第92回 日本一長いローカルな飯田線でゆく伊那の高遠桜まつり

  年金と健康保険の2本差しの旅の特徴は、時間がたっぷりあることだ。何時までにつかねばならない。誰かが待っているなど、恋のときめきからは縁遠い旅。猫 とたわむれる日々でふと、青春キップを使った各駅停車が思い浮かんだ。花見ができて、道中がゆっくりのローカルな線の条件にはまったのがJR飯田線であ る。飯田線豊橋―辰野間の195・7キロ、駅の数は94駅もある。駅間隔は平均2キロと、路線バス停並みである。各駅停車で6時間かかる、中央本線辰野 と東海道線豊橋を結ぶ長いローカル線だ。
          
 年とると気が長くなるなんては嘘だ。たいがいの人間は気短くなり、いらつく。年寄りの喧嘩は分別ある理論闘争ではなく、しばしば血をみる事件に発展する。自分が年をとり、待ったがきかない心理は、身にしみてわかる。旅はそんな加齢現象を抑える効果がある。
  辰野の手前、伊那には高遠桜の名所があり、4月中頃が満開と聞くが、気がせいて待っていられない。青春キップ売り出しを待って旅立つことにした。青春キップは、学生の長期休暇の時期しか発売しない。JRの暇な老人へのいやがらせだ。
   東海道線の鈍行に揺られて石山から豊橋まで2時間半。弁当や飲み物をしこたま買い込み、うきうき気分で豊橋發の各駅停車に乗り込んだ。ロングシートの車両 に若者に交じり、いるいる、「青春族」が坐っている。目のあった相手も年金稼業のご同輩らしい。口許をゆがめて渋いあいさつしてくる。道連れというより も、密かな楽しみに割り込むライバルの顔だ。
  3月末の雨で桜の開花が早まり、各地で開花宣言が出ている。飯田線沿線は4月中頃のため、まだつぼみ膨らむ段階である。中部山岳地帯を走る列車は3線あ り、一番北寄りの飛騨ルートが岐阜―高山間の高山本線、その東の木曽路である旧中山道ルートが名古屋―塩尻間の中央本線飯田線諏訪湖を源流にする天竜 川沿いに豊橋―辰野までの天竜の渓谷の隙間をトロトロと走る。3千㍍級の山に挟まれた渓谷は伊那谷と呼び、閉ざされた地域であるが、100余の峠の麓に集 落があり、東と西の文化が往来した歴史の十字路でもある。
          
  豊橋を出て10分で稲荷社の豊川。すでに5駅に停車した。飯田線豊橋―豊川間の豊川鉄道に始まり、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那鉄道が国有化されてでき た。「道はなくても列車は通る」と、地域の足になってきた歴史が沿線駅の多さになっている。55分経過して本長篠豊橋から18番目の駅である。長篠は武 田信玄没後の天正3年(1575)の信長・家康連合軍と武田勝頼軍が対峙した古戦場。信長の鉄砲隊と武田騎馬隊がぶつかる戦国史の残る戦いは信長の勝利に 終わり、武田滅亡につながった。
  本長篠から2つ目の駅が湯谷温泉。かつては豊橋鉄道の田口線が鳳来寺まで延びていたが廃止され、いまは車で行くしかない。鳳来寺ブッポウソウゆかりの寺と して野鳥フアンにはおなじみの寺。ブッポウソウには「姿のブッポウソウ」と「声のブッポウソウ」がいるのは知られるところであるが、山間でブッポウブッポ ウと鳴く鳥がブッポウソウではなくフクロウのコノハズクとわかるまで長い時間を要した。昭和10年、NHKが鳳来寺から鳴き声をラジオで全国中継したのが きっかけになり、定説がくつがえる。
  浅 草の傘店で飼育していたコノハズクがラジオの鳴き声に誘われて、鳴き出した。主人はいままで鳴かないコノハズクが突然、鳴き出したのにはびっくり。それも 「ブッポウ」の声に、NHKへ問い合わせことから、明るみになった。5月から7月の野鳥の季節には声を聞きに来る野鳥愛好家でにぎわうが、最近は鳴き声が しなくなったという話だ。
  豊橋を朝8時10分出発して12時10分に天竜峡駅に着く。天竜下りの人形が迎えるが、顔は西洋人なのが面白い。列車は終点のため、乗り継ぎの時間待ちが 20分ある。駅周辺を歩く。飯田線は前身の伊那電の辰野―天竜峡駅間が昭和2年開通。次に天竜峡三河川合駅間が三信鉄道によって結ばれ、豊橋東海道線 につながった。天竜川はここ天竜峡駅から山の間を深く刻み込む峡谷になり、静岡県天竜市まで流れ、遠州灘に注いでいる。駅から200㍍も行くと、川と出合う。峡谷にかかるのが姑射橋(こやばし)で、明治10年に架橋され、現在は4代目になる。
          
  飯田線には秘境駅で評判の駅がある。飯田線最大の難所はもともと電力会社などが運営した三河川合天竜峡間の67キロ㍍。列車は天竜川の断崖をくりぬいたトンネルと鉄橋をあわてず、ゆっくり走るから見ごたえがある。駅は天竜川の複雑な地形のため、集落近くでなく、線路優先の地を選んであるからはずれ駅が できた。それが秘境駅。道がない駅で車は通れない。中部天竜駅を過ぎると、峡谷は深く、最初の秘境駅が小和田。佐久間ダムで集落が水没し、高地の駅のみが 取り残された。続いて中井侍。風変わりな駅名の由来は定かでない。長野県と愛知県、静岡県境にある立地からも秘境色は濃い。中井侍は銘茶の産地で知られ、 天竜川を眼下にする急峻の地ゆえに朝霧が発生し、茶の栽培に適した立地は長野における銘茶をおくりだしている。静岡茶もここで密かに仕込んでいるという噂 だ。
  駅から長野県天竜村坂 部まで徒歩1時間かかる。坂部は熊谷直実の末裔が現存する民俗学の宝庫で、中世の歴史資料が伝記はもとより山里の暮らしに残っている。為栗(してぐり)、 金野、田本、千代と、秘境駅が続くが、田本駅ホームにいたっては背後に絶壁が迫り、ホーム幅も人一人が歩くのがやっとの狭さだ。
          
  伊那の小京都飯田は豊橋から59番目の駅になる。時間にして4時間。飯田を伊那盆地の中心にしたのは武田信玄東海道へ進出する拠点にするべく飯田城を修築 した。江戸時代には5万石の城下として栄えた。城跡に建つ飯田長姫高校は年輩の野球フアンには思い出深い学校である。昭和29年の選抜高校野球で信州の野 球無名高が初出場で優勝、甲子園はどよめいた。浪商、高知商、熊本工を1点差で次々に破り、身長157㌢の三沢投手が決勝でも小倉を押さえる快投は小さな 大投手と騒がれた。
  列車を降りて、ホームで屈伸する。相撲の琴奨菊が塩を手に腰を伸ばしたポーズを2度ばかりして席に戻った。このポーズ、ためしに真似てみると、体が軽くなり、近頃はところかまわずそっくり返っている。隣の席の50ぐらいのおっちゃんが話しかけてきた。
  「旅行ですか」「ええ、飯田線の景色と高遠桜の見物に」
  「桜はまだ早いかも。あそこの桜は色が濃いから開花まえでも楽しめる」
  「ところで伊那の名物はなんですか」
  「名所でなくて食べ物なら、おたくらが喜ぶ珍味はザザ虫と蜂の子かな」
  蜂の子は知っていたが、ザザ虫は初めて聞く。川の虫というから、蛋白源に貪欲ないかにも信州らしい名物である。おっちゃんの説明によると、天竜川のトビゲ ラ、カワゲラの水生幼虫で「真冬からいま頃、あぶらがのっている」という。あぶらののった虫など想像もつかないが、煮付けの風味は絶品の味わいとか。高級 食材でわずか35グラムの瓶詰めの甘露煮が1500円もする。数が少なく、真冬の川での作業を考えると、うなずける価格だ。高遠の帰りに中井侍の銘茶とザ ザ虫の買い物を忘れないようメモをした。
  飯田を午後1時3分に出発した列車は車窓の左右にアルプスの山並みを取り入れて走る。田切伊那福岡間のアルプスの眺望に息をのんだ。雪の山並みに各駅停車の尻の痛さなどとんでいく。
          
  伊那に午後3時5分着いた。豊橋を出て6時間の鈍行列車の旅はここで幕。旅の一部が終わり、二部の始まりだ。伊那から高遠までバスで20分。今夜の宿をどこ にするか、決めかねている。というのは高遠の夜桜には早すぎるので散策して諏訪まで出て温泉に浸かるさんだんをしているからだ。バス停から城址まで歩いて 20分、山沿いの町は東南に仙丈岳(3033㍍)、西の空に西駒ケ岳がそびえている。城址の桜はつぼみの先っぽを赤く染めている。観光客の姿はちらほら。 高遠城諏訪氏の一門、高遠頼継の居城の時代、甲斐の武田信玄と通じて諏訪攻略に加担して勢力拡大を意図するが、諏訪領有をめぐり信玄と対立してあっさり 武田の軍門にくだった。
  信玄にすれば伊那進出の拠点がほしくて頼継に内応させ、用済みになると攻める予定の行動だった。武田氏居城の高遠は軍師山本勘助らによって改築され、三峰川 と藤沢川の合流する丘陵の突端に「風林火山」が旗めいた。信玄の懐刀勘助は駿府遠江への戦略上の要に位置づけ、堅牢かつ機動性のある城に仕上げている。 信玄は信州から三河へ進み、京をめざしたが、病没した。
  信玄没後、長篠の戦いで敗れた武田軍は1582年(天正10年)、3万もの織田軍をここで迎え射ち、熾烈な戦いのすえ城は落城した。信玄の夢を託された勝頼はこの戦いの10日後に自刃している。
  徳川時代は3万石の城下として栄え、旧三の丸にある藩校進徳舘は藩士のみならず、他藩の藩士子弟も学び、町民の子どもは師範らの自宅に通った。この学び舎か ら多くの学者、教育者が巣立っている。高遠藩の徳川期の最大の事件は家継の生母月光院付の大奥年寄絵島が高遠に「永の遠流」になったことだろう。月光院の 名代で代参した帰りに人気役者生島との密会が明るみになり、生島は伊豆大島流罪、江島は伊那へ送られた。絵島33歳。以降、江島は28年間、高遠で幽閉 生活を強いられ、61歳で波乱の生涯を終えた。この江島生島事件は大奥の勢力争い、次期将軍をめぐる暗闘などが背景に語られ、将軍吉宗誕生の引き金になっ た。江島の実家の旗本家は兄弟が死罪、処罰者1400人という数字は政争であったことを雄弁に語っている。
  城は明治維新で廃城になり、桜の馬場のさくらを移して公園にしたのが、「花の高遠」のはじまり。1500本ものコヒガンザクラの純林に育ち、淡紅色の花は石碑に刻まれた天下一にふさわしく、日本三大桜の評がある。
          
  見ごろは4月中頃から月末にかけてで、そのにぎわいは旅行代理店のツアーがそろって高遠めざすことでも想像がつく。いまはかれんなつぼみに夜桜風情を重ねるしかない。
  江島が桜咲く頃になると思いかべたであろう江戸の春。桜吹雪に幽閉の身を忘れ、花びらを手に受けたかも知れない高遠の春。江島にとってつかの間の華やぎに満ちた日々だったにちがいない。
  飯田線での6時間は腰にこたえて、難儀な旅であったが、帰りにはまた、各停の虫が騒ぎだし、「夏に篠ノ井線姨捨小海線清里を踏破ならぬ「座破」をささやく。
  ※メモ JR東海飯田線秘境駅号運行 4月11日から13日、同18日から20日運転。
  豊橋9時50分―飯田15時28分、豊橋には17時54分帰着。駅で時間をとって停車、周辺を散策できる。373系3両編成、全車指定。
          

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