い」品種とい い、昭和40年代の信州特産だった。40年代は480トンの出荷に対して、いまはわずか10トンに激減している。リンゴを熟成前に収穫するかのような誤解 があるが、もともと夏に収穫する品種で、誰かが青春の味と書いていた。青いリンゴの歌もあった。
  新聞社時代の元同僚が、メールで「我々の世代は憲法9条で育った。守らなあかん。安保法制に反対して集会に参加した」と、連絡してきた。その言葉に青いリンゴが重なった。リンゴに歯が立たなくても、されどわれらが日々、戦後70年の夏が来た。

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  メモ 姨捨の棚田オーナ制度は一区画を借り、田植え、草刈、稲刈り、脱穀を春から秋までグループで行い、収穫の米1区画50キロが持ち帰れる。地元名月会が指導する。募集11月から12月。問い合わせは千曲市観光課026−275−1753
篠ノ井線 路線総延長66・7キロ㍍。15駅。全線電化、明科−塩尻間は複線。
        特急スーパーあずさ、しなのが土、日曜日乗り入れ。
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