第113回 戦後70年を旅する

  〜京都学派「近代の超克」から現代への思想の流れ

  1995年(平成7)、 西域・中国取材の連載を終え、一息ついた私に戦後50年の企画担当デスクが回ってきた。日本はどこでどう間違ってあの戦争に突入したのか、連載企画を始め るにあたり、資料読みからはじめた。勉強不足もあるが、憲法9条についての先生たちの言葉を覚えていても、習ったはずの戦争の背景、理由、結果責任の話は すっと思いだせない。
  昭 和天皇の死去による昭和史回顧の報道を通じて、流れをつかんだつもりでいたが、いささか頼りない。通史に弱い記者を痛感して図書館通いして資料を開いた。 一夜漬けは私の伝統的な勉強法であるが、新聞社にはいったおかげで学生時代よりも歴史が身近になり、3日漬けぐらいまで進化した。
  図 書館の机に本を積み上げてノートする。作業は進まなくても安心はできる。ちょっと読んでは、コーヒー飲みにでかけ、また机に戻る。にわか勉強の楽しさを味 わった。学生時代にせめてこれの10分の一でも経験していれば、論文を書けたような気分にするところが図書館のアカデミニズム、書架と机である。青春映画 では図書館が出会いやデート場になり、ストーリーに欠かせなかった。ヒロインの女優が本を抱えて出入りするシーンは定番であり、社交場と言い換えてもよ かった。
  最近の大学図書館は知らないが、公立図書館に通う若者はまれだ。年寄りの集会場になっている。若者は駅前や繁華街のスターバックスに陣取り、ここでノートを開き、勉強している。
  昔の喫茶店は純喫茶の名をつけて、薄くらい照明の下、話し込んだ。本は読んでも、勉強の覚えはない。ところが昨今の若い女性はイヤーホンを耳にスタバを図書館代わりに利用している。若者の風俗は様変わりした。喫茶店で落ち合うなんて、おじさん、おばさんの独壇場である。
  私たちの世代は真珠湾攻撃の日米戦争勃発から敗戦末期に生を受け、戦後はよちよち歩きの最中にあった。当然、大戦前夜から敗戦の日までの記憶はない。
  図 書館通いしてまず、体制翼賛下の新聞報道に向き合わねばならなかった。国家総動員法が敷かれ、言論統制と弾圧が背景にあって、気がつけば、戦争の呪縛のな かで身動きとれず、戦争賛美になったというのは、戦後出発にあたり多くの新聞が決意新たに書いた反省文である。最近では集団自衛権の解釈変更の安保法制に 関して自民党若手と作家が沖縄2紙を取り上げ、潰す発言したさい、沖縄2紙が戦後出発の思いを紙面に掲載していた。
  民 主主義の発展に寄与した大正デモクラシーからわずか20年で日本は言論統制の世になっていた。1932年(昭和12)の盧溝橋事件に始まる日中戦争の翌 年、早くも国家総動員法が制定された。その年、京都大学では滝川事件が起きている。東京の中央大学で講演した滝川幸辰京大教授の「トルストイの刑法観」が 文部省から無政府主義に通じるなどの理由で批判され、学外を含めた反対運動のすえ瀧川教授は大学を去り、京大の若手も大量に辞職した。立命館大には18人 が移り、この中には後に総長になった末川博ら法学部の俊英がいた。立命は戦後、GHQから睨まれるが、末川らの学内民主化で危機を乗り切っている。大学の 自治を守る運動高揚から5年後、時局は戦争に進んでいく。
  外地の戦勝報道にあわせて国民に思想、経済統制がのしかかる。総力戦だ。あれよあれよという間もない。外地の日本の生命線を守るという大義安倍総理が良く使う国民の生命財産を守るフレーズと似ている。
  新聞は世の動きについていくのがやっとだった。京都は大学の町。市民にとって先生たちは身近な存在である。滝川事件で暗い時代を予感した市民にとって手をたたく「明るいニュース」が真珠湾攻撃の成功だった。市民はおろか、大学の進歩的学者がこぞって迎合する論文を書いた。
  昭和17年、中央公論新年号で『禅の研究』で知られる西田幾太郎門下の哲学者三木清は巻頭言で戦時認識の必要を説いた。
  『シ ナ事変は決定的な段階まで飛躍した。事変の遂行をたえず妨害してきた米英に日本は戦争する決意にいたった』と書き、外地の出来事から戦時認識に改める時が きたことを強調した。京都学派を代表する哲学者、三木は戦争末期に治安維持法違反で逮捕された高倉テルをかくまったことから刑務所に送られ、終戦の年に獄 死した。近衛文麿内閣のブレーンになり、東亜新秩序を構想した三木。総力戦を呼びかけた学者を使い捨て、容赦なく逮捕して拷問する戦時翼賛体制の怖さ。 「そんなことはありえない」はずが現実化していく典型である。しかし、開戦当初の三木は、日本が米英をしのぐアジアの盟主の道を歩き始めた興奮に包まれて いた。三木はドイツ留学のハデルベルク大でカール・ヤスパース、マックスウエバーらと机を並べて学んだ。その彼も思想戦の魔力に抵抗できなかった。
  三 木の獄死経過を読みながら、大河の流れの中での学問の意味を考え、戦後50年企画を三木清の生涯にするつもりだった。いまから思えば、この時の気持ちは間 違っていなかったが、一人の学者を通じての戦後50年、しかも終戦時に獄死している。結局、三木をあきらめ、京都学派に目線を変えた。
  京 都大学に戦後史のタブーと呼ばれる京都学派の座談会がある。座談会のテーマは「近代の超克」。近代を西洋に置き換えるとわかりやすい。西洋文明がいきづま り、アジアの時代がきている。その盟主が日本という設定で日米開戦の翌年7月23・24の両日、雑誌『文学界』が主宰した。集りには、林房雄、亀井勝一 郎、小林秀雄河上徹太郎ら『文学界』同人と、外部の招聘者計13人が出席した。外部の出席者は音楽評論の諸井三郎、映画評論の津村秀夫(朝日新聞記 者)、神学者の吉満義彦、哲学の西谷啓治(京大助教授)、科学哲学の下村寅太郎(東京文理科大教授)、西洋史鈴木成高(京大助教授)、物理学の菊池正士(大阪大教授)である。
  司 会の河上徹太郎はこれほどのメンバーがそろう場はこれまでになかったと、座談会を持ち上げた。京都学派の集りと呼ぶには、疑問があるが、実は三木清が巻頭 言を書いた中央公論新年号で京都学派の座談会が掲載されている。高坂正顕鈴木成高高山岩男西谷啓治の4人による『世界史的立場と日本』である。京都 大学で西田幾太郎、田辺元の教えを受けた中堅的学者の集りであったが、この座談会で名を高めた彼らは京都学派と呼ばれた。
         
  「近代の超克」はいわば第二弾になる。1月 の中央公論座談会のあとを受け、こんどは文学界が同人、京都学派、日本浪漫派の豪華な顔ぶれで西洋の没落、アジアの隆起、日本の大東亜圏を論じる試みだっ た。京都学派は人文研究所や理学部系の研究者を指すのが一般的になったが、最初は哲学、史学の研究者、中でも西田門下の哲学、歴史学者の呼称といってもい い。
  日本浪漫派は保田與重郎を中心にした文人がメンバーになり、近代批判と日本の伝統文化回帰を提唱し、太宰治三島由紀夫らも周辺人脈に名をつらねていた。この座談会には保田の名はなく、亀井勝一郎が代表するかたちになっていた。
  西 田幾太郎の西洋哲学と東洋思想の融和からさらに進めた西洋近代に対抗する思想構築が座談会の意図したものであった。出席者は、世界史の転換は今次の戦争に 始まるものでなく遡って近代世界の矛盾そのものに源を発する認識を共有していた。ただ座談会は往々にしてテ−マからはずれ、また分散することがしばしばあ る。この「近代の超克」もまとまりが悪く、京都学派の1月座談会のほうが内容的に整理され、明解である。4人衆のなかで西洋史鈴木成高の論文が目をひ く。座談会は結果として大東亜共栄圏構想を補填ならびに後押した体制翼賛になり、戦後、厳しい批判をあびた。
  西 域取材でお世話になった藤枝晃京大名誉教授(西域学)に当時の京都学派にどんな印象を持っているか尋ねた。藤枝は内モンゴルに日本軍が設立した西北研究所 に今西錦司梅棹忠夫らと勤務し、戦後の人文研究所でまだ中国史の一分野にすぎなかった西域学を独立した学問体系にした学者で、英仏独から中国語、ハンガ リー語まで操る語学の才人と呼ばれた。
  西 田門下を第一次京都学派、二次に人文科学研究所の貝塚茂樹桑原武夫今西錦司らを、自身は2次半の京都学派と笑うのが常だった。藤枝が語る西北研におけ る今西・梅棹の朝けんかの話は面白かった。朝、会議になると、梅棹が今西にかみつく。今西は切り返す。「実に痛快でしたな」と、藤枝は回想した。このふた りと同じ分野で学問しても太刀打ちできない。誰もが手をつけていない西域を選んだ理由である。旧友井上靖は「敦煌」を書くにあたり、人文研に泊り込みで藤 枝から助言を受けている。
  藤 枝は鈴木成高より4歳後輩にあたる。「あの人の講義を聴講したことがあるが、明解でわかりやすい。学者はやさしいことを難しくいうが、あの人はちがった。 論文を読むにはいい論文を選ばないと、わけがわからんようになる。読みながらそれがどうした、と筆者に問いながら読むこと」と、教わった。ある日、呼ばれ て行くと、私の書いた西域・ホータン出土のミイラの調査記事を前に置き、実に見事な添削をしていただいた。
  そ の藤枝であったが、京都学派には口がとたんに重くなった。話が「近代の超克」になると、口にチャック。知識人の戦争協力の代名詞すらなった京都学派であ る。鈴木は大学を去り、早稲田に転じた。50年企画の社会部メンバーに鈴木周辺の取材を指示したものの、京大関係者は藤枝以上に「よく知らん」と、口をそ ろえた。他のメンバーが当時を弁明しても鈴木は一切のいい訳をしなかったという。当然、家族らも口を閉ざした。ジャーナリズムに鈴木の名前が出ることはな かった。
  結局、企画は「近代の超克」の事実経過を戦後史のひとこまに入れて、ドイツの戦後40年にあたり、ワイゼッカー大統領が議会で「過去に目をつぶることは、現在にも目をつぶることだ」と、ナチス追及、平和希求の演説をもとにしたドイツからの報告を掲載した。
  ワイゼッカー演説はドイツにおける歴史認識の対立を背景に、ドイツの進路を示した名演説の評価が高い。
  「近 代の超克」は戦後、タブー視された。京都学派も四散した。保田をはじめ座談会関係者は公職追放を受けるが、朝鮮戦争勃発の1950年(昭和25)以降、追 放解除され、公職に復帰していった。高坂正顕京都大学教育学部長を経て東京学芸大学長を歴任、文部省の「期待される人間像」をまとめた。西谷啓治は京大 哲学教授、高山、鈴木は私学で教鞭をとり、多くの著書を残したが、一様にあの座談会については回顧談さえ残っていない。ましてあの座談会のテーマが学界で 取り上げられることもなかった。
  1950 年は戦後史の転換点になった。大陸から復員兵が続々、帰国した。私の従兄は中国から復員後、共産党シンパの発言をして熊本の祖父たちを驚かせた。お国のた めに死んでこいという土地柄のところだけに周囲は飛び上がったにちがいない。彼はその後、得度して熊本菊池の古刹に婿入り、住職として東本願寺で人権問題 に取り組み、鶴見俊輔小田実ら交友を結んでいる。彼も3年前、鬼籍入りした。
  国内では日本共産党主導の労働争議が頻発している。下山、三鷹、松川という不可解な鉄道事件が続き、GHQは右に舵をきった。共産党中央委員の追放を指令、警察予備隊の設置が決まり、レッドパージで労働運動が抑制され、時代は再び、きな臭くなっていく。
  「近 代の超克」は意外なところで表にでた。70年代の学園紛争の全共闘学生が口にしたからである。戦時下において果たした役割を抜きに改めて語る難しさはある が、国際情勢の変化と日本経済の発展の弊害は戦争翼賛の思想を見つめなおす機会をもたらしたのだろう。東大安田講堂における三島由紀夫と東大全共闘の討論 でも論争の中に「近代」があった。
         
  歴 史哲学の角度から世界史を考える試みは、京都学派が最初と思う。戦争協力、大東亜圏につきあたるため、学者はしり込みした。厳しい批判にも耐えなくてはい けない。戦時下に提起され、大学紛争下で学生たちが話題にした「近代の超克」には持って生れた運命があるかのようだ。鈴木は超克すべき近代が19世紀であ るか、あるいはルネッサンスにあるか検討すること、ルネッサンスの超克は「人間性」の根本問題に触れ、キリスト教の将来とも関連すること、機械文明と人間 性の問題は科学の問題にいきつく。文明の危機を解決するにあったって、科学の役割と限界を明らかにすること、歴史学として「進歩の理念」を超克することを 提起した。原発問題をあてはめると、より今日性をおびてくる。
  戦 後史で京都大学が「近代の超克」を再検証した話を私は寡聞にしてしらない。海軍とのつながりなど戦争協力の思想は戦後、黙殺された。中国の台頭、韓国、イ ンド、インドネシアの経済発展、イスラム圏の拡大など70年前に比べて現在の世界は激動している。西洋文明のシンボルというべきギリシャの経済が揺らぎ、 一方でアジア経済が注目され、国際情勢は戦時下の京大歴史哲学が予想した「西洋」の方向に近づいている。アジア、イスラムを抜きに世界は語れない時代を迎 えた。しかし、忘れてならないのは、70年前、京都学派が提起したアジアを西洋から解放し、主導する盟主であるべき日本の「世界史的立場」も終焉したこと だ。
  共 同通信社が戦後70年にあたり世論調査をしている。日本が悪い方向に向かっている回答は半数を超え、戦争の可能性あり、と答えている。さらに日本憲法、憲 法9条を圧倒的多数が支持している。そこで世界史の中の日本を考えるうえで留意すべきは、親近感を持つ国の問いに対して西欧が半数にのぼり、アメリカが全 体の44㌫をしめている。
一方、外交で重視すべき関係ではアジア諸国の関係が42㌫で、日本独自21、アメリカ19、国連17と続いている。国民意識にみられる「現代の超克」、この複雑な構図を解き明かし、進路を見つける思想の構築は至難である。あるいはないかも知れない。
  先日、亡くなった評論家鶴見俊輔さんは、京都新聞夕刊コラム「現代の言葉」筆者として40余年もの間、エッセイを書いている。私が入社した翌年67年3月のコラムにはこうある。
  「戦争を嫌う世界のすべての人々にとってよりどころになるような国に、日本がなってほしいと思う。憲法はその方向をさしているが、その方向にむかって現実の日本が進むということがないと、理想はうすらいでゆく他ない」
  積極的平和主義などとはぐらかして集団的自衛権の行使の法整備を進めるのではなく、憲法9条を高く掲げ、世界に認識してもらう努力を政府もメデイアも、国民も続けるのが日本の進路と思う。
           ポツダム会議
           降伏調印式
               *
               *