第82回 夏の風物詩、長良川鵜飼

  〜篝火に浮かぶ国盗り道三、天下布武の信長の戦国絵巻〜

  鮎の季節である。琵 琶湖岸に住みながら、鮎釣りの経験はない。しいていうなら、5月頃、湖岸で稚鮎のひっかけ釣りは、何度か楽しんだ。友釣りは、勧められることはあったが、 実行にはいたっていない。琵琶湖の鮎は成長しないため、滋賀県人は外へ出ないと、名をなさない例えに琵琶湖の鮎が引き合いに出される。近江商人を指す言葉 だ。
  鮎は清流の魚で香魚の別名がある。釣り人は清流の鮎はスイカの甘い香りがし、水質の落ちる川の鮎はキュウリの香りがするというが、残念ながら比較する機会はなく、この季節になると、ことしこそと思い立つが先送りが常だ。
               
  香りと味を求めて岐阜・長良川の鵜飼見物に出かけた。日本の真ん中、長良川福井県境の分水嶺を源流に、美濃、岐阜市内 を経て伊勢湾に注ぐ。川幅が広くなり、水遊びもできる金華山麓には鵜飼の船が岸に並び、夜の篝火を待っている。金華山は、歴史好きには稲葉山のほうが通り よい。京の僧から油売りに転じ、ついには主家のっとり、稲葉山に壮大な城を構えた美濃の蝮こと斉藤道三の下克上の舞台である。斉藤道三を主人公にした小説 は司馬慮太郎の『国盗り物語』が有名であるが、江戸時代の『美濃国諸旧記』(大正時代編纂出版)が種本になっている。司馬遼太郎よりも早く坂口安吾が昭和 28年に一代記を小説にした。
               
  京 の油売りから城持ちになる「国盗りの物語」は戦国ドラマの醍醐味あふれる傑作ながら、近年になり、同時代の近江守護六角承禎書簡(写し)が発見され、道三 一代記は修正を余儀なくされている。道三の父は京の僧から美濃へ移り、西村姓を名乗った書簡だ。道三の代になり、仕えていた主家をのっとり、斉藤姓になっ た。一代記の前半は父親の話という新資料分析は、行商人から短期間に身を起こした疑問もこれでうなずける。
  道 三は息子義龍に城を譲った後に、父子の対立が表面化し、長良川畔で戦端をまみえ、道三は63歳の生涯に幕を閉じた。道三は稲葉山城とともに山麓の町づくり を手がけ、鵜飼を奨励していた。信長が義父道三(帰蝶濃姫の父)の遺志を継ぎ、稲葉山城を攻めたのは、道三死後11年目である。
  当時、信長は近江の浅井長政と同盟を結び、義龍・義興親子は同じ近江の六角氏に支援を求め、互いに牽制していた。道三に関する六角氏書簡はこの時のものだ。
               
  信長は稲葉山に本格的な城を築城した。標高329㍍の稲葉山は急峻のうえ、北に長良川、南には木曽川を堀にした天然の要害だった。信長は城下町を岐阜と命名した。中国周の文王が岐山に興って天下平定の故事に由来する。阜は丘の意。信長天下布武の拠点の誕生である。
  長 良川畔から見上げる稲葉山金華山)は、標高以上にそびえ立ち、威圧している。麓からは山頂の城まで3分のロープウエーがあるが、歩いて登れば50分はか かる。ここに天守閣、本丸、二の丸、居館などを整備した当時の建築技術の粋は現代人の想像を超えている。さらにわずか数年で人口1万の城下をつくった。信 長はここに10年住み、安土へ移った。戦さのかたわら、築城と町づくりに取り組んだ戦国の英雄の行動力には言葉を失う。心は天下布武。人間をそこまで駆り 立てる権力、権威の魔力はすさまじいものがある。信長は天守に立ち、眼下の長良の流れを眺め、京への思いを強くしていた。
               
  確かに山並みを遠望しつつ、悠久の川の流れ、はるか伊勢の海を目にすると、凡人といえども気持ちは大きくなる。鳥のごとく自由自在に飛んで見たい。地上から城を見あげたおののきは、どこかに消し飛んでいた。
  信 長は「武を持って天下を治める」決意をした。その頃、信長を訪ねたイエスズ会司祭、ルイス・フロイスは城と城下に「バビロンのにぎわい」を見た。バビロン はメソポタミヤの古代都市である。信長と宣教師フロイスの岐阜での出会いは、戦国の覇者と、キリスト教という西洋文化の遭遇にほかならない。
  信 長は長良川の鵜飼でも名を残している。鵜匠制度を導入したからだ。長良川の鵜飼の歴史は古い。文献に見られる鵜飼は7世紀の唐の『随書』の中に「倭国はウ の首に小さな環をつけ、水に放ち、魚を取らせる」とあり、聖徳太子の遣隋使の話がもとになっている。世界最古の鵜飼記録である。古事記日本書紀にも2カ 所、鵜飼の記述が出てくるから、古代から鵜飼は行われてきた。平安時代になると、宮廷鵜飼が京の川で行われ、宮廷管理のもとでの鵜飼だった。武家の鵜飼は 鎌倉期になり、鷹狩と鵜飼をあわせて「鵜鷹(うしょう)逍遥」と、呼んでいた。信長は鵜匠に排他的特権を与えて録米を給し、鮎などの魚を供納させた。鵜飼 は接待、鮎は進物になり、長良川の鵜飼は有名になった。
  徳川時代には尾張藩の直轄になり、舟一艘につき1シーズンで3500匹、全体で5万匹の上納が課せられた。鵜匠頭には名字帯刀を許した。
  長 良川の金華山麓一帯は川幅広く、水流も穏やかであるが、上流に行くにつれ、蛇行を繰り返し、瀬と淵が交互になる。鵜飼は金華山麓の河原を基点に、上流を狩 り下りして鵜を放つが、現在の鵜飼は観光用の見せ鵜飼である。ただ年8回の御料鵜飼は献上用の鮎捕獲が目的だ。古来、鵜飼見物の要人、文人墨客は競って長 良川を訪れた。
               
  芭蕉は貞享5年(1688)、門人で呉服商の安川落梧の招きで岐阜を訪れ、鵜飼句を詠んだ。
  名にしあへる鵜飼といふものを、見侍らむとして暮れかけていさなひ申しされしに、人々稲葉山の木陰に席を設け、杯をあげて
     またたぐひ長良の川の鮎膾(なます)
     おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな
  飲み込んだ魚をはかせる鵜舟を楽しみ、せっかくの獲物を飲みこめない鵜に思いを寄せた。
  鵜飼見物は現代も芭蕉の頃と変わりはない。夕方、観光客の待つ鵜飼所に鵜匠と鵜がやってくる。鵜匠はれっきとした宮内庁職員である。肩書きには宮内庁式部職。代々、世襲制で現在の鵜匠は長良に6人、上流の関市小瀬に3人の計9人で構成されている。河畔の鵜飼の里に住み、現在は山下純司さん74歳が代表を務めている。世襲制のため、一家から一人しか鵜匠になれない決まりだ。
  薄暮とともに、鵜が籠から出され、一羽ずつ首結いを巻き、腹掛けをかける。首結いは鵜が飲みこめないように首にひもをするもので、人差し指2本 がはいるぐらいがいい、といわれるが、目安でしかなく、鵜匠の経験がものをいう。6艘が岸を離れ、そろって川を下るが、舟の並びは流れの急な瀬にはいるご とに並び位置を変え、漁の平等を取り決めている。長く父親のもとで修行しても、父が引退しない限り、年齢に関係なく補佐役に徹しなければならない。40代 から70代と鵜匠の年齢に幅があるのはそのためだ。
  鵜 は一人の鵜匠に12羽がゆだねられ、鵜の状態によって待機組と出番に分けられるが、12羽の中でも魚を取る鵜と、模様眺めのさぼり鵜の違いがある。水にも ぐった鵜は篝の火を頼りに魚を追うが、灯りは眠っている鮎を驚かし、銀鱗の反射に鵜の目はさえ、狙いをつけ、飲み込む。のど元がふくらむ鵜は手繰り寄せら れ、くちばしを開いて籠に吐かせる。すべては一瞬の間に処理される職人芸である。鮎は鵜のくちばしでショック死し、そのため、鮎の鮮度が保たれ、歯形鮎と して珍重されてきた。鵜飼の鮎は量も限られ、料理屋で食する機会はまずないが、中には歯型の鮎がでる幸運にあやかる客もいる。
               
  鵜 飼は観光目的になったが、年8回の御料鵜飼は、皇室、伊勢神宮明治神宮に献上の鮎捕獲の行事だ。普段は禁猟の上流までのぼり、5キロの狩り下りの鵜飼 は、観光客相手でない、本来の鵜飼に近く、野性味たっぷりの鵜と人の織り成す狩りの顔を見せる。船上の見物は制限されるが、左岸の交通公園前の瀬は激流に もまれる鵜舟を河畔から見物のポイントだ。鮎はその夜のうちに氷詰めされ宮内庁へ届く。
  鵜たちは漁が終わると、やっと食事の時間だ。その日の獲物で商品にならぬ魚や匠持参のホッケが与えられ、一羽一羽をなでる鵜匠の姿は家族へのねぎらいにあふれている。
  鵜 はウミウ、とカワウがいるが、長良鵜飼の鵜はウミウ茨城県海岸で捕獲の鵜を訓練して使うが、鵜匠によると、最上の鵜は「ヒコマル」というウミウとカワウ の雑種で捕魚能力も高い。しかし、いまでは手にできない幻の鵜になった。鵜の漢字は中国ではペリカンのことを指し、中国ではウを鸕鷀(ろじ)と書くが、黒い鳥の意味である。古事記は「鵜」と日本書紀は鸕鷀を使い、古事記編纂での誤りが鵜になったようである。
  学 問上の発見にはウの役割を見逃せない。ダーウインはガラパゴス諸島を探検中、海にもぐるウミトカゲや羽が退化して飛べなくなったウを見つけ、生物の進化と 退化のヒントを得たのが進化論の端緒になった。ダーウインが進化論でウから生物の成り立ち、変遷に注目したのに対し、日本では文化を考える民俗学の分野で ウは興味深い生きた資料である。ウは祭儀に出てくる神聖な鳥として敬われ、能登気多神社の鵜祭を見物した民俗学柳田国男折口信夫は祭礼の深夜、海に 放たされる鵜の姿に、日本の祭りの原型を、マレビト来たる日本文化を重ねた。
  ア ジアで鵜飼は中国、日本以外に痕跡をとどめていない。不思議なのは朝鮮半島には鵜飼はない。そこから考古学、民俗学としての鵜飼ルーツ研究が始まった。日 本発の鵜飼が中国へ伝播した説、中国鵜飼が日本へ伝来した説の二つの見方がある。さらに文化伝播にこだわるのではなく、それぞれが独自に鵜飼の仕組みを考 案、発展させた説などにぎやかなことこのうえない。鵜の目鷹の目ごとくで面白い。
  長 良川の鵜飼見物後は鮎を食したい。料理屋もあるが鵜匠が副業でやっている食事処がある。長良橋右岸の鵜飼の里の『鵜の庵』。歯型鮎とはいかないが、天然鮎 の香味はたっぷり嗅ぐことはできる。焼き鮎は定番ながら、鮎雑炊がお勧めだ。焼き鮎をほぐして雑炊に入れ、味付けも塩のみのため、鮎味が生きている。鵜飼 の季節が終わると、鵜匠は秋に鮎ずしを漬ける。尾張藩が鵜飼保護の背景には鮎ずし確保があった。これを将軍家などに届けた。鮎の腹に飯をいれ、およそひと 月の間、漬け込み発酵させるが、琵琶湖の鮒ずしに比べて臭みがないのは、鮎の持ち味だろう。この鮎ずしは一般に出回らず、鵜匠たちの贈答品になるが、鵜の 庵では客に出している。なれずし独特の風味をたんのうできる。
  長良川に聞える篝火のもとのざわめき、あれは、漆黒の闇からよみがえった道三、信長の豪快な笑い声か。
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  メモ 全国各地の鵜飼は、 木曽川沿いの犬山、山梨県石和、京都・嵐山、宇治、和歌山の有田、四国の大洲、中国山地の三次、島根の益田、山口の岩国がある。益田の鵜飼はひもつきでな く放し鵜飼。九州に行くと、筑後川・原鶴、浮羽の鵜飼は長い歴史があり、万葉の時代までさかのぼる。日田は岐阜から鵜匠を呼び、始まったという。
  鮎雑炊は長良川畔の料理屋では鮎コース(5000円から)になっているが、鵜飼の里の『鵜の庵』では単品で注文できる。千円。なれずしは1500円。月曜日、第2、4日曜日は休み。
  御料鵜飼は7月9日、17日、24日、8月8日、20日、29日。

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