第128回 そうだ四国高峰・剣山へ行こう

  〜帰路は祖谷の平家の里〜

  この頃、早く床に つくせいか、午前3時から4時までの間に目がさめる。困った癖がついた。眠気がくるまでラジオのNHK深夜便をイヤーホーンで聞きながら、夜を明けるのを 待つのは楽しい。6時頃には再び夢の中。朝の夢は鮮明で気にいっている。7時にはニャンコがトイレ清掃と餌の催促にくるため、寝ていられない。
  NHK ラジオが「今朝は四国・剣山山小屋からです」と、紹介していた。西日本最高峰は愛媛の石鎚山1982㍍。次いで剣山1955㍍。中国山地の大山のほうが高 い印象を持つが、山の形、冬山の姿に惑わせられている。大山は軽装備で臨むには険しく、秋口は気候変化で例の新聞、TVのいやなおせっかいの目にさらされ かねない。私には山よりもこちらのほうが怖い。
          <写真 1>
  山小屋主人の案内する四国2千㍍級の山頂風景は魅力的だ。ここ2年ほどゴルフをやめ、近くの山をかたっぱしからのぼっている。ゴルフの数あわせが面倒にな り、数でいやな気分を味わった。だから自由な山。いずれも800メートル前後の山で鹿やウサギ、リスにでくわす。眺望はそれなりに満足するが、2千㍍の山からの 眺望にはかなわない。
  剣山はリフトが山頂真下までついていて、装備は水と保存食、コートがあればいい。手軽さでは2メートル級の山では屈指の登りやすい山だ。それでは登山の面白みが ない、自然との対話がないという堅いことをいう人もいるが、昨今、人それぞれ、山それぞれの軽薄思想が心に入り込み、楽して登る山行の味を覚えてしまっ た。
  そうだ、剣山へ行こう。思いついたら吉日である。ニャンコのベテイが「エエカゲンニシヨシ」とまとわりつくが、爆睡中の老妻に置手紙をして家出の気分を味わ う。いつもは鉄道にするが、大津から剣山まで5時間半、ここは車だ。神戸―淡路―鳴門は快調である。徳島で通勤時間帯にはまったが、渋滞もなく、おにぎり の朝食をすませ、吉野川と貞光川の合流する国道438号を南下し、剣山麓へ急ぐ。昼前には山頂にいるだろう。
  貞光は現在つるぎ町と名を変えた。ひらがなの町名は珍しい。というのも剣山は「けんざん」と「つるぎさん」の呼称があり、地元ではケンザンを使った。それを論議のすえつるぎを統一呼称にした経緯があったから漢字町名はややこしくなるという配慮がはたらいたのだろう。
  剣山麓の見の越駐車場についた。家出してから4時間もかかっていない。見上げる剣山はガスの中にある。駐車場標高1300㍍。リフト15分で西島駅である。 すでに標高1832㍍。剣山は修験道の山として知られるが、始まりは室町期といわれ、比較的新しい。壇ノ浦で海へ投身した幼年の安徳帝が平教経とともに四 国に渡り、祖谷を拠点に平家再興を目指した伝説が剣山の名の起こりという。教経は祖谷では平国盛と名乗り、平家一党を従えた武人の鑑になっている。壇ノ浦 以前には剣山の伝説、修験道の歴史につながる文献はなく、伝説の安徳帝生存が剣山呼称と結びついた。
  山頂への道は西島駅を降りて大剣神社の鳥居をくぐり、ほぼ直線に近い最短コースを選んだ。大剣道の名がつく道は迂回せず、一気に山頂へ向かうが、このコース は平家伝説が道の木、岩にあり、平家一党をしのびながら歩くには最適だ。剣山登山の定番コースといってもいい。山小屋雲海荘が見えてきた。ギザギザの尖っ た岩の塊が大剣神社である。平教経(国盛)は平家の名高い武将として平家物語にも登場している。平家が安徳帝伝説を託すのは教経しかいなかった。史書では 源氏の兵を小脇にっかえて海へ飛び込み、消息を絶ったという。このあたりから道は急こう配になり、息切れしてきた。あわてずに行こうと思うが、山頂近くだけに気があせる。
  測候所の前に出た。富士山頂に次ぐ2番目に高い測候所が会った。昭和18年の戦争最中に設置され、50年間、職員が交代で勤務、高山の気象情報を送信した。 1991年に無人化され、2001年に廃止された。剣山の月別平均気温は8月15・3度、9月12・3度、10月は6・3度まで下がる。11月から3月ま ではマイナスの日が続き、1月はマイナス7・3度になる。最低気温は1981年2月のマイナス23・5度。山はすっぽり雪に覆われ、無人の山になる。
  正月には初日の出めあての登山客が各地から集まり、新年を祝うが冬山の厳しさに驚き,早々に下山するそうだ。風の強さは半端ではない。今朝の気温は10度 余。肌寒さを感じるが、山頂の木道をあるくには申し分ない。朝、出ていたガスも消え、木道の南西方向に兄弟山の次郎笈のなだらかな稜線が伸びている。山頂 は平家の馬場と呼ばれる平坦な草原になっていて、リフト設置をきっかけにミヤマクマザサを保護の目的で木道になり、山頂は木道以外歩けない。
  日帰り登山の思い付き、下調べもせずに来たものの、稜線沿いの縦走路が呼んでいる。歩きかけては迷い、ついに「そんな軽装でよく剣山にきましたね」という新聞記者の失礼な質問が目に浮かび、断念した。下山は1時間で駐車場まで降りてきた。
  帰りは祖谷渓谷を訪ねることにした。車の旅の便利さだ。剣山山頂には水が湧き出て、これが祖谷川の源流になっている。石灰岩が風化した浸水性の岩石が雨水や 雪をためた御神水である。車で15分も走ると、奥祖谷に着く。下流の祖谷のかずら橋は観光客も多く、順番待ちになるが、奥祖谷の2重橋は秘境の趣が漂う。考えみれば、家でベテイと話してから人間とは一言も交わしていなかった。本日は会話ゼロの日にした。
  避けるように歩いていると、気配がわかるのか誰も話かけなかった。橋は最初が男橋、あとが女橋になっていて、女橋が短い。かずら橋は追っ手から逃れるため、イザというときには切り落としたというが、いまの橋は安全性を考えワイヤーを巻いている。
          <写真 2>
  男橋の長さ41㍍、川までの高低10㍍の橋は大きく揺れる。足元がぐらぐらする恐怖は地震で経験済みとはいえ、気持ちのいいものではない。前を見て渡ると、なんでもない。
  平国盛の家は奥かずら橋下流の山の中にある。隠れ家にふさわしく、祖谷街道からはずれている。火事に遭い、茅葺屋根にトタンをかぶせてあるが、造りはいかにも平家伝説の主の住まいにふさわしい風格が漂う。現当主は24代「阿佐」を名乗り、この家に家族と住んでいる。
  国盛は清盛の甥といわれ、平家一党の名門である。全国に平家の里は点在しており、柳田国男、角田文衛ら史学者らが研究してきた。平家落人は確かに存在したこ とは鎌倉時代の三日平氏(みっかへいし)の乱が吾妻鑑などの文献で証明されている。この乱は平家の本家伊勢、伊賀の平家残党の若菜五郎が蜂起し、鎌倉幕府 に謀反を企てるも、わずか3日で鎮圧された。
  祖谷の平家には赤旗2流が残り、研究者から注目の一党である。四国の山奥のため、交流は限られ、考証は伝説の域にとどまっている。若菜五郎の謀反が伊勢だけでなく、京をはじめ、全国の隠れ平家に呼びかけた蜂起であったならば、鎌倉幕府は肝を冷やしたことだろう。平家に束ねる策士がいなかった。
  普段はひっそりと暮らし、時には剣山に上り、一の谷、屋島、壇ノ浦の源平合戦の舞台を追悼したことは、他の平家落人にない具体性がある。阿佐家は三好氏、蜂須賀氏の配下になって戦国をくぐりぬけ、平家再興の日を祈願するが、祖谷の豪族のまま明治を迎えた。
  赤旗、宝刀、系図のある平家落人は珍しい。大剣神社の託宣をかかげて打って出る日を考えただろうが、かなわぬ夢、幻でしかなかった。
  祖谷の平家には赤旗2流が残り、研究者から注目の一党である。四国の山奥のため、交流は限られ、考証は伝説の域にとどまっている。若菜五郎の謀反が伊勢だけでなく、京をはじめ、全国の隠れ平家に呼びかけた蜂起であったならば、鎌倉幕府は肝を冷やしたことだろう。平家に束ねる策士がいなかった。
  普段はひっそりと暮らし、時には剣山に上り、一の谷、屋島、壇ノ浦の源平合戦の舞台を追悼したことは、他の平家落人にない具体性がある。阿佐家は三好氏、蜂須賀氏の配下になって戦国をくぐりぬけ、平家再興の日を祈願するが、祖谷の豪族のまま明治を迎えた。
  赤旗、宝刀、系図のある平家落人は珍しい。大剣神社の託宣をかかげて打って出る日を考えただろうが、かなわぬ夢、幻でしかなかった。
          <写真 3>

          <写真 4>

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