第116回 『孤高の人』ふるさと但馬をゆく

  〜厳冬の山にひとり挑み、山に消えたアルピニスト

   なんでも詰め込みの引き出しを整理していると、古い写真の束がでてきた。新聞社にはいって間もない頃の京都・北山の写真で一緒に写っていたのが、3年先輩の Mさん。Mさんは、当時、下宿の帰り道が同じで酒よりもコーヒーで話しこんだ。大学も職場も違うが、話し相手になってもらった。立命山岳部OBの山男。ヒ マラヤへ行く夢を語り、退職をほのめかしていた。兵庫県但馬の香住が郷里で実家からハタハタの一夜干しが届くと、「飯くおう」と誘われ、アパートで山用の 乾燥米を湯でふかし、ハタハタを食べまくった。そしてヒマラヤの話を聞いた。
  Mさんは香住の西隣りの町、浜坂出身の登山家加藤文太郎に憧れ、山男の仲間入りした。加藤文太郎新田次郎の小説『孤高の人』のモデルで知られ、大正末期から昭和初期、厳冬期の日本アルプスをことごとく踏破し、31歳で遭難死した。故郷但馬は登山家を輩出し、Mさんの同世代には冒険家植村直己がいる。Mさん はヒマラヤから帰国後、結婚して大阪の友人の会社で勤めていたが、癌で突然、亡くなった。奥さんによれば、カゼが直らない、変だなと医者にみてもらった時 は手遅れだったという。植村直己がマッキンレーで遭難死して10年後の死だった。
     
  Mさんの写真が但馬への旅に誘う。『孤高の人』を手に京都から山陰線に乗った。『きのさき1号』は朝7時32分に発ち、城崎には9時52分に着く。秋の丹波路は霧が深い。亀岡から園部にかけては朝霧の名所だ。山陰線は福知山を過ぎると、北上し、城崎から西向きになる。城崎からは鈍行に乗り換え香住まで30 分。日本海が広がる。あと1カ月もすれば雲が覆い、波が打ち寄せる日本海秋日和のいまは海も空も青く、のどかである。香住は山陰屈指の漁港でMさんの実家も漁師。冬になると、卵をつけたセコカニが下宿に届き、山仲間うちの宴会に呼ばれ、山談議に耳をかたむけた。
  Mさんをしのび、香住の町を歩く。海を見てはるかヒマラヤの山を思った少年時代。海沿いの港町であっても、平地はわずかしかなく、大半が山また山である。リ アス式海岸の特有の絶壁が続き、湾のところだけが砂浜になっていて、ここが港だ。駅からの距離は1キロもない。隣の浜坂も同じ地形である。海と山。但馬は少年を海と山へ誘った。
     
  「加藤文太郎のすごいのは、すべて単独行で冬のアルプスを踏破した。まねをしようとしてもできん」と、目を輝かした。ちょうど雑誌『山と渓谷』で新田次郎が 『孤高の人』(昭和39年から43年4月まで連載)を書き、見せられたことを覚えている。冬山を知らない門外漢の私に「いずれ俺もヒマラヤに単独で行くつ もりだ」と、高峰の厳しさを言い聞かせるように語った。当時、京都新聞社では編集方針をめぐり、若手記者と幹部の間であつれきがあった。知事選の偏向報道 にはじまり、政権寄りの紙面は際立っていた。多くの若手記者が次々と退職して朝日新聞に移った。まだ新米記者の私は、もんもんとするしかなかった。「どこかへ行きたい」と、していた私に事件が起こった。
  支局への移動に再考を求めた親しい同僚が懲戒解雇処分を受け、頼みとする組合も「記者なら異動はあたりまえ」と、取り合わなかった。数人の有志と解雇撤回の運動に立ちあがった。会社を辞め、ヒマラヤ行きの準備をしていたMさんを交え、毎晩、遅くまで対策を話し合った。先行きはわからないままの無謀と呼ばれた運動は、やがて組合を動かし、社側と和解成立して同僚は職場復帰して終わった。Mさんとは帰国直後に会い、「解雇は撤回されて、彼は仕事しています」と、 報告すると「よかったな。君も会社辞めないでよかったやないか」と、握手を求められた。しかし、私は夢を実現したMさんに面映い思いしたことを覚えている。ヒマラヤの写真をみせてもらった後、手紙のやりとりをしたものの会う機会もなかった。
  11月ともなればカニ漁でにぎわう香住港は一年のうちでもっとも静かな季節を迎えている。カモメが舞う市場も閑散としていた。港の西は浜坂まで16キロの海岸 線が連なり、火成岩がはげしい波浪に削られ、溶岩が固まるさい、岩の割れ目にひびがはいり、柱状になる節理(割れ目)の断崖、洞門、洞窟など雄大な造形美 を見せている。食堂でイカ刺し、煮魚の定食を注文、うまさにたまげた。これをやばいというのだろう。列車待ちの時間を利用して『孤高の人』を広げた。
  冒頭で加藤文太郎について若者がたまたま出会った老人から人物像を聞くところから始まる。
  「加藤はうまれながらの登山家であった。彼は日本海に面した浜坂町で生まれ、15歳のときに神戸に来て、昭和11年の正月、31歳で死ぬまで神戸にいた」
  新田次郎52歳の作品。この小説を山岳小説と呼ばれることをいやがった。加藤文太郎の短い生涯をドラマチックに描き、大正末期から昭和にかけての神戸と故郷・浜坂を舞台に山、勤め先、仕事、家族を描いている。日本アルプスと六甲山系はふんだんにでてくるが、山の情景よりも単独行のプロセスや内面の心理描写 に重きが置かれている。老人の語る加藤像は続く。
  「彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった。昭和の初期における封建的登山界に社会人登山家の道を開拓したのは 彼であった。彼はその短い生涯において他の登山家が一生かかってもできない記録をつぎつぎと樹立した。その多くは冬山であった。一月の厳冬期に富山県から 長野県への北アルプス縦走を単独で試みて成功したのも彼が最初であった」
  小説の勤め先は神戸造船所になっているが、実際は三菱内燃機三菱重工の前身)である。当時の高等小学校卒業生を選抜試験でふるいにかけ、5年の教育をして 技術者として送り出すシステムを採用していた。文太郎は浜坂を離れ、研修所にはいり、寮生活を送る。研修所生活で六甲山系をかたぱっしから歩いた。足の速さは教習所の教官らを驚かした。時代は金融恐慌に見舞われ、満州がきな臭くなっていく。
  加藤の山歩きは寮、地元で評判になり、上司の技師の紹介で関西山岳会会長の知己を得た加藤は、ヒマラヤの存在を教えられ、ヒマラヤへの夢を育んだ。無駄使いは一切せず、給料は貯金した。
  このくだりはMさんの思い出と重なる。夢をなんとしてでも実現したかったのだろう。立命の山岳部は海外遠征の実績が少なく、自ら道を拓く思いもあったのにちがいない。
  小説の中で加藤文太郎は結婚式のため、浜坂へ向かうが、香住で途中下車して浜坂まで25キロを歩いた。実家では時間がきても姿をみせない婿殿にあきれ、新婦はかれの山への憧れの強さを改めて知る場面だ。新田次郎は『孤高の人』を執筆するにあたり、香住から浜坂を取材、文太郎を生んだ但馬の風土を行間に織り込 んでいる。
     
  香住から浜坂は列車で20分である。途中の余部は列車事故を機に鉄橋からコンクリート製橋梁に姿を変えた。ここからの日本海は春夏秋冬、山陰線のきっての眺望になっている。浜坂は温泉町に 町名変更し、漁港と温泉が売りだ。夢千代日記で有名な湯村温泉はここからバスで20分の山の中にある。駅から浜の方角に1キロほど北へ行くと、加藤文太郎記念図書館。2階に遺品などが展示されている。新田次郎は妻の花子とかつての上司遠山豊三郎(小説では技師外山三郎)の二人から取材し、長編に仕上げた。 妻からは実名で載せてほしいと注文され、登場人物の中で主人公と花子だけが実名になっている。
  新田次郎は加藤と一度だけ、冬の富士山で言葉を交わしている。新田が気象庁富士山観測所勤務の頃、交代のため、登山中、加藤と出会った。午後3時。冬の富士では行動停止の時間である。ところが山小屋で休憩した加藤は甘納豆をほおばり、ニャツと笑って「頂上へ行きます」と、普通2日かけて登る道を1日で山頂の 測候所へ着いたという。その時の出会いが作品のイメージに大きく影響した。加藤の不可解な笑いは、文中にもでてくるが、妻花子によれば単なる照れ隠しにす ぎないそうで、謎でもなんでもなかった。
  謎は昭和11年正月の遭難である。パーテイを組んで登るのが常識化していた山岳界であえて単独行を選んだ加藤文太郎はこれまでパーテイを組んだことがなかった。その加藤が神戸山岳会の吉田富久(小説では宮村)らと大晦日から北鎌尾根を縦走中、遭難し、春に遺体で発見された。新聞は加藤の遭難を大きく取り上げた。『孤高の人』では宮村に引きずられるようにパーテイのメンバーになり、加藤と宮村の間のわだかまり、宮村の加藤への対抗心が遭難への遠因になったことを描いている。山岳小説においては遭難が作品のポイントになり、原因をめぐる後日談がミステリー風に展開されるのが常だ。井上靖の『氷壁』は実際におきた谷川岳のナイロンザイル切断遭難をモデルにしている。切れたザイルにからむパートナーと、美貌の人妻の関係が物語の筋だ。
  なぜ加藤ほどの登山家が遭難したのか。誰しもが感じる疑問である。状況を説明できる生存者はいない。遭難の二人だけが知る。新田次郎はほぼ確信的に「宮村」の存在にポイントをあて、孤高の人の死をしめくくった。「宮村」が加藤の足かせになった遭難描写は、神戸の山岳関係者の間では当然、批判的だった。但馬出身の作家谷甲州は小説『単独行者』で新田の描写に異論を唱え、吉田の功名心から始まった登山ではなく、加藤も納得の上の北鎌尾根踏破であったと、資料をもとに書いた。情景描写や心理描写はヒマラヤ経験者らしい迫力に富んでいる。ただ谷の小説には新田次郎の描く加藤文太郎と山に対してある種のこだわりが見え隠れして、加藤の人間像が浮かんでこない。
     
  小説としての面白さは文句なく『孤高の人』に私は軍配をあげる。なぜ山に登るのか。加藤文太郎が浜坂の町で、神戸で、厳冬のアルプスで問いかけたのは、なぜ生きるのか、だったと思う。
  エヴェレスト登頂をはじめ幅広い活躍する野口健さんが加藤を評して、山と街を行来して二つの別世界を両立させた登山家と、書いている。街には会社、家庭もはいるだろう。『孤高の人』が花子という伴侶を得てもなお、山と人生の単独行に固執したとは思えない。パーテイを組んだ理由も「宮村」よりも伴侶の存在のほうが大きかったかもしれない。
  厳冬の難所である北鎌尾根は、アルピニストの人間関係やためらい、心の迷いを許さない非情の山というしかない。

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メモ 香住の港から遊覧船が運航。断崖や洞門の海岸美は海からでないとわからない。20分から一時間コースがある。浜坂からも運航している。11月15日まで。
  植村直己冒険館 香住の隣町の豊岡市日高町の記念スポーツ公園内にある。今年は没後31年。5大陸最高峰の頂上石や北極圏踏破の犬そりなどを展示。
  加藤文太郎記念図書館 愛用のスキー、手帳、写真などが2階に展示。山の資料が豊富にそろっている。
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