第99回 窓に額をつけて見つめた「青春夜行」

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     〜隠れ東海道線・大垣―美濃赤坂をゆく〜

          
  次回100回記念の旅は、「青春紀行」。過日、新聞のコラムで高校生の部活の連載企画の題が「青春」であることに、筆者は若者には古臭いという感想を寄せていた。最 初、良く意味が飲み込めなかったが、別のコラムで「青春とは中高年への応援歌」を読み、なるほどと納得した。青春は古き時代への郷愁ともいえる言葉なのだろう。
  そこでプロローグ99回は鉄道フアンならずとも名前を聞いただけでジンとくる「大垣夜行」、100回は詩と映画で綴る「青春紀行」をテーマにしつ つ、いずれも東海道線鈍行の旅にした。
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  時刻表を開いて東海道線の路線図に見入る。目を閉じて思い浮かべるのは、50年前の東京―大垣鈍行である。東京発23時30発、大阪行普通列車が大垣行に なったのは1968年(昭和43)のダイヤ改正からだ。当初、廃止の方針であったが、反対の声が沸きあがり、当時の石田礼助国鉄総裁の一声で大阪を大垣止 まりにして存続された。
          
  新聞記者2年目の3月のことである。大阪夜行が形を変えて運行される改正に喜び、その年の秋、東京へ出た帰りに、東京駅の大垣夜行に乗った。安い給料ながら東京で散在して財布はスッテンテンだった。駅弁手に車中の人となった。客は学生風が圧倒的に多い。
  静岡までは覚えていたが、その後はうつらうつらで気がつくと電車は大垣を離れてゆくではないか。本線からそれもそれてゆく。一瞬、車庫入りと考えたが、周りに客がいる。
  車内アナウンスで「当列車の終着駅は美濃赤坂になっています。間もなく到着です」と案内されて、そういえば東京で美濃赤坂行といっていたことを思い出した。
  東海道本線の駅には美濃赤坂駅は ない。寝ぼけまなこで時刻表を開いて、大垣から分岐する支線であることがわかった。まさかのミステリーである。以来、この列車を使った松本清張ならぬ東海 道線の推理小説『消えた列車』を考えているが、実現していない。美濃赤坂行が1年後に変更され、大垣止まりになったことを書けないいい訳にしている。
  大垣夜行は正確には美濃赤坂行がなくなってからの呼称である。わずか1年で終わったミステリー夜行に乗り合わせた幸運は、その後、鈍行で旅するたびに思い起 こされ、私の旅の1ペ−ジを飾っている。大垣午前6時59分、赤坂7時27分着だった。赤坂は大垣から5キロ北西の駅である。美濃赤坂で降りた記憶がない から、そのまま折り返して大垣に戻ったのだろう。美濃赤坂行にした理由は、美濃赤坂―大垣間の朝の通勤ダイヤに組み込んだと、想像している。
          
          三成陣から見下ろす関ヶ原
  あれから40年余経過した。美濃赤坂の記憶も怪しくなった。そこで大垣―赤坂の隠れ東海道線紀行に出かけた。住いのある石山駅から琵琶湖線米原まで乗り、 ここで大垣行に乗り換えた。近江と美濃の境は東西文化の融合地帯である。米原を出て進行方向の左に柏原、さらに丘陵沿いに集落が並んでいる。長久寺。20 軒ほどの集落の中にかつて国境があった。現在も幅30㌢の溝が滋賀、岐阜の境である。山や川の国境は多いが、中山道の要所にはまれな跨いで越える国境だ。
  関西文化と関東文化の違いをこの地域の正月の餅の形から記事にしたことがある。彦根、長浜、柏原を経て長久寺を1軒ずつ、餅の形を聞いて回った。すると、京 風の丸餅と江戸風の角が混在していた。丸餅が若干多かったように思う。角派の家で理由を聞くと、嫁が岐阜の今須からきてかららしい。この逆も今須で聞い た。近江の嫁が来て丸餅になり、養老に嫁いだ娘の家も丸派になったとか。この手の本格調査をしたのが朝日放送ナイトスクープである。アホとバカを使い分 ける境界はどこか。関西人ならアホラシイといい、関東ならバカラシイというテーマを、全国の自治体にアホバカアンケートを実施し、バカは静岡まで、アホは 近江で、中間の愛知、岐阜はタワケ、関ヶ原はタワケとアホが交じり合うという結果が出た。アホの語源は中国の南の方言で親しみを込めた「おばかさん」説や 秦代の阿呆宮をさして不必要、無駄な代名詞にしたのが始まりなど諸説ある。バカは秦の宦官が馬を指して鹿といったのが語源などこれもにぎやかである。
  こんなアホなことを考えながらの鈍行の旅は楽しい。電車は関ヶ原にさしかかる。美濃は古代から戦略上の要所である。天下分け目の合戦よりはるか昔、天智天皇 後継をめぐる争いで吉野に挙兵した大海人皇子天智天皇弟、天武天皇)が後継指名を受けた大友皇子天智天皇嫡男)に反旗を翻し、吉野から伊勢経由で美濃 にはいり、ここで支持する豪族と合流して一挙に近江へ攻め込んだ。戦いは大海人皇子の勝利に帰し、近江京は滅び、天武天皇の世になった。今川義元、武田信 玄、信長、家康は東から京を目指し、近江、美濃を重視した。明治維新を除けば、戦国史は東風である。
  車窓からの関ヶ原はどこに三成、家康陣があったかはわかりにくい。車窓から見る関ヶ原絵図を現地に描けぬものかと思う。もっとも新幹線で通る観光客には関ヶ原を確認するだけで充分なのかもしれない。関ヶ原を過ぎて垂井、次が大垣だ。
          
          大垣―赤坂線は右へ折れる
  大垣の手前に北へ向かう線路が延びている。美濃赤坂への東海道支線だ。大垣で乗り換え時間待ちの間、大垣の町を散策する。大垣は水の都とも呼ばれ、水門川の 流れと清冽な湧水はこの町にうるおいと安らぎをもたらしている。街角に立ち止り、ふと耳にするせせらぎ。夜行で大垣を降りた20歳台の頃、新聞社を辞める かどうかで迷っていた。
  志高く入社した新聞社であったが、京風の粘っこい、濃密な人間関係に嫌気がさしていた。振り返れば、京都で仕事をしてゆくうえで糧になるものであったが、当 時は入社間もない五月病にかかり、どこかへ風船のように飛んでいきたかった。東京風のさらっとした付き合いが懐かしかった。芭蕉がここを『奥の細道』の結 びにしたことはその時、知った。
  50年近くの歳月が流れた大垣は、あまり変わっていないように私の目には映った。川は南に流れている。鮮魚店の店に並ぶ魚は頭を左にした横並び。関西は縦並 び。江戸風の横並びは静岡までで、蒲郡、岐阜あたりが境界帯という。関西は間口の狭い家の構造から魚屋は縦に並べて店先を有効活用したといい、関東は間口 が広いから横にしたというのが通説であるが、魚の字は象形文字といわれ、魚を縦にした姿に近い。歴史にうるさい関西は「魚は縦」をタテにしているのかもし れない。
  船運でにぎわった水門川のたもとにある船町には「右京道 左江戸道」の道標が立っている。尾張でなく江戸であるところが京と江戸を結ぶ物流の要所として栄えた大垣ならではの案内だ。東西のせめぎ合いが道標にも出ている。
          
          再建の大垣城天守
  大垣城跡は市の中心部にあり、いまは公園になっている。再建された天守閣からは西に関ヶ原の丘を遠望できる。1600年(慶長5)8月10日、石田三成は伏 見城を東軍から奪還し、その勢いをかって美濃大垣に入った。天守閣にのぼった三成はここを決戦の場にする作戦を描いていた。大垣を天下分け目の戦いにする 計画だった。関ヶ原松尾山は西軍大将の毛利輝元にまかせ、自らは囮になって大垣城に篭城して東軍を引き寄せ、背後をつく壮大な戦術である。天守の三成には 勝算があった。4重の濠に囲まれた大垣城を攻め落とすのは難しい。時間を稼ぎ、関ヶ原から西軍主力が押し寄せるのを待てばいい。三成の顔には笑みさえ浮か んでいただろう。しかし、頼みとする輝元は関ヶ原に出陣せず、松尾山に陣取ったのは小早川秀秋だった。輝元の保身と、三成の詰めの甘さが重なり、作戦変更 を余儀なくされる。秀秋の裏切りが西軍の敗走のきっかけになった。
  関ヶ原合戦の後日談になるが、捕縛された三成は曝されたさい、秀吉子飼いで家康についた福島正則から罵声をあびた。江戸中期の武功雑記(肥前藩4代藩主松浦鎮信著)にはこうある。
  「治部、おのれは分際もわきまえず、無用の乱を起しおって、恥を知れ」
  正則は朝鮮出兵で三成と対立していらい、疎遠になった。三成は静かに口を開く。
  「われになかったのは武運と二心を抱く者を見抜く目だ。あの世で太閤殿下に報告する」
  三成は秀吉子飼いでありながら、家康側の大名を思い浮かべていた。多くは事前に予想していたが、松尾山の小早川秀秋は中立派に入れていた。その裏切りに対す る言葉であったのだろう。秀秋は秀吉正室ねねの甥。秀吉の養子になり、羽柴秀俊と名乗るが、秀頼誕生で小早川隆景の養子になった。巷間いわれるほどねねと の関係が悪くなかった三成は秀秋を信頼していた。
  関ヶ原合戦前日、家康は大垣城から5キロも離れていない美濃赤坂の岡山に陣を敷いた。家康は城攻めを苦手にしていた。三成をおびき出し、野戦に持ち込む作戦。 三成が城を出て関ヶ原に陣をかまえる報を聞き、深夜、出陣命令を出していることからも家康の腹の内が読める。大垣駅へ急ぐ。目的地は「大垣夜行」の終着 駅、美濃赤坂だ。
          
          美濃赤坂駅
  東海道線支線ダイヤは朝夕1時間に1本の運行で、昼間は2時間から3時間アキになっている。大垣―赤坂間は距離に5・1キロ。沿線は大垣の住宅地として発展 している。電車は南荒尾信号場で北へ、進行方向だと、右に折れる。上り本線と交差しながら北へ進む。最初の駅が荒尾。前方に木造駅舎が見えてきた。40年 前に見た駅、わが青春の駅だ。
  赤坂駅でJR線路は行き止まりになる。駅構内の端に列車止めの柱が立ち、線路はここでプツンと切れている。赤坂の町は中山道宿場で栄え、さらに大理石、石灰岩の産出でにぎわい、今も西濃線貨物線が町なかを走る。
  駅西の小高い丘が勝山。家康は慶長5年9月14日、岐阜から赤坂へ入った。当時は岡山といい、合戦後に勝山に名を代えている。午前3時に赤坂から関ヶ原に向 かい、6時に陣を構えた。戦いは午前8時に始まり、正午過ぎ小早川秀秋が大谷陣に突撃したのをきっかけに流れは東軍に傾き、午後4時ごろに決着した。
  三成は家康の「大阪城」へ向かうというかく乱情報に惑わされ、なぜ大垣城を出たか。冷静に考えるなら家康が豊臣譜代とともに大阪城・秀頼を攻める可能性は低 い。大垣の三成軍を背にしてのリスクはこのうえもない。しかし、三成は動いた。毛利輝元関ヶ原に出陣しなかった計算外の布陣にあわてたとしかいいようが ない。戦では予定の戦術が狂うことはしばしばだ。そこを乗り切る力量が覇者の道につながる。老獪な家康と若く戦場経験のない三成の差であった。
  歴史は三成に厳しい。勝者である徳川の資料が土台になっているからだ。三成側の資料はわずか。この中で私は三成の盟友から彼の人物像を描いている。まず上杉 家老の直江兼続をあげる。家康に媚を売らず、一本筋の通った対応している。関ヶ原戦死の大谷吉継は余命いくばくもない体で奮戦し、三成との友情に応えた。 三成の股肱の臣、島左近は獅子奮迅の戦いをして討ち死にした。いずれも人間的魅力に富んでいた。秀吉から家康に乗り換えた秀吉側近武将たちは、理由はとも かく結果として強いもの、利についた。
  戦国武将の矜持は福島正則らよりも三成にあったというのが私の見方である。それだけに彼らは三成を悪者にする必要があり、家康の思惑と一致した。赤坂を歩き ながら関ヶ原合戦を考えると、歴史の面白さに行き着く。ただ若い頃は歴史を読む力がなく、資料の背後に目がいかなかった。いまは時おり、資料の主人公が耳 元にささやく不思議な気持ちになる。
          
  家康は関ヶ原の勝利で上洛のたびに赤坂を休泊所にした。勝山そばに岐阜城から移築した資材で「お茶屋屋敷」を建設する。屋敷は寛永年間に壊され、土塁や空濠、大手門跡などから城郭様式の建築であることがわかった。用心深い家康が泊まるにふさわしい構えだった。
  屋敷跡を少し歩くと、宿場の町並みになる。土地の人が名づけた「お嫁入り普請」の格子戸の屋敷、旅籠が往時のにぎわいを語る。幕末、孝明天皇妹の和宮が徳川 家茂に嫁ぐ道筋には中山道が選ばれ、供、荷の行列は50キロ続いたという。和宮は赤坂本陣に文久1年10月25日宿泊したため、幕府は2カ月前、見苦しい 家並の建て直しを命じた。費用は幕府持ちで借金の形をとり61軒が急造された。ところが幕府が倒れ、借金はチャラになり、和宮降嫁の道として語り継がれて きた。
  赤坂駅に戻っきた。夕闇迫る駅でかつての夜行列車の面影を探していた。大垣夜行は1996年3月、「ムーライトながら」(座席指定)の運行まで夜の東海道線 をひた走った。鉄道フアンから学生まで夢のせる青春夜行だった。82年(昭和57)には青春18切符が発売され、高速バスの普及でジリ貧の客は一時、盛り 返した。鈍行で東京へ行くと京都―東京が8200円。新幹線13000円、高速バス5000円に比べて高い。JRの長距離運賃は国鉄時代のままで、これで は鈍行には乗るなというばかりだ。
  大垣夜行は春、冬の青春キップ売り出し時に指定席臨時列車として運行されているが、キップを手にするのが難しいほどの人気である。2800円で夜行の旅は魅力的だ.。
  大垣では日が暮れた。行き交う列車のライトがまぶしい。目を閉じて浮かぶのは夜汽車の窓に顔をつけて「どこへゆく。なにをしたい」と問いかけた、ちょぴりセンチで、無鉄砲と臆病が同居した青春の日々である。
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