2016-12-09 第130回 日米開戦から75年の京都哲学の道


〜日本はどこへ行くのか、晩秋深まる〜

     

  名残りの紅葉になった京都「哲学の道」を歩いている。この道が通称から正式名になったのは私が京都新聞社に入社して間もない社会部時代のいわゆる「町廻り」のころであ る。サツ廻りが事件取材なら町廻りは町ダネを拾って歩いた。地元保勝会が保存運動に取り組み、道の整備と合わせた正式名を付けたころを取材した。

  琵琶湖疎水の管理道路が始まりの明治の道である。三高、京都帝国大学の開校により、熊野若王子神社銀閣寺橋2キロの道沿いは文人や学者が移り住んだ。

  哲学者西田幾多郎田辺元が好んで散策して歩き、「哲学の小逕」と呼ばれるようになった。一揆の研究で知られる黒正巌(元京大教授、初代大阪経済大学長)が ドイツ留学時代のハイデルベルクのフイロゾーフエン・ウエヒ(哲学者の道)を思い出して付けたというが、西田門下生の京都学派が歩き、議論したことも哲学 の道由来になる。

     

  今年は日米開戦から75年の12月。アメリカはトランプ旋風で揺れている。紅葉の京都岡崎から哲学の道を歩きながら、日本はあの時、どこへ行こうとしていたのか、それが頭をよぎった。

  真珠湾開戦の13日前、11月26日、京都学派の高山岩男(哲学)、高坂正顯(哲学)、鈴木成高(西洋中世史)、西谷啓治宗教哲学)の4人による重要な座 談会が中央公論社により開かれていた。テーマは「世界史的立場と日本」。西洋史の鈴木をのぞく3人は哲学専門。歴史哲学を論じ、西洋に対する大東亜圏構築 に話は進んでいく。

  西田哲学を継承した京都学派は、西洋中心の世界がほころび、真の意味での世界一体の時代が訪れ、その中心になるのが日本という歴史認識と進むべき方向を共有 していた。 日本には明治以降、西洋イコール近代の認識があり、西田哲学には反西洋、反近代の構図が内在していた。近代の超克とは鈴木成高が政治において はデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克、思想では自由主義の超克と定義した。しかし、よく考えればその先にあるのは戦争による解決し かなかった。

  開戦後、掲載された座談会は評判を呼び、太平洋戦争の思想的バックボ−ンになり、戦意鼓舞の役割を果たした。

  西田は当時、京都 大学病院に入院中で、見舞いに訪れた門下生が帰路で開戦号外を読み、病院に戻り、報告している。この座談会の半年後に文芸春秋社雑誌「文学界」メンバー河 上徹太郎、亀井勝一郎小林秀雄ら中心の「近代の超克」座談会が企画され、学者、文化人(評論家、作家、詩人、作曲家)、映画記者らが政治、文化、経済の 多分野にわたって西洋対日本を論じた。しかし、座談会は散漫になり、文春、中央公論の両方に参加した鈴木、西谷の京都学派は内容に不満を漏らしている。

  京都学派と海軍の 結びつきは西田哲学会の大橋良介前会長(元大阪大教授)が指摘しているが、それによると、陸軍の専横をいかにくいとめ、戦争を軟着陸させる道をさぐるべく 秘密会に参加していたという。その彼らが13日後の海軍の真珠湾爆撃を知らされてないにしても、迫りくる戦争の緊張は感じていただろう。

  日本をとりまく政治経済はいきづまり、腐敗した官僚への批判がうずまいていた。内外の課題を打開する道が大東亜共栄圏の構築である。開戦時の国力差はけたち がいでアメリカが上。英首相チャーチル真珠湾奇襲を聞いて「これでドイツに勝った。日本は粉砕される」と、手をたたいた。無謀な戦争突入というほかはな い。にもかかわらず、日本は総力戦にかけた。一高から京大に入学して西田哲学を学んだ三木清は開戦の興奮を抑えきれずに中央公論巻頭に総力戦への備えをよ びかけている。

  アジアがひとつになって、アメリカに対抗する大東亜構想は、近代の超克と一体の「世界史的立場」だった。京都学派のこの歴史認識は日本がアジアの上に立つ戦 争に利用され、戦後、痛烈な批判をうけ、京都学派は解体された。大東亜構想を鼓舞した三木清はあろうことか軍部ににらまれ、獄死している。評論家の加藤周 一は日本浪漫派が戦争を感情的に肯定し、京都学派は論理的に肯定する方法を編み出したと、厳しかった。

  京都学派が受けたダメージは、はかりしれないものがあった。

  評論家の竹内好は戦後14年経た1959年(昭和34)、60年安保の前年にこれまでタブー視されてきた大東亜戦争分析を発表した。忘れられていた「近代の 超克」をジャーナリズムの世界に引きずり出した。明治以降の「脱亜入欧」の矛盾が中国侵略、大東亜戦争を引き起こし、敗戦の現在も思想的課題になっている と、論文に書いた。

  東洋・日本対西洋の考察であった。中国文学者であり、魯迅の研究など中国との関係の深い竹内は戦争中から戦後、一貫して戦争を肯定してきた。竹内の提起した 東京裁判批判は、京都学派の歴史認識に近い。戦争責任をあいまいにする竹内の指摘には多くの反論、批判が寄せられるが、支持も受け、皮肉なことに戦後の右 寄りの思想潮流に組み込まれていく。

  哲学の道の紅葉は終わりを告げ、冬の準備にはいっている。名残りの紅葉が色あざやかに迎えている。記憶にある昔の道は疎水沿いの人通りのない道であったが、 いまや道筋は装いを施し、紅葉と競い合っている。哲学の道の由緒を記す掲示板が立てられ、歴史の道の趣がある。道のなかほど、法然院にのぼる石段があっ た。法然ゆかりの寺には谷崎潤一郎はじめ知名人の墓が多い。私と同年代の共同通信の石山幸基記者の墓もここにある。石山記者とは京都支局勤務の頃、私の同 僚が解雇され、撤回のビラを一緒に街頭でまくなど議論を交わした。京都から外信部に異動し、プノンペン支局に勤務のさい、クメール・ルージュ取材で消息を 絶ち、死亡が確認された。京都べ兵連を創設した哲学者橋本峰雄前管主の知己を得て、ここで眠っている。

  法然院から哲学の道にもどると、西田幾多郎の石碑がある。西田は終戦の直前、昭和20年6月、鎌倉で死亡した。西田は西洋哲学と仏教思想を融合した独創的な 哲学体系を生み出し、「善の研究」は旧制高校生の愛読書になった。「善の研究」という本の題は、奇異な感じがするが、西田は「純粋経験と実在」で出版を考 えていた。出版社の反対で誰もが入りやすい構えにしたが、中味は奥深い難解な哲学に変わりはなかった。

  石碑には「人は人、吾はわれ也、とにかく吾が道を吾は行くなり」と刻まれている。

     

  解体された京都学派は歴史、哲学を離れた人文研究所の貝塚茂樹桑原武夫今西錦司、梅棹忠雄らにより再編成され、第二次京都学派と呼ばれるようになった。マスコミは湯川秀樹に代表される理学部系も含めて京都学派の冠をかぶせるが、明確な基準はなく、幅広くなっている。

    哲学の道に猫が 増えた。閉鎖の喫茶店が住まいらしいが、人になれ、観光客の相手もしている。3年前、死んだ我が家の猫小太郎は、丹波哲郎ばりの容貌で空(くう)をにら み、その反面、本棚のうえで寝ていて、転げおちるテンネンぶりを発揮した。哲学の道のニャンコに小太郎が重なり、なつかしい。

  開戦から75年の晩秋は、京都学派の世界史認識や竹内の歴史感に訂正をせまる変化が押し寄せている。もはや日本はアジア唯一の盟主ではない。中国の存在はこ れからさらに大きさを増すだろう。アジアと米・西洋、イスラム圏のかかえる矛盾は、近代の超克を拡大している。日本の矛盾も深まり、政権与党の自民党はア メリカ押しつけでない日本独自の憲法をもつべきとして改正草案をつくり、安倍首相のもとでの手続きを進めている。その一方で当選したトランプ次期大統領を どの国の首脳よりも早く自宅に訪ね、日米の絆の強さを世界にアピールした。脱アメリカと親アメリカが交錯する政治状況は現代の超克といってもいいだろう。 この道はどこへ行くのか。

  京都学派の鈴木成高は超克すべき近代は19世紀かルネサンスかと問題提起した。19世紀はフランス革命後の列強のアジア進出、リンカーン奴隷解放、ノーベ ルのダイナマイト発明など政治、文化とも波乱に満ちた時代。ルネサンスは14世紀から16世紀にかけての文芸復興運動と日本訳されているが、文化の香りの ある明るい時代ではなかった。ペスト流行し、政争、戦乱に明け暮れ、マキヤベリは君主論を書いた。

  鈴木の提案はその後、検討されることもなく今日までいたっている。提案の正否はわからないが、いかなる時代も歴史を離れて存在しない。大乗仏教の祖ナガー ル・ジュナ(龍樹)は去るものは去らず、去りつつあるものも去らずという、考えれば考えるほど頭がいたくなる空(くう)の論理を説いた。目をまわしなが ら、時間は線でなく円、歴史は回っているという我流の「空」にたどりついた。

  とすれば、どこかの時代が近付いていることになるが、京都近代の産物哲学の道に聞いても「その道はわが道」と、真っ赤な紅葉を散らしていた。

     

          *          *

第130回 日米開戦から75年の京都哲学の道

〜日本はどこへ行くのか、晩秋深まる〜

  名残りの紅葉になった京都「哲学の道」を歩いている。この道が通称から正式名になったのは私が京都新聞社に入社して間もない社会部時代のいわゆる「町廻り」のころであ る。サツ廻りが事件取材なら町廻りは町ダネを拾って歩いた。地元保勝会が保存運動に取り組み、道の整備と合わせた正式名を付けたころを取材した。
  琵琶湖疎水の管理道路が始まりの明治の道である。三高、京都帝国大学の開校により、熊野若王子神社銀閣寺橋2キロの道沿いは文人や学者が移り住んだ。
  哲学者西田幾多郎田辺元が好んで散策して歩き、「哲学の小逕」と呼ばれるようになった。一揆の研究で知られる黒正巌(元京大教授、初代大阪経済大学長)が ドイツ留学時代のハイデルベルクのフイロゾーフエン・ウエヒ(哲学者の道)を思い出して付けたというが、西田門下生の京都学派が歩き、議論したことも哲学 の道由来になる。
  今年は日米開戦から75年の12月。アメリカはトランプ旋風で揺れている。紅葉の京都岡崎から哲学の道を歩きながら、日本はあの時、どこへ行こうとしていたのか、それが頭をよぎった。
  真珠湾開戦の13日前、11月26日、京都学派の高山岩男(哲学)、高坂正顯(哲学)、鈴木成高(西洋中世史)、西谷啓治宗教哲学)の4人による重要な座 談会が中央公論社により開かれていた。テーマは「世界史的立場と日本」。西洋史の鈴木をのぞく3人は哲学専門。歴史哲学を論じ、西洋に対する大東亜圏構築 に話は進んでいく。
  西田哲学を継承した京都学派は、西洋中心の世界がほころび、真の意味での世界一体の時代が訪れ、その中心になるのが日本という歴史認識と進むべき方向を共有 していた。 日本には明治以降、西洋イコール近代の認識があり、西田哲学には反西洋、反近代の構図が内在していた。近代の超克とは鈴木成高が政治において はデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克、思想では自由主義の超克と定義した。しかし、よく考えればその先にあるのは戦争による解決し かなかった。
  開戦後、掲載された座談会は評判を呼び、太平洋戦争の思想的バックボ−ンになり、戦意鼓舞の役割を果たした。
  西田は当時、京都 大学病院に入院中で、見舞いに訪れた門下生が帰路で開戦号外を読み、病院に戻り、報告している。この座談会の半年後に文芸春秋社雑誌「文学界」メンバー河 上徹太郎、亀井勝一郎小林秀雄ら中心の「近代の超克」座談会が企画され、学者、文化人(評論家、作家、詩人、作曲家)、映画記者らが政治、文化、経済の 多分野にわたって西洋対日本を論じた。しかし、座談会は散漫になり、文春、中央公論の両方に参加した鈴木、西谷の京都学派は内容に不満を漏らしている。
  京都学派と海軍の 結びつきは西田哲学会の大橋良介前会長(元大阪大教授)が指摘しているが、それによると、陸軍の専横をいかにくいとめ、戦争を軟着陸させる道をさぐるべく 秘密会に参加していたという。その彼らが13日後の海軍の真珠湾爆撃を知らされてないにしても、迫りくる戦争の緊張は感じていただろう。
  日本をとりまく政治経済はいきづまり、腐敗した官僚への批判がうずまいていた。内外の課題を打開する道が大東亜共栄圏の構築である。開戦時の国力差はけたち がいでアメリカが上。英首相チャーチル真珠湾奇襲を聞いて「これでドイツに勝った。日本は粉砕される」と、手をたたいた。無謀な戦争突入というほかはな い。にもかかわらず、日本は総力戦にかけた。一高から京大に入学して西田哲学を学んだ三木清は開戦の興奮を抑えきれずに中央公論巻頭に総力戦への備えをよ びかけている。
  アジアがひとつになって、アメリカに対抗する大東亜構想は、近代の超克と一体の「世界史的立場」だった。京都学派のこの歴史認識は日本がアジアの上に立つ戦 争に利用され、戦後、痛烈な批判をうけ、京都学派は解体された。大東亜構想を鼓舞した三木清はあろうことか軍部ににらまれ、獄死している。評論家の加藤周 一は日本浪漫派が戦争を感情的に肯定し、京都学派は論理的に肯定する方法を編み出したと、厳しかった。
  京都学派が受けたダメージは、はかりしれないものがあった。
  評論家の竹内好は戦後14年経た1959年(昭和34)、60年安保の前年にこれまでタブー視されてきた大東亜戦争分析を発表した。忘れられていた「近代の 超克」をジャーナリズムの世界に引きずり出した。明治以降の「脱亜入欧」の矛盾が中国侵略、大東亜戦争を引き起こし、敗戦の現在も思想的課題になっている と、論文に書いた。
  東洋・日本対西洋の考察であった。中国文学者であり、魯迅の研究など中国との関係の深い竹内は戦争中から戦後、一貫して戦争を肯定してきた。竹内の提起した 東京裁判批判は、京都学派の歴史認識に近い。戦争責任をあいまいにする竹内の指摘には多くの反論、批判が寄せられるが、支持も受け、皮肉なことに戦後の右 寄りの思想潮流に組み込まれていく。
  哲学の道の紅葉は終わりを告げ、冬の準備にはいっている。名残りの紅葉が色あざやかに迎えている。記憶にある昔の道は疎水沿いの人通りのない道であったが、 いまや道筋は装いを施し、紅葉と競い合っている。哲学の道の由緒を記す掲示板が立てられ、歴史の道の趣がある。道のなかほど、法然院にのぼる石段があっ た。法然ゆかりの寺には谷崎潤一郎はじめ知名人の墓が多い。私と同年代の共同通信の石山幸基記者の墓もここにある。石山記者とは京都支局勤務の頃、私の同 僚が解雇され、撤回のビラを一緒に街頭でまくなど議論を交わした。京都から外信部に異動し、プノンペン支局に勤務のさい、クメール・ルージュ取材で消息を 絶ち、死亡が確認された。京都べ兵連を創設した哲学者橋本峰雄前管主の知己を得て、ここで眠っている。
  法然院から哲学の道にもどると、西田幾多郎の石碑がある。西田は終戦の直前、昭和20年6月、鎌倉で死亡した。西田は西洋哲学と仏教思想を融合した独創的な 哲学体系を生み出し、「善の研究」は旧制高校生の愛読書になった。「善の研究」という本の題は、奇異な感じがするが、西田は「純粋経験と実在」で出版を考 えていた。出版社の反対で誰もが入りやすい構えにしたが、中味は奥深い難解な哲学に変わりはなかった。
  石碑には「人は人、吾はわれ也、とにかく吾が道を吾は行くなり」と刻まれている。
  解体された京都学派は歴史、哲学を離れた人文研究所の貝塚茂樹桑原武夫今西錦司、梅棹忠雄らにより再編成され、第二次京都学派と呼ばれるようになった。マスコミは湯川秀樹に代表される理学部系も含めて京都学派の冠をかぶせるが、明確な基準はなく、幅広くなっている。
    哲学の道に猫が 増えた。閉鎖の喫茶店が住まいらしいが、人になれ、観光客の相手もしている。3年前、死んだ我が家の猫小太郎は、丹波哲郎ばりの容貌で空(くう)をにら み、その反面、本棚のうえで寝ていて、転げおちるテンネンぶりを発揮した。哲学の道のニャンコに小太郎が重なり、なつかしい。
  開戦から75年の晩秋は、京都学派の世界史認識や竹内の歴史感に訂正をせまる変化が押し寄せている。もはや日本はアジア唯一の盟主ではない。中国の存在はこ れからさらに大きさを増すだろう。アジアと米・西洋、イスラム圏のかかえる矛盾は、近代の超克を拡大している。日本の矛盾も深まり、政権与党の自民党はア メリカ押しつけでない日本独自の憲法をもつべきとして改正草案をつくり、安倍首相のもとでの手続きを進めている。その一方で当選したトランプ次期大統領を どの国の首脳よりも早く自宅に訪ね、日米の絆の強さを世界にアピールした。脱アメリカと親アメリカが交錯する政治状況は現代の超克といってもいいだろう。 この道はどこへ行くのか。
  京都学派の鈴木成高は超克すべき近代は19世紀かルネサンスかと問題提起した。19世紀はフランス革命後の列強のアジア進出、リンカーン奴隷解放、ノーベ ルのダイナマイト発明など政治、文化とも波乱に満ちた時代。ルネサンスは14世紀から16世紀にかけての文芸復興運動と日本訳されているが、文化の香りの ある明るい時代ではなかった。ペスト流行し、政争、戦乱に明け暮れ、マキヤベリは君主論を書いた。
  鈴木の提案はその後、検討されることもなく今日までいたっている。提案の正否はわからないが、いかなる時代も歴史を離れて存在しない。大乗仏教の祖ナガー ル・ジュナ(龍樹)は去るものは去らず、去りつつあるものも去らずという、考えれば考えるほど頭がいたくなる空(くう)の論理を説いた。目をまわしなが ら、時間は線でなく円、歴史は回っているという我流の「空」にたどりついた。
  とすれば、どこかの時代が近付いていることになるが、京都近代の産物哲学の道に聞いても「その道はわが道」と、真っ赤な紅葉を散らしていた。

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第129回 秋の近江京と大和を結ぶ天平の恋

  白鳳時代弥勒菩薩を訪ねて〜
 私の住む大津市は 細長い。うなぎの寝床にたとえられ、古代から現代まで時代ごとに町がつくられ、琵琶湖に沿ってひらがねの「し」の字の大津ができた。琵琶湖の水運が栄えた 明治までは船が北は堅田から瀬田川沿いの石山寺周辺を結んでいた。現在は京阪電車石坂線石山寺と坂本をまこと、のどかに走っている。御多分に漏れず、 赤字路線のため、存廃の論議大津市京阪電車の間で細長と続いている。
 大津が日本史の中心に躍り出たのは、1350年前の天智6年3月、蘇我入鹿を暗殺して権力を握った中大兄皇子が大和から近江への遷都を断行したことに始まる。
 唐・ 新羅の戦いに敗れた国内の不満をそらす起死回生のかけだったと、いわれている。当時の大和朝廷は内に政争、外には唐もからんだ朝鮮半島高句麗百済、新 羅の覇権争いが日本にもおよび、内憂外患の様相をていしていた。百済がほろび、大量の百済人が日本に逃げてきた。その受け皿になったのが近江である。天智 7年正月、中大兄皇子は即位して天智天皇が近江の地で誕生した。当の律令制度をモデルにした近江令の制定、我が国最初の戸籍にあたる庚午年籍に取り組み、 近江に移住の半島からの帰化人の技術を取り入れた都づくりを進めた。
 近江・蒲生野周辺には百済王族の余自信、鬼室集斯ら高官700人が移住していた。百済最高官位の「佐平」から土木技術者らは天智政権の中枢を担っていた。しかし、天智天皇は思い半ばで病に臥し、後継をめぐる息子大友皇子と、天智弟大海人皇子天武天皇)の争いは壬申の乱となって、大津の宮を廃都にした。わずか5年の都だった。
 大津宮はどこにあったのか、いまだに全貌は明らかでない。その所在をとく鍵になった寺跡が比叡山麓にある。『扶桑略期』(平安期の史書)はこう記している。
 ―天皇大津宮に寝ぬ。夜半、夢に法師を見る。来たりていはく、乾の山にひとつの霊窟あり(以下略)。出でてかなたの山をのぞめば、火光細くのぼること十余丈可りなりー
 崇福寺建立の縁起は、乾と反対の南東に大津宮があったことを教えていた。1974年(昭和49年)、その方角の近江神宮南の住宅地から大津宮建物跡が発掘され、江戸時代から続く大津宮論争はひとまず決着した。それまでは崇福寺のあった山裾の滋賀里が有力だった。
  京阪電車滋賀里駅から比叡山に向かって坂道になっている。通称志賀越えの道。両側の民家は穴太積み石垣で囲まれ、古道の面影を残している。穴太積みの職 人は滋賀里隣の穴太駅周辺に集まっていた。振り返れば琵琶湖が一望できる。天智天皇は当時の最新技術で尾根をけずり、平にして..崇福寺を建立した。飛鳥を離れた地に官寺。平安京はむろん、延暦寺の姿、形すらなかった。崇福寺は志賀寺とも呼ばれ、奈良時代には朝野の崇敬は篤く、奈良の大安寺、薬師寺興福寺法隆寺東大寺などと並ぶ10大寺に数えられた。
  崇福寺は平安期に、再三にわたり堂宇を焼失、寺運衰退して白鳳期の名刹の歴史を閉じた。発掘調査で堂宇跡が見つかり、『今昔物語』『元亭釈書』の弥勒堂、 講堂、三重塔、十三間僧坊、炊屋、湯屋など並ぶ伽藍が確認された。3つの丘陵の尾根に堂宇が分散して並んでいた。本尊は弥勒菩薩である。この仏像がどんな 姿であったかは定かでなく今昔物語にある「丈六」、つまり等身大の仏像が唯一の手掛かりになる。
          
  弥勒菩薩とは、釈迦入滅後の56億年未来に現れ、人を乱世から救済する未来仏。仏教が伝来して間もない白鳳期は弥勒信仰が広まった。奈良時代から平安期に は、女性の心をとらえ、崇福寺弥勒菩薩人気ぶりは紀貫之古今和歌集で「しがの山越えに女のおほくあへりけるによみてつかわしける」と紹介している。
 奈良時代には持統天皇治世下で崇福寺が悲恋の舞台になった。持統天皇天武天皇の后で、父は天智天皇。天武には高市、穂積の皇子、但馬皇女の異母兄弟、妹が いた。古代は異母兄弟姉妹の婚姻は一般的であったから、高市と但馬は同じ館に住み、夫婦の関係にあった。そこへ穂積皇子が登場して但馬は心奪われた。但馬 は藤原鎌足の娘と天武の間にできた皇女。万葉集は二人の恋の歌を納めている。
 天平の男は多妻であったが、女もまた恋に積極的で負けていなかった。持統は額田王をめぐり兄弟で争う父天智と、夫大海人(天武)の姿が頭にあり、穂積を崇福寺へ勅命で送り、引き離した。但馬は近江へ行く穂積に後を追うから、道に標をつけてほしいと、歌に託した。
     後れ居て 恋ひつつあれば 追ひしかむ 道の隅みに標結へわが背
     この歌の前にも但馬は激しい歌を詠んでいる。
     人言を繁み言痛み おのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる
 人のうわさなど気にするものか、なんとしてもこの恋はかなえてみせるという決意を歌にした。川は恋の障害を意味するが、高市は若死して二人の障害はなくなるも恋は実らなかった。
 10数年後、但馬は死に、穂積は雪降る日、亡き人の墓をのぞみ挽歌を贈るが、但馬に一途な恋に応えられなかった男の悔恨がこもっている。
 崇福寺弥勒堂跡に立ち、但馬の思いを受けられなかった穂積をとりまく複雑な人間間関係に思いめぐらし、それにしてもここぞという時の女は強いと思う。とこ ろで三島由紀夫崇福寺を舞台にした短編「志賀寺上人の恋」において人生で初めて美貌女性に恋した高齢の上人が都の女性宅を訪ね、手を握られた翌日、静か に息をひきとる話を書いている。男は惚れたら命がけという三島美学であるが、残念ながら万葉歌の女の迫力にはかなわない。
 弥勒菩薩と但馬の恋歌が重なり、崇福寺は平安期に女人参詣でにぎわう。今昔物語は「丈六の仏像」としているが、形はわからない。ここからは弥勒菩薩のロマンである。
 弥 勒菩薩で現存する同時期のものとしては京都太秦広隆寺、奈良當麻寺、石光寺の仏像が思い浮かぶ。広隆寺秦氏の氏寺として平安遷都以前からあり、聖徳太 子ゆかりの寺である。国宝弥勒菩薩の優雅な姿は朝鮮半島渡来か、日本制作かで論議を呼んだ。崇福寺も渡来人の協力で建立の経過から、広隆寺弥勒菩薩の姿を 考えるが、天智天皇ゆかりの奈良・當麻寺のほうが建立経過からして、崇福寺像に近い気がする。
        
 當麻寺近鉄南大阪線當麻駅か ら歩いて15分の二上山裾にある。眼下に飛鳥宮跡が広がり、崇福寺と同じ構図の地形だ。この寺の弥勒仏は丈六の座像で、優雅さこそないが量感あふれた本尊 にふさわしい堂々たる姿である。像は塑像(粘土)のため、漆を塗り、その上に金箔を張り付けている。7世紀末の制作の考証から我が国最古の塑像といわれている。
        
 この寺から歩いて10分の山麓に石光寺がある。天智天皇勅願寺。近江京へ移る前、天智天皇飛鳥宮で暮らしていた。ある日、山に光るものを見つけ、三石を掘 り起こした縁起は大津宮から山中に光りを見た崇福寺縁起とぴったり重なる。石仏は平成3年発掘され、新聞に大きく取り上げられた。
 比叡山の紅葉がゆっくり近江の山裾までおりてきている。崇福寺跡の礎石に腰を下ろして、當麻寺、石光寺、広隆寺の仏像を幻の堂宇の中に置いて見た。像が脳裏に浮かびあがる。あっ、幻の弥勒菩薩。叫ぶ間もなく消えた。
 まだ仏像がない時代、インドの僧は何日も山にこもり、仏にあうことを祈願したというが、まさかである。秋の午後のいたずらだろう。
         
     ☆メモ
 桓武天皇天智天皇をしのび、崇福寺に隣接地に梵釈寺を建立している。崇福寺のほうが寺格は上だったが、両官寺は平安期の寺運は隆盛し、宗派に関係なく諸宗 兼学の研修道場として僧を受け入れた。山越えの道上に崇福寺跡の碑がたつが、正確には盆釈寺跡で、崇福寺は谷越えの尾根になる。近江神宮には崇福寺跡から 発掘の舎利容器を展示。

第128回 そうだ四国高峰・剣山へ行こう

  〜帰路は祖谷の平家の里〜

  この頃、早く床に つくせいか、午前3時から4時までの間に目がさめる。困った癖がついた。眠気がくるまでラジオのNHK深夜便をイヤーホーンで聞きながら、夜を明けるのを 待つのは楽しい。6時頃には再び夢の中。朝の夢は鮮明で気にいっている。7時にはニャンコがトイレ清掃と餌の催促にくるため、寝ていられない。
  NHK ラジオが「今朝は四国・剣山山小屋からです」と、紹介していた。西日本最高峰は愛媛の石鎚山1982㍍。次いで剣山1955㍍。中国山地の大山のほうが高 い印象を持つが、山の形、冬山の姿に惑わせられている。大山は軽装備で臨むには険しく、秋口は気候変化で例の新聞、TVのいやなおせっかいの目にさらされ かねない。私には山よりもこちらのほうが怖い。
          <写真 1>
  山小屋主人の案内する四国2千㍍級の山頂風景は魅力的だ。ここ2年ほどゴルフをやめ、近くの山をかたっぱしからのぼっている。ゴルフの数あわせが面倒にな り、数でいやな気分を味わった。だから自由な山。いずれも800メートル前後の山で鹿やウサギ、リスにでくわす。眺望はそれなりに満足するが、2千㍍の山からの 眺望にはかなわない。
  剣山はリフトが山頂真下までついていて、装備は水と保存食、コートがあればいい。手軽さでは2メートル級の山では屈指の登りやすい山だ。それでは登山の面白みが ない、自然との対話がないという堅いことをいう人もいるが、昨今、人それぞれ、山それぞれの軽薄思想が心に入り込み、楽して登る山行の味を覚えてしまっ た。
  そうだ、剣山へ行こう。思いついたら吉日である。ニャンコのベテイが「エエカゲンニシヨシ」とまとわりつくが、爆睡中の老妻に置手紙をして家出の気分を味わ う。いつもは鉄道にするが、大津から剣山まで5時間半、ここは車だ。神戸―淡路―鳴門は快調である。徳島で通勤時間帯にはまったが、渋滞もなく、おにぎり の朝食をすませ、吉野川と貞光川の合流する国道438号を南下し、剣山麓へ急ぐ。昼前には山頂にいるだろう。
  貞光は現在つるぎ町と名を変えた。ひらがなの町名は珍しい。というのも剣山は「けんざん」と「つるぎさん」の呼称があり、地元ではケンザンを使った。それを論議のすえつるぎを統一呼称にした経緯があったから漢字町名はややこしくなるという配慮がはたらいたのだろう。
  剣山麓の見の越駐車場についた。家出してから4時間もかかっていない。見上げる剣山はガスの中にある。駐車場標高1300㍍。リフト15分で西島駅である。 すでに標高1832㍍。剣山は修験道の山として知られるが、始まりは室町期といわれ、比較的新しい。壇ノ浦で海へ投身した幼年の安徳帝が平教経とともに四 国に渡り、祖谷を拠点に平家再興を目指した伝説が剣山の名の起こりという。教経は祖谷では平国盛と名乗り、平家一党を従えた武人の鑑になっている。壇ノ浦 以前には剣山の伝説、修験道の歴史につながる文献はなく、伝説の安徳帝生存が剣山呼称と結びついた。
  山頂への道は西島駅を降りて大剣神社の鳥居をくぐり、ほぼ直線に近い最短コースを選んだ。大剣道の名がつく道は迂回せず、一気に山頂へ向かうが、このコース は平家伝説が道の木、岩にあり、平家一党をしのびながら歩くには最適だ。剣山登山の定番コースといってもいい。山小屋雲海荘が見えてきた。ギザギザの尖っ た岩の塊が大剣神社である。平教経(国盛)は平家の名高い武将として平家物語にも登場している。平家が安徳帝伝説を託すのは教経しかいなかった。史書では 源氏の兵を小脇にっかえて海へ飛び込み、消息を絶ったという。このあたりから道は急こう配になり、息切れしてきた。あわてずに行こうと思うが、山頂近くだけに気があせる。
  測候所の前に出た。富士山頂に次ぐ2番目に高い測候所が会った。昭和18年の戦争最中に設置され、50年間、職員が交代で勤務、高山の気象情報を送信した。 1991年に無人化され、2001年に廃止された。剣山の月別平均気温は8月15・3度、9月12・3度、10月は6・3度まで下がる。11月から3月ま ではマイナスの日が続き、1月はマイナス7・3度になる。最低気温は1981年2月のマイナス23・5度。山はすっぽり雪に覆われ、無人の山になる。
  正月には初日の出めあての登山客が各地から集まり、新年を祝うが冬山の厳しさに驚き,早々に下山するそうだ。風の強さは半端ではない。今朝の気温は10度 余。肌寒さを感じるが、山頂の木道をあるくには申し分ない。朝、出ていたガスも消え、木道の南西方向に兄弟山の次郎笈のなだらかな稜線が伸びている。山頂 は平家の馬場と呼ばれる平坦な草原になっていて、リフト設置をきっかけにミヤマクマザサを保護の目的で木道になり、山頂は木道以外歩けない。
  日帰り登山の思い付き、下調べもせずに来たものの、稜線沿いの縦走路が呼んでいる。歩きかけては迷い、ついに「そんな軽装でよく剣山にきましたね」という新聞記者の失礼な質問が目に浮かび、断念した。下山は1時間で駐車場まで降りてきた。
  帰りは祖谷渓谷を訪ねることにした。車の旅の便利さだ。剣山山頂には水が湧き出て、これが祖谷川の源流になっている。石灰岩が風化した浸水性の岩石が雨水や 雪をためた御神水である。車で15分も走ると、奥祖谷に着く。下流の祖谷のかずら橋は観光客も多く、順番待ちになるが、奥祖谷の2重橋は秘境の趣が漂う。考えみれば、家でベテイと話してから人間とは一言も交わしていなかった。本日は会話ゼロの日にした。
  避けるように歩いていると、気配がわかるのか誰も話かけなかった。橋は最初が男橋、あとが女橋になっていて、女橋が短い。かずら橋は追っ手から逃れるため、イザというときには切り落としたというが、いまの橋は安全性を考えワイヤーを巻いている。
          <写真 2>
  男橋の長さ41㍍、川までの高低10㍍の橋は大きく揺れる。足元がぐらぐらする恐怖は地震で経験済みとはいえ、気持ちのいいものではない。前を見て渡ると、なんでもない。
  平国盛の家は奥かずら橋下流の山の中にある。隠れ家にふさわしく、祖谷街道からはずれている。火事に遭い、茅葺屋根にトタンをかぶせてあるが、造りはいかにも平家伝説の主の住まいにふさわしい風格が漂う。現当主は24代「阿佐」を名乗り、この家に家族と住んでいる。
  国盛は清盛の甥といわれ、平家一党の名門である。全国に平家の里は点在しており、柳田国男、角田文衛ら史学者らが研究してきた。平家落人は確かに存在したこ とは鎌倉時代の三日平氏(みっかへいし)の乱が吾妻鑑などの文献で証明されている。この乱は平家の本家伊勢、伊賀の平家残党の若菜五郎が蜂起し、鎌倉幕府 に謀反を企てるも、わずか3日で鎮圧された。
  祖谷の平家には赤旗2流が残り、研究者から注目の一党である。四国の山奥のため、交流は限られ、考証は伝説の域にとどまっている。若菜五郎の謀反が伊勢だけでなく、京をはじめ、全国の隠れ平家に呼びかけた蜂起であったならば、鎌倉幕府は肝を冷やしたことだろう。平家に束ねる策士がいなかった。
  普段はひっそりと暮らし、時には剣山に上り、一の谷、屋島、壇ノ浦の源平合戦の舞台を追悼したことは、他の平家落人にない具体性がある。阿佐家は三好氏、蜂須賀氏の配下になって戦国をくぐりぬけ、平家再興の日を祈願するが、祖谷の豪族のまま明治を迎えた。
  赤旗、宝刀、系図のある平家落人は珍しい。大剣神社の託宣をかかげて打って出る日を考えただろうが、かなわぬ夢、幻でしかなかった。
  祖谷の平家には赤旗2流が残り、研究者から注目の一党である。四国の山奥のため、交流は限られ、考証は伝説の域にとどまっている。若菜五郎の謀反が伊勢だけでなく、京をはじめ、全国の隠れ平家に呼びかけた蜂起であったならば、鎌倉幕府は肝を冷やしたことだろう。平家に束ねる策士がいなかった。
  普段はひっそりと暮らし、時には剣山に上り、一の谷、屋島、壇ノ浦の源平合戦の舞台を追悼したことは、他の平家落人にない具体性がある。阿佐家は三好氏、蜂須賀氏の配下になって戦国をくぐりぬけ、平家再興の日を祈願するが、祖谷の豪族のまま明治を迎えた。
  赤旗、宝刀、系図のある平家落人は珍しい。大剣神社の託宣をかかげて打って出る日を考えただろうが、かなわぬ夢、幻でしかなかった。
          <写真 3>

          <写真 4>

               *

第127回 江戸町歩きが面白い

大岡越前、遠山金さんの舞台をゆく〜

   TVで東京の町歩きをとりあげている。歴史とホットな動きをかみ合わせた東京紹介は面白い。大阪の民放も同じような番組をしているが、ふところの深さと町の変 化が比較にならない。大阪都構想よりも大阪駅前から阿倍野界隈、中の島にいたるまで大阪の個性をもっと磨くべきだろう。大阪駅前をそのままにして都づくり などおこがましい。町の歴史を忘れ、お好み焼きとタコ焼きが大阪名物などというとんでもないタコ壺にはまっている。
  大阪はさておき、東京は築地移転をめぐり揺れている。オリンピック前の揺れであるが、どんな決着をはかるのか、都民でなくても興味深い。私が東京くらしを始 めたのは東京オリンピック3年前である。音立てて崩れるのではなく、音立てて町は変わっていった。池袋西口闇市バラックが壊されているのを通学途中で見 物した記憶がある。50年経ったいま、東京駅から湾岸線は激変している。八重洲口には外資系ホテルが並び、丸の内に比べてごちゃごちゃしていたかつのイ メージはない。ただ相変わりませずのおのぼりさんがたむろし、地下食堂街は混雑していた。
  東京駅でおりるとまず、天丼を食べるのが私の常である。東京の天丼の具はエビにしてもアナゴにしても、鉢からはみだし、エビの尻尾ははねるごとく勢いがあった。関西の天丼のエビは尻尾チョロチョロ、中は空洞が多く、がっかりすることがしばしばだった。

  八重洲地下の食堂スタンドでさっそく、天丼を注文した。エビの尾は上を向き、ころもの中は身が詰まっていた。天丼のエビの大きさは静岡あたりまでは東京風で 名古屋以西は小さくなる傾向がある。腹ごしらえを終え、東京散歩に出発した。駅を背にして八重洲通を進むと、中央通にでる。江戸初期、家康の外交助言者の オランダ人、ヤン・ヨーステンの屋敷があったところだ。ヨーステンは船が漂着して家康に見込まれ、江戸内堀内で日本人妻と暮らした。日本人名は耶楊子(や んようす)。八重州はやんようすがなまって出来た地名という。通りをそのまま行くと、八丁堀だ。南北奉行所に集結する与力50騎、同心200人の住まいが あった。与力の員数を騎で数えるのは、与力は馬が与えられ、江戸町を乗り回すことができたからだ。
  与力、同心を指揮したのが北町、南町奉行である。ことしは南町奉行で名をはせた大岡越前守(忠相)が奉行に就任して400年にあたる。1700石の旗本の4 男に生まれ、綱吉時代に書院番になり、目付から伊勢の山田奉行として赴任。ここで紀州家領の松坂と幕領伊勢の境界争いを前例に頼らず、公平に処理したこと が藩主吉宗の目にとまった。
  吉宗8代将軍に就任した翌年、享保2年、江戸南町奉行に抜擢された。当時の南町奉行所数寄屋橋門内にあった。現在の有楽町マリオンのそば、交番近くであ る。TVの大岡越前活躍の舞台。実際は大岡政談の大半はフィクションであって、奉行が捜査にあたることはなかった。裁きも記録にあるのは「白子屋お熊事件」のみでだ。
  この事件は日本橋の大店の娘お熊が手代と不倫のあげく、入り婿を店のものとかたってケガ負わせた殺人未遂事件。奉行みずから吟味し、お熊ら女3人を死罪、手 代は獄門、お熊の両親は遠島という厳しい判決である。当時の不倫事件のケースから見て、温情どころか断罪した内容。名裁きにほど遠い。
  大岡政談の中で有名なのが、忠相が吟味した不貞の男女事件。男は女に誘われ、つい過ちを犯したと釈明した。納得のいかない忠相は母親に、女性はいくつまであちらのほうの欲求があるのですか、と問うた。母は火鉢の灰を火箸でかきまぜ、それは灰になるまでと答えたという。この話、新井白石と母との会話でも残っており、実話かどうか疑わしい。大岡忠相は吉宗の享保の改革を推進、江戸町の改革に努めたことが庶民の人気を得た。南町から寺社奉行、最終的には西大平藩 (現岡崎市)1万石の大名まで出世したように、能吏であったことはまちがいない。江戸時代、旗本の息子が大名までなった例はなく、吉宗のひきだけではな く、実力を伴っていた。
  人気者奉行はもうひとりいる。遠山金さんこと遠山景元。こちらは北町奉行だ。八重洲北口の国際観光会館の前にあった碑はビルの中に移転、探すのが手間だ。金 さんは寛政5年(1793)、旗本の家に生まれ、遠山家の養子になった。遠山家に実子が生まれたため、立場が悪くなり、養父母との関係は一転した。江戸町 で放蕩生活を送り、この時代の経験が江戸っ子金さんの人間形成に大きな影響を与えた。金さんの運命を変えたのが旗本名家の堀田一定の妹と結婚。4200石 堀田家と500石遠山家ではつり合いがとれないが、放蕩していても素養があったのだろう。見込まれて大身の家族になり、小普請奉行ー作事奉行ー勘定奉行の 出世コースに乗り、32歳で出仕から15年で北町奉行の座を射止めた。大岡越前から100年後である。

  頃は水野忠邦天保の改革のさなか。水野忠邦は町民の奢侈を禁止、違反者を取り締まった。金さんこと景元は南町奉行の矢部定兼とともにこの政策に異を唱え た。武士は遊興三昧、町民のみに贅沢禁止は公平でない。分相応の暮らしであれば、お上が口をはさむ理由はないという意見書を提出するも、将軍が却下して日 の目をみなかった。
  水野忠邦の配下にいたのが目付鳥居耀蔵儒家の名門林家に生まれ、鳥居家の養子となり、蘭学を批判し、渡辺崋山らを弾圧した。南町奉行の矢部定兼の過去を掘り返して失脚させ、あとの奉行に座った。町にスパイを放ち、おとり捜査で取り締まった。妖怪の別称で庶民から八丁堀まで支配し、北町の金さんと対立した。
  鳥居は女浄瑠璃寄席の全面撤去を命じ、水野忠邦に芝居小屋の廃止を進言した。金さんは抵抗し、移転でことを収めた。この処理で金さん人気は高まり、おさまら ない耀蔵は策略を用いて金さんを栄転のかたちで閑職の大目付にまつりあげ、江戸町を支配した。ところが水野忠邦が改革失敗で罷免されるや、反対派に寝返 り、その地位を守った。江戸町が肩を落とした頃、水野が外交手腕を買われて復活し、さしもの妖怪も水野の復讐で四国にお預けの身になり、明治まで江戸の土 を踏むことはなかった。
  金さんは異例の南町奉行にカムバックする。北と南の奉行職を務めたのは金さんただ一人である。金さんの入れ墨桜吹雪はドラマの定番見せ場ながら、誇張された きらいがあり、放蕩時代に腕に入れた説など伝聞の域をでない。大岡越前が能吏であるのに対して、老中や妖怪を向こうに回して抵抗した金さんは筋金入りの現場派だ。庶民が囃したてたのもうなずける。奉行としての仕事では文句なく金さんに軍配をあげる。
  旗本の長男は柔弱か問題児が多いが、他家へ養子にでるか、兄の死で家督を継いだ旗本次男、三男は名を残している。冷や飯を食べたというだけでなく、若い頃、 世の中を見て、人間関係を養ったことが財産になっている。南北奉行の対立から罷免、復活と目まぐるしく変わった江戸町で、悩んだのが八丁堀の面々でだっ た。北と南で取り締まり方針が違うのだから無理もない。おまけにトップの首が飛び、飛んだはずの首が戻ってきた。与力、同心、岡っ引きにいたるまで誰を頼 りにしていいかわからなかった。

  八丁堀は京橋川下流から隅田川に流れ込む通船のための水路が開削されてできた掘割ことで、海より八丁(870㍍)の距離にあったことから名がついた。ここに 与力、同心が住み、江戸の治安をまかされた。与力は300坪から500坪の土地が与えられ、同心は50−100坪だった。与力200石、同心は30俵二人 扶持と、報酬は少ないものの、江戸の商人や大名から収入を上回る付け届けがあり、暮らしに困ることはなかった。八丁堀は埋めてられ、一部が公園になってい る。
  桜川公園のなかに往時の地図の碑がある。区画整理で屋敷跡は姿を消し、説明板からあの羽織をひっかけ、腰にまいた同心たちの姿を思い浮かべた。TVでおなじ みの必殺シリーズ中村主水はフィクションであっても同心を生き生きと描いている。主水は下総の同心の次男から中村家に婿入り、姑りつ、妻せんの三人暮ら しの定町廻りの役どころ。奉行は鳥居耀蔵の設定になっていて、裏家業は妖怪と奸臣、悪徳商人に苦しむ江戸庶民の願いを受け、刀をふるう。このシリーズのラストの脚本は裏家業が発覚した主水は追われ、りつ、せんは捕らわれ、主水が救いだすも、せんは拷問で死に、りつは裏家業を隠した主水に怒った。りつに刺さ れた主水は門前で追手に斬られる筋になっていた。これでは妖怪に負けたことになり、シリーズに反するとしてお蔵入りしてうやむやになったという。

  八丁堀を右にまがると、京橋、そのむこうが銀座だ。江戸幕府の初期はこのあたりは浜と海。銀貨鋳造所をこの地に置いたことから銀座の地名がついた。浮島の職 人の町であって、金貨鋳造所は日本銀行のある常盤橋門外にあった。銀座2丁目、テイファニー銀座ビル前の歩道に『銀座発祥の地』の碑が立っている。ヨー ロッパの都市はフルタイムスペシャリスト、いわゆる職人の存在が重要な位置を占めているが、職人の町銀座も江戸発展に寄与した。銀座が明治の火災でレンガ 造りの家並みに生まれ変わり、モダンな町になった。外国のブランド品の並ぶおしゃれな銀座の始まりだった。
  東京で食べたいものの、3つのうち、あとふたつは寿司と鰻丼。グルメ散策のつもりででかけた東京散歩は大岡越前、遠山金さん、中村主水の八丁掘で時間をとっ た。築地場外に急ぐ。築地にはなつかしい思い出がある。学生時代、同級生の実家が経営の肉卸店でバイト。肉を担いで倉庫に運び、一般客相手の店売りを手 伝った。早朝から昼までの勤務のうえ、バイト料もよく、朝食にはブタ汁が出て、うまかった。腹が覚えていて築地を歩くと、グウと鳴る。寿司と鰻。関西の寿 司(一流店のことではない)は概してシャリの酢加減がうすく、ガリのショウが甘く、後味が悪い。ところが東京は回転ずしから駅前の店でもシャリ、ガリとも 私にはぴったりだ。
  鰻は蒸してない関西は匂いが鼻にきて香ばしさを消している。このふたつの理由で江戸前の寿司、鰻を堪能して移転問題の場内を観察して歩く。移転は延期に決 まったらしいが、いったん、決まったものをひっくり返すには相当なエネルギーがいる。小池知事の腕まくりに都議会の男たちがどう対応するのか、見ものであ る。まさかの魔坂の腰くだけになることのないように。
               *   *

第126回 さながらファッションショー 夏は華麗な盆踊り

     〜郡上、西馬音内、山鹿、八尾をたずねて〜
         
  日本の夏は盆踊りとともに過ぎてゆく。日本三大盆踊りは秋田の西馬音内(にしもない)、岐阜・郡上八幡、徳島・阿波が有名だ。8月15日前後が踊りの最 高潮になるが、郡上八幡は7月中旬から33夜の間、町内ごとに踊りが幕開け、町内を巡回して8月13日から4日間にわたる徹夜踊りを迎える。
  郡上はJR高山本線岐阜駅か ら美濃大田で下車、ここからは長良川鉄道に乗り換える。もともとは国鉄越美南線が走り、国鉄フアンに人気があった。民営化で長良川鉄道が引き継ぎ、長良川 沿いの渓谷は車窓の名所になっている。郡上は太田発10時40分の気動車で1時間50分の山の中。福井、名古屋、高山とはほぼ等距離にあり、長良川水運と ともに中部山岳地域の交通要所になった。
  戦国末期の守護遠藤盛数から明治まで19代続いた城下は藩主が遠藤、稲葉、青山とたびたび交代したが、領内融和のきずなになったのが郡上踊りである。藩主奨 励なくして大規模な踊りは継続できない。念仏踊りをもとにした城下総ぐるみの踊りは幕府から警戒されながら、山奥の地もあり、藩主交代しても続いてきた。
  川の瀬音ゆかしく下駄の音を響かせて郡上の夜は開く。〽郡 上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼるーなど10種類の歌詞と下駄音のリズムで踊りあかす醍醐味は参加しないとわからない。下駄屋では特別に好みの 鼻緒でつくってくれる。下駄の鼻緒が見えるように踊るのが娘たちの踊りのセンスだ。ファッションショーでモデルが足をくねくねしながら歩くあの感じに似て いる。
  踊り手の衣装の素晴らしいのが秋田羽後町の西馬音内(にしもない)盆踊り。羽後町は奥羽本線湯沢駅から西へ10キロの小さな町である。ところが8月16日は 全国から盆踊り見物の観光客がどっと押し寄せる。人口2万人の町は10倍以上の観光客があふれ、異常なほどの熱気につつまれる。盆踊りの見ものは踊りとは 別に踊り手の女性たちの鮮やかな衣装にある。東北きっての豪雪地帯で染め上げた色とりどりの絹布を継ぎ合わせたパッチワーク浴衣を身にまとい、手の指を反らして踊る女性たち。世界にも誇るファッションの担い手である。
  子規の弟子の俳人河東碧梧桐は明治40年、滞在の町で踊りと遭遇し、「日本で初めて絵になる盆踊りを見た」と、感嘆の言葉を残している。8月16日、出羽の 山並みに日が沈むころ、子どもたちがかがり火の本町通りに繰り出して祭りは幕をあける。黒い布をすっぽりたらし、豆しぼりの彦三頭巾、編み笠に藍染、端縫 い浴衣の男女が通りを埋めるさまは劇的である。しかも野趣に富み、哀調ある歌声にのって、女性がしなやかに手を振り、足を運ぶ優雅なパーフォーマンスは魅 惑的だ。大正時代、警察が風俗を乱すという理由で祭りを弾圧するほど人々は祭りに酔いしれた。ヤート−セー ヨイワナ セッチャ 隣の娘を踊りこ教えたら ふんどし礼にもらた さっそくもてきてカカアにみせたば 横面なぐられたー山国の夏は開放的だった。
  鎌倉時代から続くこの祭りは年月と住民の手で磨かれまれにみる美的センスの盆踊りになった。それは東北人のセンスの良さにほかならない。最澄と論陣を張り、 一歩も譲らなかった平安時代の僧徳一は、会津磐梯山爆発の地獄絵の中で祈りをささげ、地域民から慕われた。彼は親交ある空海にも意見をしている。さらに鎌 倉期には平泉の藤原氏が独自の文化を開いた。野趣と雅の合体した伝統は都離れた辺境の地で京の祭りにはない文化を創造したといっても言い過ぎではないと思う。
  九州に行くと、8月15、16日の熊本県山鹿の燈篭踊り。大文字の送り火が注目を集めすぎて、熊本以外の地ではTVに登場するのはまれだ。踊りは小学校グラ ンドに櫓を組み、千人の浴衣姿の女性が何重もの輪をつくる。女性たちの頭には金、銀の紙製燈篭がのっている。その動きはカメラをスローにしたかのような ゆっくり、優雅に繰り広げられる。
          <山鹿の骨なし灯ろうの写真>
  〽ぬしは山鹿の骨なし灯ろう よへほ よへほ 山鹿千軒たらいなし よへほ よへほーと幻想的な踊りである。8世紀の筑後風土記には『肥後国山鹿』の紹介があり、遡れば景行天皇にまつわる伝承が残っている。熊本市から北へ30キロの山裾には江戸期に薩摩、人吉、熊本各藩の参勤交代の道である豊前街道が整備され、宿場町でにぎわった。細川家ゆかりの温泉『さくら湯』は復活して、市民の湯になり、観光客を楽しませている。
  景行天皇が巡幸のさい、濃霧のため道がわからず、住民が松明で案内した故事や温泉発見が踊りの始まりというが、あくまで伝説の域をでない。あのスローテンポ の優雅な踊りと、あざやかな金、銀燈篭をかぶる衣装はあやしげだ。夏の夜、山鹿に紛れ込んだ旅人は踊りを前に現世を忘れてたちつくしたにちがいない。
  東北と九州の山間部で繰り広げられる日本の夏踊り。一方はモダンな衣装感覚にあふれ、他方は王朝風絵巻のテンポを再現している。山また山の地で伝承されてきたのはまぎれもなく土地の風土、文化である。鄙にはまれなとか田舎ものなどいう言葉は、盆踊りにはあてはまらない。
  盆踊りの掉尾は越中八尾の『風の盆』。盆踊りなどというありきたりな名ではない、おはら風の盆を全国に広めた。
  越中八尾(やつお)は高山本線富山駅か ら6駅目のここも小さな町である。八尾の名は飛騨の山並みが越中へ幾重にも重なる風景に由来している。人口2万人余の町は8月末から一気に人の波でふくれ あがる。駅から上り勾配の坂道が続き、ここを人が行き交うさまは普段の八尾を知るものには、まるで知らない町を歩く気分だ。
  江戸時代、町のそばを流れる井田川の氾濫で壊滅的な被害を受けた。このため、段丘の上に人家が並ぶ。川沿いの道から見上げると、石積みが築かれ、その上に家が建っている。養蚕と和紙で繁栄した町は若者の流失が続き、駅乗降客は一日、800人でしかない。
  富山藩のお納戸とまでいわれた隆盛は町のたたずまいや祭りなど伝統行事からしのぶことができるが、中でも風の盆は町を離れた家族、親戚が集まる最大の催しである。
        <郡上八幡の写真>
  風の盆という呼称は二百十日前後に稲作の無事を祈願する目的で始まったというが、歴史は江戸以降である。富山には農作業の休みを盆と称する習わしがあり、種まき盆、雨の盆など休みは盆だった。日本海の風はダシと呼び、各地に風の宮ができるほど富山名物になっている。
  作家の高橋治は金沢の第四高等学校生の頃、風の盆を見て、誇り高い金沢市民 が一目置く風の盆に魅了され、通うようになった。1985年、全国的に知られていなかった風の盆と中年男女の不倫を重ねた小説『風の盆恋歌』発表したとこ ろ、小説がヒットして代表作になった。不倫という言葉が一般化するのは83年の『金曜日の妻たち』からといわれている。それまではよろめきが使われた。 妻、夫ある男女が学生時代の思い出の場所である八尾で年一度の風の盆の日、出会うなかなかロマンチックでスリリングな小説だった。男は大手新聞社の外報部 長、女は京の医者の妻の設定になっていて、金に困らない男女が風の盆の夜を過ごす、なんともうらやましい限りと思いつつ、引き込まれる不思議な本だった。
  高橋治は昨年、86歳で死亡、昨年の風の盆は追悼の踊りになった。
  風の盆は旧11町に伝わる衣装で徹夜の踊りを繰り広げるが、編み笠の男女のいでたちは色っぽい。小説では血液の難病にかかった男が女と八尾で再会できず、息絶え、駆けつけた女も服毒して終わる。盆の夜、〽歌われよ わしゃ囃す もしやくるかと 窓押し開けて キタノサー ドッコイサノサー 見れば立山 オワラ 雪ばかり
  哀調ある歌声が町に流れ、胡弓の調べ続く。胡弓が風の盆の楽器になったのは明治の初めである。以来、オワラは囃し、歌詞とも改良を加えられ、今日の姿になっ た。八尾の医師川崎順二が昭和4年、すたれゆく風の盆に危機感を抱いて保存会を結成し、町ぐるみの運動を展開した。サングラス美人の言葉があるが、編み笠 を深くかぶって踊る若い女性は美しい。ちらりとのぞくアゴのあたりがたまらない。

          *
  メモ 郡上八幡おどり 8月12日まで各町内で踊り開催。13日から16日までは徹夜踊り。一般参加もできるが、土日と徹夜踊りの期間中、踊りレッスンがある。520円。踊るなら下駄は必。

   西馬音内踊り 8月16日から18日夜7時から11時まで。
   山鹿燈篭踊り 8月15日から17日。千人踊りは16日夜。
   風の盆    8月20日から30日前夜祭。本祭1日から3日
   いずれも混雑するため、地元確認の必要あり。

         *

第125回 日本海夏物語

  鳥取 いい味は岩ガキと青谷和紙〜

  日本海をのぞむ露店風呂でこの日、鳥取のいい味を思い浮かべていい気分に浸っていた。夏の鳥取の味覚は数あるが、青い海にごつごつした岩場から連想するのは 岩ガキだ。殻を割って食べるあのふくよかな、とろりした味は口いっぱいに広がり、こぼれ出るほどである。鳥取の岩ガキは「夏輝」のブランドで売り出してい る。養殖の岩ガキもあることから天然の札付きだ。鳥取港賀露市場で最初、食べたときの印象は冬の牡蠣に慣れた舌がからみつく身の大きさにたまげていた。市 場では生そのままはあぶないからやめてほしいと、注意するが、むき身をほうばるあの誘惑には勝てそうもない。
          (写真1枚 未掲載)
  他所からくると、生こそうまいと思うが、地元では鮮度がすべてでなく、酢につけて食べるのが一番と、教えてくれた。食べ方はそれぞれの好みである。
  岩カキの産地は三陸能登隠岐、山陰など日本海沿岸が産地である。例外として銚子、鹿島灘が太平洋岸で名があがるが、数は少ない。素潜りで岩場の牡蠣をはがすのは手間がかかる。ハンマーとノミをつかうため、観光客はやめたほうがいい。
  太平洋岸では干潮を利用して岩場で牡蠣を打つ。岩と見まちがう岩ガキをハンマーとノミではがしてとる。岩にハンマーでくさびを打つ要領である。
  賀露市場で岩ガキを開けてもらった。素人がすると手を傷つける。さほど貝は固く閉じている。やっと口があく。手のひらがかくれるほどの貝の身。コロッケより も大きいだろう。2個食べて満腹した。600円。特大は茶碗ぐらいあり、1800円の値札がついていた。「だいたい4年すると食べごろになる。夏のことゆ え、神経をつかいまっさ」と、市場の兄ちゃん。昔はひとり300個ぐらい取ったこともあるという。
          
   夕食に宿でもでたが、市場で食べた印象が強くて、まあまあの味である。この季節は宿から料理屋まで岩ガキのないところはない。
  「夏 輝」のいい味と、もうひとつのいい味は因州和紙。食べる味でなく風合いの味わいを指している。賀露港から日本海を眺めながら青谷(あおや)へ向かう。山陰 線普通電車で30分でJR青谷駅。旧気高郡青谷町は平成16年に鳥取市と合併したが、一帯からは世界的に珍しい弥生時代の土器、石器が発掘され、人骨に交 じり、中国、朝鮮半島の交流を示す鉄器類が見つかった。
  駅からバスで南へ6キロ山あいにはいると、青谷山根地区に着く。因州和紙のふるさとである。因州和紙は正倉院に保存され、奈良時代からすかれてきた。ミツマ タ、コウゾが原料である。平安時代の文献には登場するが、その後はばったり文献から姿を消した。他産地の紙漉きの影に隠れたのだろう。戦国期に亀井氏が因 幡を治め、和紙作りが盛んになる。亀井氏が津和野藩に国替え後は鳥取藩の領地になり、明治維新を迎えた。
          
  青谷が和紙の里として注目をあびるのは、明治以降、洋紙普及の中で和紙にこだわり続け、伝統産業にしたことである。文化の産業化に成功し、いまでは墨書などの画仙紙の国内6割をつくっている。
  青谷和紙の工芸品化の歴史は新しい。戦後間もない昭和24年(1945)、青谷山根の浄土真宗「願正寺」を民芸運動柳宗悦鳥取の医師吉田璋也の二人が訪 ねた。『因幡の源左』こと足利喜三郎さんの話を聞くためだった。江戸天保生まれの源さんは20年前、88歳で亡くなっていたが、生前は浄土真宗の教えを日 常生活の中に体現した浄土教の篤信者である妙好人として地元民から敬われた。
  青谷ではものをもらったお礼は「ようこそ ようこそ」といい、ありがとうとはいわないが、これは源さんの口癖が土地の言葉になったものである。一般につかういらっしゃいの意味と異なる因幡独特の言葉。源さのエピソードをひとつ紹介する。
  寺へ行く途中で雨に降られた源さんはびしょ濡れで寺についた。和尚が雨に濡れて大変だったろう、といたわると、源さんはこういった。
  「鼻の穴が上むいていたら雨がはいり大変やった。下むいていたから雨ははいらん。さてもさても」。住職は絶句した。
  願正寺に逗留して源さん話を取材した宗悦は本にするが、逗留を聞いた土地の人が「骨董の目利きが来なすった」と、家々のお宝を寺に持ち込み、鑑定を頼んだ。 テレビ東京の人気番組『なんでも鑑定団』さながらのにぎわいになった。宗悦は陶器や絵画に関心を示さず、土地のひとは「ありゃなんじゃ」と、噂した。
  現在、大因州和紙協同組合の創業者塩義郎さんは天地がひっくり返る吉田璋也ほどの衝撃のことばを鮮やかに覚えている。紙漉き職人の塩さんは宗悦にあうため、手漉きの紙と土産代わりの焼トウモロコシを紙に包んで持っていった。
  トウモロコシの包み紙を開いた宗悦はいった。
  「美しい。いい味している」
  売り物にならない包み紙。塩さんは信じられなかった。この出会いが転機になり、和紙作りは方向転換する。戦後の間もない時代だけに誰もが反対した。因州和紙 は、民芸調にとどまらず、インテリアまで幅広い。浅草雷門の大提灯も因州産である。丈夫で古くなっても味を失わない風合いこそが民芸品であることを宗悦か ら学んだ。「ようこそ、ようこそ、さても、さても」を繰り返した源さんの心は和紙づくりに生きている。
  宗悦とともに民芸運動を起こした医師吉田璋也は源さんが浄土の教え吉田璋也を日常に体現したこころを民芸運動で実践した。吉田は民芸の美を生活の中に取り入れるプロ デュサーを自認、新しい生活文化を提案した。一時、京都暮らしのさい、宗悦や河合寛治郎と知り合い、昭和6年(1931)、郷里鳥取耳鼻咽喉科を開業の かたわら鳥取民芸會を創立した。戦後、民芸美術館、たくみ割烹を市内に開いた。デザインしたイス、机なども手がけ、運動を広めた。
  民芸運動は大正時代に第一次ブームが起こり、戦後の高度成長期には第2次ブームを迎える。吉田の匠店は2次ブ−ムの波にのった。私の記者時代、京都でも「鳥 取の民芸、匠に行ってきた」と、OL、女子大生が旅自慢していた。民芸品の大皿にアゴ(トビウオ)の丸焼き、岩ガキが出てきた。京の料理屋が雅にこだわり 忘れていたいい味があった。しかし、このブームも民芸をブランド化し、本来、名のない民衆の美のはずが作家名で流通し運動は変容した。吉田璋也は運動の波 と変容を経験しながら新しいデザインによる工芸品を制作した。古いからいいのではなく民衆の中にある工芸品であることを運動の軸にした。
  JR鳥取駅前に近い匠店。店の構えも店内も変わりはない。郷土料理が分厚い皿にのってでてくるが、皿も岩ガキもまぎれもなく鳥取のいい味である。
          
  食後はコーヒー。民芸ゆかりの鳥取だけにコーヒー店は市内に多い。もともとお茶の文化が定着している城下町だからなんの不思議もない。スータバックスが開 店、さらにオーストラリアのアズバズが相次いで香りふりまき、鳥取の家庭におけるコーヒー使用量はついに全国1になった。坊ちゃんの松山も喫茶店の多い町 であるが、この町はひけをとらない。聞くところによれば昭和27年の大地震のさい米軍がインスタントコーヒーを配布したのがきっかけになり、家庭の消費が 増えたという。今年9月にはコーヒーサミットを計画している。鳥取コーヒーもいい味に加えたい。
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  メモ  JRスーパーはくと号京都7時6分発鳥取10時29分着。青谷には普通乗り換え30分青谷駅。バスで40分和紙会館 

  たくみ割烹は美術館、工芸品館の3点セットの鳥取民芸の要。駅に近く便利。営業時間は昼ときと夕方から開店。単品もあり、敷居は高くない。 

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