第83回 セピア色の風景が問いかける現代日本

  〜小説「官僚たちの夏」と石炭の町〜

  アベノミックス、アベコベミックスなど安部政権の信を問うた参院選は、マスコミの予想通りの結果に終わった。野党に「経済成長」の是非を問う論争を期待する方が無理だった。
  今 回のセピア色の風景は、高度成長の入り口にあって、命がけで政策遂行に取り組んだ官僚たちの姿の追跡した再現ドラマである。その姿にエネルギー政策の転換 で廃坑に追い込まれた炭鉱の町を重ねた。東日本大震災原発事故で官僚たちが身体を張った話は聞かない。後ろに隠れて政権批判しながら、出番をうかがう官 僚たち。時代も状況も違うがセピア色の風景は、戦後復興から高度成長に転じた日本経済を担った昭和の官僚たちを浮きぼりにする。
  昭和30年代の日本。エネルギー革命、技術革新の日本経済が始まった。60年安保と70年安保の間にあって政治も自民、社会両党が防衛、外交、内政で主張をぶつけあった。
               
  『官 僚たちの夏』は城山三郎週刊朝日に連載した後、1975年(昭和50)新潮社から単行本になった。初夏から夏は官僚にとって人事と政策づくりの熱い夏で ある。主人公風越信吾は型破りの異色官僚として通産行政を指揮し、斜陽の石炭、繊維、勃興する自動車産業からコンピュターにいたる時代の転換期を強引なま での手法と、行政指導で通産省黄金時代を築いた。マスコミは「ミスター通産」と呼んだ。
  彼 は夏、ネクタイをしめず、開襟シャツ、はてはランニング姿で仕事し、「官僚は大臣のために仕事しない。国のため社会のために仕事する」と、豪語し、部下を 育て、時の総理、自民党実力者と渡り合った。この小説の登場人物にはモデルがあり、当時の通産省の官僚、政治家が名前を変えて登場する。
  風越のモデルは次官で退官した佐橋滋である。通産の大先輩岸信介とは対極の行政マンであり、彼を慕って多くの若者たちが通産省に集った。大蔵省を蹴って通産に就職した学生が話題になったのもこの頃である。
  小 説のモデルとして城山三郎と対談した佐橋滋は(週刊朝日1974年12月6号)は「政府は国民に対してたとえば資源問題をどうするかについて、付け焼刃で はない哲学を示す必要がある。私は人間のつくった社会というのは、人間が変えられるという哲学を持っとるんです」と語った。資源問題を原発に置き換えるな ら、これほど示唆にとんだ発言はない。福島原発後、菅直人元総理は反原発の方向を打ち出しても、国民を説得する哲学を語れなかった。経産省の役人において は方向すらだせないままである。
  当 時、通産は自由化・国際派と、アメリカ追随でない国内産業育成の民族派のふたつの大きな流れがあった。風越は後者の代表である。その下に俊英が集った。風 越の一の子分で、ずけずけ意見をいう鮎川は、風越からゆくゆくは次官おろか通産を変える男として期待されていた。モデルは川原英之である。
  風越と鮎川は、上司と部下の関係にとどまらない深い絆で結ばれていた。
  鮎 川は徹底した現場主義の官僚だった。政策遂行のためには渦中に飛び込み、指揮をとった。鮎川が鉱山保安局長時代の1965年(昭和40年)、北海道・夕張 炭鉱でガス爆発が起きた。戦後復興の原動力になった石炭産業は斜陽化の道をたどっていた。その5年前、60年安保の年、三井三池炭鉱で労組は氏名解雇に反 対の無期限ストライキに突入、筑豊は総資本対総労働の対決の場になった。写真家土門拳筑豊の町で悲惨な生活をおくる子どもたちをカメラにおさめ、『筑豊 の子どもたち』を発表したのは、その年の4月だった。
  石油への転換、外国石炭の輸入という政策の結果、コスト削減迫られた業界は、合理化・大量解雇に踏み切り、そこへ爆発事故が追い討ちをかけた。
  鮎川の鉱山保安局長就任は、事故相次ぐさなかの64年(昭和39)、東京オリンピックの年であった。
  65年2月22日夜、夕張炭鉱の事故の知らせが届く。鮎川は徹夜で救出作業を指示、翌朝、北海道へ飛んだ。おりから国会開会中のため、周囲は反対した。「局長がいったところでなにができる」。風越は鮎川の申し入れをふたつ返事で許可した。
                夕張炭鉱
  ―千歳を降りると、猛吹雪であった。夕張方面への道路は吹雪で不通同然であり、すでに夜遅いこともあるので札幌の宿へご案内するという。だが鮎川はまっすぐ車を夕張へ向けさせた。事故救援の車も報道関係の車もほとんどが札幌方面へ引き返して行った。
  「引き返していただくほかありません」
  「いや歩いて行く。どれだけかかるんだ」
  「この雪だと4時間は。やはりおやめください」
  「いやどうしても行く」
  鮎川の目には峠の向こうの生き地獄の様が見えたー
               雪の夕張
  雪だるま同然の4人は4時間後に現地に着く。救援の一番乗りであった。現地の人間は本省鉱山保安局長、鮎川の姿に目を疑った。鮎川は仮眠もとらず救助活動の先頭に立ち、結局、2週間、現地に泊まりこんだ。犠牲者の合同慰霊祭を終えて鮎川は夕張をあとにした。
  夕 張。アイヌ語鉱泉の沸くところを『ユーバロ』というが、その当て字だ。明治に炭田を発掘、最盛期には大小24の鉱山が操業、人口は12万を数えた。しか し、70年代には閉山し、その後は炭鉱の町から観光の町へ大きく転換したものの、市財政は財政負担に耐えられず、破綻した。77年に上映され、すべての賞 を独占した山田洋次監督の映画「幸せの黄色いハンカチ」は、刑期を終えた男が真っ先に訪ねた夕張の旧炭坑住宅がラストシーンになっている。「俺を待ってい てくれるなら、ハンカチを家の前に吊るしていてくれ。なければ、そのまま引き返す」という約束を守った主人公と、炭住で待ち続けた女の再会のバックに木造 バラックの家が並んでいた。炭坑住宅は解体され、一部資料館として残っている。
  私が旅の取材でテーマパーク、スキー場を訪れたのは80年代だったと思うが、豪華なホテルに目を見張った覚えがある。「炭坑の町からの脱皮」を市の幹部は強調していた。
  「事故のあと、ガス爆発の可能性があり、行方不明者を炭坑に残して注水するサイレンの音は忘れん。つらかった。こんな思いは二度としたくない」と、観光に舵を切った理由である。
  小説の鮎川も、家族の了解を得るため、組合、家族に再爆発の危険を説明し、注水の了解をとっている。鮎川は東京に戻ってからも多忙だった。無理をした身体は病魔に犯されていた。4月、こんどは長崎・伊王島でガス爆発に見舞われた。
  ―その日のうちに現地へ飛ぼうとする鮎川に風越は苦笑していった。
  「おまえ、少しは体のことを考えろ。おまえ自身を殺してしまうぞ」
  「ひとつのポストについたら、そのポストを死場所と考えろ。その場、その場が墓場なんだと、おやじさん、よくいってたじゃないですか」
  「いやそれと、これとはちがう。特におまえはちがうんだ」―
  鮎川は聞かなかった。その日のうちに長崎へ飛んだ。
  65年(昭和40年)4月13日の国会。当時の桜内通産大臣は質問に答えた。
  「爆発の経緯は9日午後6時、日鉄鉱業炭坑でガス爆発が発生し、作業中の45人中、32人が死亡、14人が負傷した。本省鉱山保安局長を急派して事態の処理にあたっているところであります」
  ここからは小説を離れ、鮎川のモデル、川原英之の実話にしたい。伊王島は長崎港から船で20分の周囲7キロの島である。江戸時代から鉱山発掘が始まり、戦後の昭和29年には7000人が炭坑業務にたずさわり、石炭景気に沸いた。
                伊王島炭鉱
  島に着いた川原が見たのは坑道入り口に並んだ遺体であった。炭坑夫といえば筋骨隆々を思い浮かべるが、遺体は瘦せ細り、炭坑の仕事の厳しさを語っていた。島外の採炭夫に交じって島ゆかりの人もいた。伊王島カソリック信者が島民の6割を占め、遺体の前で泣きながら祈りを捧げる家族がいた。島の高台にはゴシック様式の馬込教会が建ち、鐘を鳴らし、事故の犠牲者を見守っていた。
                馬込教会
  こ こでも川原は、陣頭指揮にあたるが、夕張事故から2カ月しか経過していない体は弱っていた。東京に戻った川原の体はボロボロの状態であったが、川原は仕事 に打ち込み、佐橋の要請で激務の官房長に就任するが、病状は進行し、医師は1カ月早ければ手のうちようがあったという。
  い ま、島には炭坑の施設は残っていない。これは、爆発事故など炭坑の負の遺産は島のイメージを損なうとして、町が72年(昭和47)の閉山後、一切の石炭の 痕跡を残さない選択をしたためだ。観光の島に名を変えた伊王島は700人が住み、事故のミサの場になった馬込教会は、島民と観光客が礼拝に訪れている。
  山 田洋次監督の松竹映画『家族』は伊王島のクリスチャン一家が北海道へ開拓移住する物語で、冒頭シーンの石炭船積みの桟橋から家族が島を離れる描写が印象的 だ。1970年(昭和45年)の作品である。爆発事故から5年後の島が家族の旅の始まりになっている。「幸せの黄色いハンカチ」の7年前の作品である。
           家族
                 幸せの黄色いハンカチ
  川原は事故後、責任をとり、鉱山保安局長を辞任している。社会党も辞任に反対したほど慰留されるが、区切りをつけ、佐橋人事で官房長なり、次官間違いなしと、いわれながら伊王島事故の10カ月後、49歳で生涯を終えた。
  川 原は佐賀県唐津の出身。旧唐津中学、福岡高校を経て東京帝大法学部に入学、通産の前身,商工省にはいった。佐橋の4年後輩である。川原は中学の思い出に 「九州の片田舎で中学まで送った。九州は元来、武張ったところであるが、唐津は藩主が関東出身のせいもあり、比較的自由な空気が強かった。中学時代、野営 演習の夜、畑の芋畑荒らしをしたのがばれ、足の不自由な校長が農家を一軒ずつ、謝って回られ、これには農家が恐縮してふかし芋を届けた。その芋を校長と食 べながら、悪童連中は皆シュン」と綴っている。唐津中では2・26事件で暗殺された大蔵大臣・日銀総裁高橋是清が一時期、英語教師で教鞭をとっている。校 長では作家下村湖人の名があがる。湖人は放校寸前の悪童を自宅に引き取り、卒業させるエピソードを残していた。中学は唐津城堀端にあり、唐津東高が伝統を引き継ぐ。
  川 原の死に一番、衝撃を受けたのは、いうまでもなく佐橋滋だ。賢弟愚兄の関係とまでいっている。川原の好きな歌に『刈干切唄』がある。酒の席では必ず、佐橋 が歌えと言った。腰にてあて、目を閉じて♪ここの山の刈干しじゃ すんだよ 明日はたんぼで稲刈ろかー朗々と歌った。川原の月命日に集る集いに白鴎会には 佐橋をはじめ、通産の先輩後輩のほか、大蔵省、新聞記者が参加した。幹事役、アラビヤ石油の水野惣平は興銀の小林中に「通産の吉田松陰にあってほしい」と 紹介したほど川原に惚れ込み、宮沢喜一は「10年に1回出るか出ない逸材」と評している。白鴎会の名は川原の好きな『知床旅情』にちなみ、参加者がそろっ て歌うことからついた。
  佐 橋滋は次官を最後に退官した。天下りが当たり前の当時、一切の職に就かなかった。佐橋は大蔵官僚について経済を知らない、と、批判し、金融界からも嫌われ た。退官後に書いた論文は、佐橋の真骨頂があふれている。毎日新聞の懸賞論文に応募して発表した『平和の戦略―実験国家への道』の中で自衛隊違憲、非武装 論を展開、困難であっても理想を明文化した日本国憲法に従い、平和な国づくりに驀進しよう、と書いた。自衛のための戦争は憲法上、当然、許されていると解 釈するのは戦争放棄の意味を全然理解していない証拠である、と断じた。防衛庁の幹部、軍事評論家とはげしくやりあい、親しい財界人が忠告しても「非武装は 危険というけれど、それでは武装をしていて安全かと反論すれば、安全という人はいない」と信念は揺るがなかった。
                
  日 本の石炭政策は、石炭の自由化を迫られ、統制の国内炭よりも安い外国炭輸入促進に移行する。エネルギー革命は石炭よりも石油資源の輸入に傾いていく。しか し、電力の大半は火力に頼り、電力会社は石炭に依存していた。需要はあったにもかかわらず、石炭斜陽化がマスコミの決まり文句になり、国内の炭坑は閉山に 追い込まれていく。
  佐 橋滋、川原らが通産の自由化派に対抗しながら、石炭政策を維持するのは限界があった。相次ぐ爆発事故は閉山を早めた。佐橋、川原はその転換期の舵取りをま かされ、川原は過労から倒れた。通産行政は、大蔵、国土省などに比べて、時代の波をもろにかぶる。時代とともに政策も変わるが、官僚の志、心だけは揺らい でほしくない。民主党は官よりも政を上に置いたことで失敗した。国の政策遂行に並び立つ関係を築くべきだったと思う。 もっとも官は『官僚たちの夏』から 官は様変わりしている。大蔵省のノーパンシャブシャブ官官接待天下りの横行などきりがない。世間を騒がせた『村上ファンド』事件は官への信頼を損ね た。通産OBが日銀総裁や財界の支援を得て、利益をあげ、「儲けることは悪いことですか」と、記者に問いかけた。さすがに自民党麻生太郎財務相は「儲 けることでなく儲けかたが悪い」とたしなめた。以前なら政治家に意見するのが官僚だった。アベコベである。国のため、社会のためという言葉は昔話になった のか。
  「官僚たちの夏」、「官僚たちの夏の佐橋滋」(佐高信著)の二冊を読み直し、志半ばで亡くなった官僚たちが好んだという叙情歌の歌詞を思い浮かべている。彼らに共通するのは責任感とロマンだろう。
               *