第124回 御食っ国(みつけくに)伊勢志摩

  〜神饌・熨斗鰒(のしあわび)の国崎をゆく〜
          
  サミットが終わ り、伊勢志摩から通行止めの表示はほぼなくなった。サミットでトバされ、TVに出る機会の少なかった鳥羽まで京都から特急2時間15分。鳥羽は伊勢湾の入 口に位置し東に渥美半島が思い切り手を伸ばし、神島、答志島を経て結ばれている。前は太平洋なのである。二見浦は鳥羽にあるとおもいがちであるが、伊勢市 に属し、ここから北が伊勢湾になる。関西の小学校の修学旅行はここ二見浦が定番になり、子どもたちには枕投げのふるさとだ。

鳥 羽から外洋沿いに車を走らせ、海の色は外洋に面していて深いブルーだ。鳥羽の二見浦からパ−ルロードを走ると、左手に「海の博物館」がある。ここから車で 10分で太平洋の荒波が打ち寄せる鎧崎に着く。岬の付け根に広がる地域が国崎(くざき)。125世帯366人が集落を形成し、漁業を営み、62人の海女が 鮑とりをしている。かつては男も潜り、昭和の初め頃までは50人を数えた。現在は5人になった。夫婦で潜り、民宿を営む家族もいる。

 6月の海はアワビ (鮑)の季節を迎えている。伊勢神宮の神饌の代表格は鮑である。月次祭神嘗祭(かんなめ)の三節祭ではアワビを納めた辛櫃(ひつ)が祭列の先頭をしずし ずと進む。昔、昔から鳥羽市の国崎から納めるのが決まりである。日本書紀伊勢神宮起源譚の中にこうある。
          
   天照大神の宣託で 伊勢神宮を建てた倭姫命(伝説によれば垂仁天皇の皇女)が巡行の途中、国崎に立ち寄り、土地の『おべん』という海女が出したアワビを食して気に入り、倭姫 命は毎年、神宮へ奉納するよう命じたが、おべんは生のままで腐るため、薄く切り貯蔵するのがよろしいと、いい、以来、2千年の間、国崎からアワビが奉納さ れてきた。

 国崎には「おべん」を祀る海士潜女(あまかずきめ)神社があり、海女たちの信仰を集めてきた。毎年7月1日の例祭には伊勢神宮から舞の奉納が古式ゆかしく営まれる。近頃は海女だけでなくダイバーたちが守り神として参拝するスポットになった。

 国崎では6月の声 とともに熨斗鰒(鮑)つくりが盛んになる。岬の森の中、「御料鰒調整所」という社務所に古老たちが集まり、リンゴの皮をむく要領でアワビの身をひも状にの していく。熨斗とは中国の伸ばすからきており、アイロンのことを中国では「熨斗」という漢字を使う。「のし」は延寿に通じ、長寿食のアワビと結びついて熨 斗鰒を神饌にする風習ができた。
          
  熨斗は祝いことに欠かせない飾りであるが、一般の風習では略式化され、紙が代役をはたして今日にいたるが、神宮は本物のアワビを使う。

古老たちは年齢順に座り、最年長の舵取りで作業が進んでいく。若いころは外洋に魚を追った漁師仲間である。

  アワビはぬるぬるして熨斗には年季がいる。鎌の形に似た熨斗刀を右手に持ち、左手にアワビをつかんでくるくると、ひも状にしていく。農家のかんぴょうむき に近い。熨斗鰒の長さは古老によると、700㌘のアワビで3㍍半ほどある。むいたアワビは天日干しで乾燥されるが、干場にはひも状のアワビがぶらさがり、 太陽をあびている。

 仕上げは干したア ワビをそろえ、奉納の形にする作業。早朝6時に集合した古老たちは12人。80過ぎても手先はしっかりしている。熨斗鰒には3種あり、大身取(鰒)、小身 取(鰒)、玉貫(鰒)に分けられる。最古老がアワビを寸法通りに切りそろえ、次席の古老が大身取鰒は幅広のものを10枚束ねて整え、小身取鰒は中位のアワ ビを5枚束ねる。下座の古老の玉貫鰒は小片24枚を1連として新藁の縄に編み上げる。父子代々に渡り、国崎で継承されてきた流れ作業はゆるやかに進行し、 渋滞すら起こらない伝統の技。感心すると「そら年季がはいってますわな」と、笑われた。

 一年でどのくらい のアワビを神宮へ届けるのか。漁協組合によれば年間700キロはくだらないという。高齢化と資源問題は伝統の行くすえに黄点滅の信号を送っているが、なか でも高級のクロアワビが減っている。クロアワビは大振りで肉厚く、岩場の底に生息していて、力のある海士(男)が潜りの狙い目にしていて、海女たちの怖い 目にさらされている。値段も牛肉特上クラスとか。肉厚つのため、ステーキなどに使用されることが多い。赤身のアワビは肉がやわらかい。

 国崎の海岸を歩く。海岸の傍は岩礁になっている。アワビの好物のワカメ、アラメの豊庫である。海藻を食べることからアワビは目や内臓にいいとされ、国崎では妊婦にアワビの肝を食べさせる。「目のきれいな子ができるというてな」と、民宿の女将が自分の目を指さして笑った。

 ダイバーたちは 15キロもある重石を手に一気に潜る海女の姿に驚く。ここでも返ってくるのは「腕と年季がちゃう」と胸をたたかれた。どこでも海沿いの女たちは豪快であ る。国崎では「てー(男)の一人ぐらい養えんようではやや(女)の値打ちがない」というのが海女小屋で聞く女たちの会話だ。まことにもって伊勢志摩の男た ちがうらやましい。この話、能登半島の輪島でも耳にした。海女の年収について聞くと、最近は資源保護で潜る回数、時期を限定しているため昔のように10日 余りで100万は軽いという話はなくなった。国崎でも1日1回、2時間までと決めている。15日間潜って新入社員の給料よりはいいそうだ。命がけの肉体労 働の対価として安い。海の博物館の調査では素潜り海女は世界で日本と済州島を中心の韓国しかいない。
          
   志摩の海は黒潮が 北上、伊勢湾流との潮目をつくり、魚が集まってくる。リアス式の海岸は海藻の生育に適し、アワビにとっては潮であらわれた海藻を食べるまたとない環境に なっている。土地の人によると、アワビは集団で移動するといい、あの形でひらひら泳ぐそうだ。このアワビを好物にする天敵は伊勢エビとタコ。いずれも志摩 の名産である。タコなど伊勢エビとアワビを食べる贅沢な生き物で、あの独特の味わいは伊勢エビとアワビを食した結果と知るなら、うなずける。タコは岩場の 隙間にいるアワビを吸盤と足の力で引きはがす名人で、以前、タコ豊漁の年はアワビがいなかったとか。岩場の底にアワビの殻が大量に見つかることもあった。

人 間もタコのことをいえた存在ではない。井原西鶴は「芋、タコ、南瓜は女の好物」と書いているが、志摩の女はここにアワビとエビを加える。海の女はたくまし い。男は漁で命を落とすことが多いから、おのずと生活感のある女たちができたという見方ができるが、これは本来、女の持って生まれた気性なら、世の男たち はメンツにこだわりなんという誤りの歴史を歩んできたのか。男は家でブラブラして子づくり。女は子を産み、育て、稼ぎまくる。これが創造の神の考えたある べき姿。ライオンの群れ社会でも働き手は雌だ。チンパンジーの研究もいいが、哺乳類の雌の本質を研究する学者がもっと出て革命的な論文を書くべきだろう。

 太平洋の海は気も 大きくする。残念ながら私は女性から尻は叩かれても、まかせなさい、ついておいでと、胸をパーンと叩いた女性に出会った経験はない。それだけに古希を過ぎ て知る国崎の海女たちの思想信条は水平線に上る朝日のごとく希望を与えてた。燃え尽きんとするろうそくが油をもらった気分である。
          
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 メモ 国崎への途中にある「海の博物館」はぜひ立ち寄りたい。体験学習や志摩の民俗を展示している。博物館ではユネスコ世界文化遺産に「海女」を登録する運動している。
  「伊勢神宮徴古館」はバスで内宮行、徴古館前下車。神宮の神宝や装束など伝統工芸を展示。ベルサイユ宮殿を模したルネッサンス風の明治建築。
          
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第123回 フアン待望の京都鉄道博物館GWオープン

  〜旅路はるか梅小路に鉄路の精鋭が勢ぞろい〜

          
  このGWは美術フ アンには東京上野の「若冲展」、鉄フアンならこちら京都鉄道博物館が人気を呼んだ。旧梅小路機関区は京都駅西の山陰線高架西にあり、住所地は歓喜寺町に なっている。梅小路の町名は平安京条坊の梅小路に沿った梅小路村説がある。現在、道路の梅小路は貨物線沿いに南北に延びた道。西の梅小路頭、本町、東町があり、地図の上では隣り合わせになっている。ところが梅小路東の京都駅寄りも梅逕学区の名があり、梅の小路に関連する地名が東西に広がる「梅」ところだ。明治以降は元機関区の名が定着した鉄道の町でもある。
   京都駅を出て、伊 勢丹沿いに西に歩く。ビルの谷間の通りであるが、古くは平清盛の広大な西八条第屋敷があり、清盛は六波羅と西八条に一族の住まいを構え、権勢を誇った。明 治になり、東海道線大阪―京都間の開業にともない、明治9年(1876)9月6日、最初の蒸気機関車が走った。京都駅は工事中のため、9月から翌年2月ま で大宮仮駅舎ができた。七条ステーション、京都の人は「ひっちよすてーしょん」と呼んだ。この駅は鉄道フアンが探した幻の駅である。
  文献によると京都駅は仮駅舎の東へ40鎖(800㍍)延長とあり、また当時の線路は現在より7鎖半(140㍍)北。つまり幻の駅は伊勢丹の西北にあたる。大宮仮駅は京都駅周辺の宅地開発で地下に埋もれ、「このあたりにあった」という説明にとどまっていた。
  平成になり、駅前のホテル建築にともない、発掘の結果、仮駅の遺構が110年ぶりに顔を出した。住民に話を聞くと、官有地に家を建て、登記簿には線路が通っていたという。現在の市バス三哲車庫からアパホテルあたりが仮駅舎跡になる。
  大宮通東の梅逕中学前にきた。梅逕とは梅の小路の意味で、清盛屋敷とつながりのある名かもしれない。梅小路と梅逕。本家争いが起きてもおかしくないが、文化の冠をいだく京都市民にはいわずもがなの話だ。
  梅逕中学は明治5年創立の元番組小学校である。その校歌たるや大学校歌に負けぬ香りがある。京都はいろいろうるさいところながら、教育にかけた明治の心意気はすごいものがある。いまも中学校歌に継承されている。

   ♬♪   古都平安の南に 若き生命の集いあり
       高く清く手とりあい はげむところぞ我が梅逕
       その名もゆかしくひびくなり
       花とこしえの春ならば 梅が香したうぐいすも
       時来れば飛び立ちて 
       身に移したたるその香り 忘れず四方を清めなん

  子どもの頃から雅な校歌に親しんだ学区民。京都の文化は大学がつくったと学歴にこだわる向きには、この明治以来の校歌を歌ってみることを勧める。
  梅の小路は鉄路に変わった。新幹線をはじめ、特急が、そんな昔をしるもんかと、走りぬけるが、梅小路を機関区に、さらに鉄道博物館に選んだ文化の香りは健在だ。
  鉄道博物館への途中、ビルの隙間の路地に祠があって、いかにも京都らしい。梅小路まで歩いて約30分余、路地散策しながらの道は楽しく、これは発見であった。
          
  私が記者になり梅小路機関区を取材した1968年ごろ、山陰線にまだSLが走っていた。SLが姿を消していく現状を国鉄当局が憂慮して梅小路機関区の扇形車 庫に動態保存を決めたのもその頃である。関東(栃木)と京都が候補にあがり、山陰線でSL運行中であることが梅小路選定を後押した。新米記者の夏の記事の 定番は「消えゆく窯の炎」のタイトルで窯焚きを書いた。油のついたあの青い乗務服、汗びっしょりになって石炭を投げ入れる若者は格好よかった。
  当時の人気TVドラマ「若者たち」を重ねて機関区をたずね、煙をあげて出てゆくSLを見送った。職能集団であったSL機関士たちは電化と合理化により手にし た技術を失いつつあった。仕事を覚えれば一人前の時代は終わった。炭鉱、蒸気を退けた70年代の日本の技術革新の光と影がここ梅小路にある。山陰線を走る SLの姿と、機関車の窓から手を挙げた若者たちが無性になつかしい。
  SL館は72年(昭和47)オープンした。旧機関区には最盛期85両のSLが車庫入りしたが、SL館は18両を保存、このうち6両を動態のままにした。SL館長だった安田喜一さんに聞いたことがある。
  「SLは自分で石炭を食べ、水を飲んで走る。つらいときはあえぐ。逢坂山トンネルなんか砂をまいてケツをたたいた。わたしらには人間同士のつきあいでした」
  4月29日開業の京都鉄道博物館はSL館を引き継ぎ、車両もSL20両をはじめ新幹線やブルートレインなど鉄路の仲間たち53両を展示している。博物館正面 はSLでなく超特級リニアをイメージしたかのようなデザイン。入口は改札口スタイルだ。京都駅の案内ポスターがどことなく若冲手法なのが面白い。
         
  本館は広大な吹き抜けになっていて下からも上からも展示車両を見物できる。最初の500形新幹線、寝台特急581形、明治36年製造の国産最古SL230形 233号機など豪華な顔ぶれがそろっている。2階は休憩室に50系客車を使用し、ここで弁当など飲食もできるが、レストランは別にある。
  展示は本館、プロムナード、トワイライトプラザ、扇形車庫、引き込み線にわかれ、鉄路を牽引した明治から現代までの車両が集まる。いつでも動ける車両も含ま れ、山口線SLC57は春から秋は山口に駐在、冬期のみ梅小路に出張してくる。信州の山岳地帯を走ったC56はSL北びわこ号として湖国のおなじみになっ たが、引退の時期が近付いている。SL館時代も人気のあったSLスチーム号は、鉄博でも煙をあげている。往復1キロ10分の旅に子どもから大人まで列をつ くり、順番を待つ人気物だ。
  興味深いのが引き込み線である。営業線とつながり、いつでもここから本線に連動するシステムになっている。本館1階と一体化して車両の入れ替えも可能だ。ト ワイライトエキスプレスの電源車カニ24形が停車中だった。引き込み線の雰囲気が漂うのは本線につながる構成からだろう。味な演出である。トワイライトフ アンはここでカメラを構え、ポーズをとること間違いない。
  閉鎖の大阪の交通科学博物館からも大半の車両が梅小路に移ってきた。交通科学博物館はよくできた展示館であったが、大阪になじまず、新幹線など比較的新しい 車両が並ぶ展示はいまひとつ印象が弱かった。ところが交通科学博物館から車両を移してSLなど明治、大正、昭和の車両と並べると、新旧車両が生き生きして くるから不思議である。
  本館3階はスカイテラス。新幹線から在来線、嵯峨野線(山陰線)、貨物線の梅小路デルタゾーンが一望できる。走りゆく列車をながめ、旅路はるかの回想に浸っていると、ポォッとあの汽笛がして、回想と現実がごっちゃになった。また旅をせかせる汽笛が響いた。
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  メモ 鉄道博物館は京都駅からバスで5分。JRなら嵯峨野線丹波口駅から徒歩15分。京都駅からは徒歩30分。休日は混むため、午前中がいいとか。入館料大人1200円。
  周辺は公園化され、近くに水族館もある。

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第122回 新月の夜、富山湾は蛍光に輝く

  〜住みよい県NO1のホタルイカを求めて〜
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   金沢から富山の東に立山連峰がそびえる。霊峰の名にふさわしい信仰の山だ。春から新緑の頃、富山はホタルイカの季節である。琵琶湖から車で3時間の道。旅の足は鉄道と決めているが、今回は真夜中の海岸沿いをさまようため、車の旅になった。
  ホタルイカは3月 から5月が産卵期を迎え、富山湾では浅瀬をもとめて湾に浮かびあがり、砂浜に打ち上げられる。これをホタルイカの身投げといっている。その際、海中で発光 し、海を蛍光色に染めるさまは富山の春から初夏の風物詩になっている。今年の新月は4月10日、5月5日前後のゴールデンウイークに重なり、にぎわいが予 想されるが、桜の花びらが舞う4月は、まだ渋滞に苦しむほどの人出ではない。
  金沢を過ぎて1時 間で富山である。JR富山からは高山本線が高山までのびている。昔、昔の大晦日、大阪から夜行にのり、富山で降りて駅前でソバを食べ、その足で高山線に乗 り換え、眠ってしまい、肩が冷えて目を覚ますと、窓の外は一面の雪景色になっていた。結局、電車で正月、京都へ戻ってそのまま寝正月になった、行く当ての ない旅の思い出が富山にある。
  富山市内 を流れる神通川は高山を水源にし、富山平野を経て湾に注ぐが、1910年ごろから1970年前半にかけて流域住民の間で奇病が発生し、発生から60年後、 三井金属鉱山神岡精錬所の排水によるカドミュム汚染の因果関係がしだいに明らかになっていく。地元開業医の萩野昇医師が「イタイタイ病」として新聞に発 表、一部学者はビタミンD不足説を主張し、学界で論議を呼ぶも、カドミュム汚染の実態を厚生省も認め、訴訟においても国、企業の責任が断罪された。あれか らほぼ40年が過ぎた。
  風評に苦しんだ神 通川の注ぐ富山湾は北陸を代表する海と漁港を取り戻し、富山は住みたい県の上位にランクされるまでになった。滑川、魚津の海を眺めながら黒部に向かう途 中、水俣神通川流域、四日市阿賀野川流域の公害は地域医療の担い手である地元大学、医師により告発されたことを思い浮かべる。70年代の日本は大学紛 争、公害、そして高度成長がぶつかり合った。地域医療の医師たちがたちあがり、あるものは大学紛争に合流した。私の社会部時代、京都大学の公衆衛生学教室 の学生は闘争に参加し、一方で後遺症に苦しむ森永粉ミルク(ヒ素混入)中毒の患者救済に取り組んでいた。学生たちから患者リストを取材、訪ねた記事を書い た。地域医療という言葉がこれほどわかりやすい時代はなかった。しかし、地域は興味本位になる若い新聞記者の目を許さなかった。
  黒部市内 にはいった。黒部といえばダムと山を連想するが、黒部海岸は富山湾きっての夕日の名所である。「黒部の太陽」が海に落ちる風景は海をオレンジに染め、振り 返れば立山連峰を赤く染める。富山湾は水深2000㍍深く、寒流と暖流が流れ込み、日本有数の漁場になっている。ブリ漁が終わり、この季節はホタルイカの 旬になる。ホタルイカは春に生まれ、翌春に産卵して1年で生命を閉じる短い命だ。
     * (NAVER より)
  漁そのものは産卵を終えて沖に戻るイカ目当ての網漁になるが、波止場と沿岸のホタルイカは漁業権はなく、誰もがタモ網ですくいとることが可能だ。私はあの口 にしてヌルットとくる味わいを好物にしているため、とれとれを生で食べく釣具店でタモを買い、主人から時間や方法を聞く。「生はやめたほうがいい。熱を通 さないと、寄生虫にやられる」と、注意を受けた。旋尾線虫という寄生虫が生だと体の中をあばれるそうだ。食べるなら専門の店を紹介された。内臓を取り除く か、氷点下30度以下で時間を置けば虫は死ぬという。
  この寄生虫の存在は70年代に秋田で発見されるが、症例は少なく、私も生で食べた記憶がある。5年前、新聞やTVで寄生虫の存在が指摘され、厚生省が生注意 のおふれを出していらい、小売店でおめにかかれなくなった。調査では寄生虫がいる率7%といわれ、食べれば虫が暴れ、苦しむわけではないが、話を聞くと、 腰がひける。森繁久彌がその昔、サバの刺身で病院に担ぎ込まれた記事を読んだことがある。とにかく寄生虫の痛みはすごいらしい。
  「身 投げ(海岸に打ち上げられる)は月のでない、波静かな夜がいい。今日はどうかな。ちょろちょろならみられるかも。観覧船も出ている」という。深夜まで車で 寝て待つしかない。生地(いくじ)から西へ戻り、神通川河口の滑川へ移動する。ここのホタルイカ富山湾のブランドであり、地元は鼻高い。兵庫などの他産 地と比較すると、丸みをおび肥えているというが、並べて比較したことがないので、あくまで地元説明の受け売りになる。
  ホタルイカは春になると沖合から次第に湾内に近づき、産卵して沖に戻るさい、命がつきる。兵庫は沖合いの網漁、富山湾は海岸近くの違いがあり、この距離の差 が大きさに関係するのかもしれないが、真偽のほどは定かでない。明治38年、ホタル研究の東京帝大教授渡瀬庄三郎がホタルの発光メカニズムにちなみ名づけ 親になった。渡瀬は米国に留学して生物学研究して帰国後、東京帝大で教鞭をとった。沖縄のハブ退治にマングースを持ち込み、学界で物議をかもした。日本哺 乳類学会初代会頭を務めた。
  発光器は一対の足の先に3個ずつあり、全体で千個にのぼり、普段は黒い点にみえるのが発光器である。外敵への威嚇から身を守るため発光するといわれ、海岸に 打ち寄せられると光を発している。産卵のため集まるホタルイカは当然ながらメス。オスは秋から冬に次世代の種をメスに託して命を終え、メスは半年、生を永 らえ、オスのあとを追う。新月の夜に身投げ説は、光り失い、方向がわからず打ち上げられるとの見方が通説になるが、深海生息のホタルイカが光を求めて動くことは疑問だ。
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  新月の夜に打ち寄せられ、青い光を発するホタルイカの生態はミステリーにつきる。ただ砂浜のホタルイカは砂をかみ、食用には向いていない。なにはともあれ、 新鮮なホタルイカをいただくことにした。どの食堂もホタルイカの看板をあげている。ホタルイカは値段も手ごろな旬の味なのがいい。
  ホタルイカ料理の定番はネギとの味噌和え。これはうまい。刺身もでてきた。内臓をとってある。店にすれば7%の確率であっても、虫のいどころが悪ければ、店をつぶしかねない。しかし、リスクを越えたプリプリ味は、旬そのものである。旬の味では私は最高ランクあげる。
  ホタルイカが姿を見せる夜までは時間がある。富山市内 に引き返して車を預け、いまや富山名物になったライトレール(低床路面電車)に乗った。富山のライトレールはヨーロッパの低床式を取り入れた日本における 先駆的試みで、11の賞を得て地方自治体が研究するきっかけになった。2004年導入して10年を経過、運営は軌道にのっている。「とれねこ」のマスコッ トキャラクターを採用して猫好きの人気になった。距離にして8キロの運行区間であるが、富山駅北から港までの沿線は市民の足にふさわしい。富山は自家用車 所有率全国2位の車県ながら、環境にやさしい鉄道は市民に溶け込んできた。窓は大きくのりここちは満点だ。
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  富山で忘れてならないのが売薬。富山は加賀前田藩の分藩10万石の城下で栄え、2代藩主利次の代になり、製薬販売の産業化に成功した。「越中反魂丹」は富山 の置き薬として現代に引き継がれている。16世紀から薬種商の存在が文献に出てくるが、江戸城で大名が腹痛をもよおし、富山藩主が持参の反魂丹を与え、回 復したことから評判を呼び、各地の大名に広がった。店舗販売でなく訪問販売して薬を置き、代金は後払い方式の「先用後利」の商いが全国展開の理由になった。
  売薬では奈良(陀羅尼助)、近江の(日野売薬)、佐賀の(唐人膏)などが知られるが、企業形態を整えた富山は他地域の追随を許さなかった。
  車に戻り、仮眠して夜の沿岸を走った。夜明け前の3時から4時がホタルイカの発光時間帯というが、網を手にした地元住民、観光客が海岸や埠頭にたむろしている。タモで掬うなら、港周辺か、海岸に足をつけて上がってくるホタルイカ待ちしかない。当方は、土産は別口にしたので、光りさえ見えるならばそれで十分で ある。午前4時すぎ、人の列が動いた。ついていくと、波うち際で青い光に出会った。パラパラのため、とても写真のような輝きにほど遠いが、ホタルイカの 「身投げ」に遭遇した。神秘の光を脳裡に刻み、夜明けの国道をとばした。
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  ☆メモ ホタルイカ観望船は滑川から深夜、出港している。沖合の定置網漁も見物できる。事前申し込み必要。乗船時間午前3時。船料5千円。電話076−475−0100。ホタルイカ料理は一品500円前後から。見物船券付の宿泊プランもある。 

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第121回 近江商人が開拓した北の小樽港と小林多喜二

  
  =一杯のコーヒーが若者をとりこにしたランプの町=

  小樽が観光地として注目されだした頃、季節は3月。町の通りの隅に雪が残っていた。80年代の後半、北海道観光が注目され、中でも小樽が学生の人気を集めていた。東京からの学生がまず立ち寄るのが北一3号館のカフェホールだった。旅担当記者の私は案内の小樽市職員から「ここのコーヒーが北海道旅行で一番の思い出という学生が多い」と、聞かされ、小樽運河沿いにある倉庫群のひとつ、3号館を訪れた。
                                     
  倉庫の周囲はランプで埋め尽くされ、古びたテーブルとイスの館内は、北欧の町にいる錯覚すら感じた。この北一3号館の成功は日本の観光、まちづくりにとって画期的な出来事であった。名所めぐりという江戸時代からの観光パターンを変えたといっていいだろう。
  いっぱいのコー ヒーが観光スタイルに転機をもたらしたと、私は思っている。残念ながら観光雑誌などでそのような指摘にはまだ出会ったことはないから、私の思い込みにすぎ ないかもしれないが、10年後にオープンした近江長浜の黒壁スクエアも北一3号館がヒントになっている。
  小樽は近江商人と関係の深い港町である。近江商人が拓いた港といっても過言でない。江戸初期の小樽はアイヌ民族が暮らしていた。オタルナイがアイヌ語の地 名(砂浜の中の川の意味)だった。近江商人は江戸初期、北海道に足場を築き、ニシン漁は莫大な富をもたらした。松前を拠点に各地で場所請負人としてニシン 漁を独占。小樽では恵比寿屋岡田家が場所請負人になり、道路づくりから港整備、北前船でニシンを上方へ運び、上方の衣料品などを持ちあがる小樽交易の先駆者である。
  明治維新以降は近江商人の下で働いていた船主の独立で松前藩とともに主役の座を降り、農業、鉱山に手を広げた結果、13代続いた岡田家は破産した。狙いはよ かったが、事業化するには期熟さず、あせりからいきづまり、後発の三井財閥系の名をなさしめた。司馬遼太郎の小説で有名な高田屋嘉兵衛近江商人の後の松 前藩にはいり、北方航路を開拓した。近江商人の場合、先住民のアイヌ人との衝突を繰り返して開拓した経緯から、高田屋嘉兵衛らに比べて評価は低い。司馬遼 太郎はどちらかといと近江商人を冷めた目で見ていたが、それは北海道開拓に見られるアイヌとの相克が根にあったのだろう。
  ロシア交易で外国船が入港した小樽はニシンの港から貿易港になり、札幌―小樽間の鉄道開通により、港に木骨石造倉庫が建設された。その数は300を超えた。 北一ホールもそのひとつである。国際貿易港の小樽には金融機関が進出し、北のウオール街とよばれるにぎわいは札幌をしのいだ。小樽は風が強く、火災に見舞 われた。このため、民家を含めて石造建築が多く、中を木柱で組み、外壁を凝灰岩のブロックを積んだ木骨石造は小樽の建築の特徴にもなった。
     
  80年代の小樽は運河再開発が論議を呼び、運河の幅半分を埋め立て、道路にする折衷で決着した。この再開発でオープンしたのが北一ガラス。ニシン漁のブイ製造 の会社がガラス器づくりに転換、その後のガラス工芸ブームをけん引していく。木骨石造倉庫とガラスの組み合わせはヒットした。私の訪ねた頃の小樽は、ガス 燈が灯り、ランプの照らす先にはガラス器が輝く町に装いを変えつつあった。
     
  小樽の坂道を歩く。JR小樽駅の 南は急な坂道になっている。高商通の名がつく道は地盤が軟弱で雨がふるとドロンコ道になり、地獄坂とも呼ばれていた。港を一望する丘の上に旧小樽高商(現 小樽商科大)がある。小樽高商では外国語教育が重視され、英、仏、露、独、の講座があり、図書館には欧米文学のめぼしい本がそろっていた。いまの経済学は 数値に重く置くあまり、原理原則はかなたに押しやられている。日銀のマイナス金利などこの典型である。銀行に預けた金で貸し付け、融資を受けた企業がもの をつくり、サービス対価で稼ぐ。その循環で金利がつくのが資本主義経済である。もはや経済は自由主義などとほど遠く「国家主義経済」に陥っている。
  一国の経済の重要政策を日銀の委員の多数決で、しかも1票差で決定していくことに異を唱えたマスコミもいない。これが世界経済の流れというなら、遅かれ早か れ現経済体制は崩壊するのは間違いない。大正から昭和の経済学は視野の広い学問であり、実利本位でなかった。1921年(大正10年)、伊藤整(英文学 者)が入学、図書館で読みたい本を借りにいくと、先約があり、小林多喜二(作家、著書に蟹工船など)が借主とわかった。伊藤整小林多喜二の名を知った始 まりは図書館というのが当時の高商ならではのエピソードである。多喜二は伊藤整の1年上にあたり、傾倒する志賀直哉を読み、映画、演劇、音楽に関心を持 ち、卒論はクポトキンの『パンの略取』を選んだ。伊藤整は自伝小説『若い詩人の肖像』で多喜二との交友を描いている。
  私は多喜二の小説を読んだことはなかった。プロタリア作家、蟹工船の作者ぐらいの知識しかなかった。旧高商建物を下り、小樽商業高前の道を左に行くと旭展望 台に着く。小林多喜二の文学碑がここに立っている。碑文に刻まれた多喜二の獄中からの手紙に胸を射抜かれる思いがして、しばし、動けなかった。
  ―冬が近くなるとぼくはなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている。そこは運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは人は重っ苦しい空の下をだれも が背をまげて歩いている。ぼくはどこを歩いていようがどの人も知っている。赤い断層を処々に見せている階段のようにせりあがっている街をぼくはどんなに愛 しているかわからないー
  この手紙の年の6月、満州事変が勃発、多喜二は治安維持法下で非合法の日本共産党に入党する。3年後の1933年3月20日(大正8)、釈放されて地下運動中の多喜二は東京築地署特高に逮捕され、拷問の末、死亡している。29歳の若さだった。
           
  小樽の町を見下ろす丘の上から多喜二の育った町と、町とのつながりをひとつひとつあてはめていく。秋田生まれの多喜二は4歳のとき、家族ともども小樽に移っ た。パン店を叔父の援助で小樽商業に進み、ここで大正デモクラシーの影響を受けた校風の下、校友会雑誌の編集や作文投稿など文章を書き始めた。さらに小樽 高商進学後は志賀直哉を読みふけった。卒業後は北海道拓殖銀行小樽支店に勤め、5年間の銀行勤めのかたわら地域の労働組合との結びつきを深め、『蟹工 船』、『不在地主』を執筆、発表し、プロレタリヤ作家の仲間入りした。プロレタリヤはラテン語源のローマ最下層の人々をさすドイツ語。小樽は貿易業者と金 融資本は富み、港の労働者との間に階層化が進んでいた。
  海岸線から山の手にかけての細長い町は入船町といって歓楽街になっていた。ここの「やまきや」で銀行員の多喜二は16歳の田口タキと出会った。タキは母、妹 らを養うため、店に売られていた。多喜二とタキは映画を見たり、喫茶店で会うなど客と酌婦の関係を離れてデイトを重ね、親密になっていく。
  JR小樽駅の東の線路南に花園町が広がっている。国道5号をはさんで山手は官公庁、海側は歓楽街になっていた。小樽の中心を形成し、かつてここにあった映画館「公園館」、「越治喫茶」がふたりのデイト場所になる。タキが行方を知らさず、小樽を離れた日、多喜二は泣きながら花園町を探し歩いた。
  多喜二はタキの借金を肩代わりして自由にし、結婚を申し込むが、タキは固辞した。ふたりの間の溝を埋めるには、時代はあまりにも過酷だった。タキは戦後、事業家と結婚、平穏な晩年を送り、夫には先立たれた後も101歳まで生き、2009年、亡くなった。
  作家の澤地久枝は著書『わが人生の案内人』(文春新書)でタキと手紙のやりとりを紹介している。取材を申し込む澤地にタキは断った。1980年の手紙にはこ う書かれていた。「とても昔の恋人の話を他人と平気で話すことはできない。私はろくに学校も出ず、なんの教養もないことを恥ずかしく、母も妹もいて小林と の結婚を断った。私はなにも持っていない。それを恥じて結婚を辞退した」
  上京した多喜二の後を追って暮らした東京でのわずかなふたりの生活、小樽の思い出をタキは、心にしまい、生涯を送った。
  運河の道を歩く。若者たちは小林多喜二、まして田口タキの存在すら知らないだろう。倉庫沿いの道も新しい。多喜二の就職した北海道拓殖銀行も姿を消した。戦 前、北海道の耕地面積の半分に抵当権を設定した日本一の不在地主も、バブル崩壊であっけなく破たんした。小樽運河は内陸を掘りこんだものでなく、港の沖を 埋め立ててつくったため、ゆるやかに湾曲している。沖合の船からはしけで物資を運び、倉庫にいれた。ふ頭整備で運河の役割は終え、いまでは小樽観光の名所 になった。幅40㍍は半分になり、散策路が延びているが、北部分(北運河)は昔のままの40㍍を残している。多喜二の未完成小説『転形期の人々』は当時の 運河のもようを印象深く描いている。
  ―運河の岸壁にはいろいろな記号を持った倉庫や保税倉庫が重い扉を開いて居り、えそこから直接に艀の上に荷物の積みおろしをしている。(以下略)そこでは荷 揚人足が何十人も一列に、「歩み板」をわたってあるいは米をあるいは雑穀をかついで倉庫の暗い出入り口を出入りしていた。大福やアンパンやラムネを箱の上 に並べた物売りの女が行きかえりの人夫たちにひやかされて、負けずに口をかえしているー
  この風景はもはやない。ただ北運河の西側に元日本郵船小樽支店の社屋があり、小樽市はこの一帯を文化遺産にしている。国際港小樽の輝きと、汗を流し、貧しくともやさしい笑いを絶やさなかった港の男たちが運河の水面に浮かんでは消えていく。国際化は、一部の富める層が手にし、多くの貧困層が取り残された。
  運河に若い男女が姿を映している。「だめなんだ。みんなが豊かにならなくてはいけない。そんな国にしなくてはいけない」。多喜二はこう熱っぽくタキに語りか けただろう。タキはおそらくまぶしいものを見るかのように多喜二を見たにちがいない。運河沿いの喫茶店のコーヒーは実に味わい深いものがある。
     
          *

第121回 近江商人が開拓した北の小樽港と小林多喜二

  
  =一杯のコーヒーが若者をとりこにしたランプの町=

  小樽が観光地として注目されだした頃、季節は3月。町の通りの隅に雪が残っていた。80年代の後半、北海道観光が注目され、中でも小樽が学生の人気を集めていた。東京からの学生がまず立ち寄るのが北一3号館のカフェホールだった。旅担当記者の私は案内の小樽市職員から「ここのコーヒーが北海道旅行で一番の思い出という学生が多い」と、聞かされ、小樽運河沿いにある倉庫群のひとつ、3号館を訪れた。
                                        
  倉庫の周囲はランプで埋め尽くされ、古びたテーブルとイスの館内は、北欧の町にいる錯覚すら感じた。この北一3号館の成功は日本の観光、まちづくりにとって画期的な出来事であった。名所めぐりという江戸時代からの観光パターンを変えたといっていいだろう。
  いっぱいのコー ヒーが観光スタイルに転機をもたらしたと、私は思っている。残念ながら観光雑誌などでそのような指摘にはまだ出会ったことはないから、私の思い込みにすぎ ないかもしれないが、10年後にオープンした近江長浜の黒壁スクエアも北一3号館がヒントになっている。
  小樽は近江商人と関係の深い港町である。近江商人が拓いた港といっても過言でない。江戸初期の小樽はアイヌ民族が暮らしていた。オタルナイがアイヌ語の地 名(砂浜の中の川の意味)だった。近江商人は江戸初期、北海道に足場を築き、ニシン漁は莫大な富をもたらした。松前を拠点に各地で場所請負人としてニシン 漁を独占。小樽では恵比寿屋岡田家が場所請負人になり、道路づくりから港整備、北前船でニシンを上方へ運び、上方の衣料品などを持ちあがる小樽交易の先駆 者である。
  明治維新以降は近江商人の下で働いていた船主の独立で松前藩とともに主役の座を降り、農業、鉱山に手を広げた結果、13代続いた岡田家は破産した。狙いはよ かったが、事業化するには期熟さず、あせりからいきづまり、後発の三井財閥系の名をなさしめた。司馬遼太郎の小説で有名な高田屋嘉兵衛近江商人の後の松 前藩にはいり、北方航路を開拓した。近江商人の場合、先住民のアイヌ人との衝突を繰り返して開拓した経緯から、高田屋嘉兵衛らに比べて評価は低い。司馬遼 太郎はどちらかといと近江商人を冷めた目で見ていたが、それは北海道開拓に見られるアイヌとの相克が根にあったのだろう。
  ロシア交易で外国船が入港した小樽はニシンの港から貿易港になり、札幌―小樽間の鉄道開通により、港に木骨石造倉庫が建設された。その数は300を超えた。 北一ホールもそのひとつである。国際貿易港の小樽には金融機関が進出し、北のウオール街とよばれるにぎわいは札幌をしのいだ。小樽は風が強く、火災に見舞 われた。このため、民家を含めて石造建築が多く、中を木柱で組み、外壁を凝灰岩のブロックを積んだ木骨石造は小樽の建築の特徴にもなった。
  80年代の小樽は運河再開発が論議を呼び、運河の幅半分を埋め立て、道路にする折衷で決着した。この再開発でオープンしたのが北一ガラス。ニシン漁のブイ製造 の会社がガラス器づくりに転換、その後のガラス工芸ブームをけん引していく。木骨石造倉庫とガラスの組み合わせはヒットした。私の訪ねた頃の小樽は、ガス 燈が灯り、ランプの照らす先にはガラス器が輝く町に装いを変えつつあった。
     
  小樽の坂道を歩く。JR小樽駅の 南は急な坂道になっている。高商通の名がつく道は地盤が軟弱で雨がふるとドロンコ道になり、地獄坂とも呼ばれていた。港を一望する丘の上に旧小樽高商(現 小樽商科大)がある。小樽高商では外国語教育が重視され、英、仏、露、独、の講座があり、図書館には欧米文学のめぼしい本がそろっていた。いまの経済学は 数値に重く置くあまり、原理原則はかなたに押しやられている。日銀のマイナス金利などこの典型である。銀行に預けた金で貸し付け、融資を受けた企業がもの をつくり、サービス対価で稼ぐ。その循環で金利がつくのが資本主義経済である。もはや経済は自由主義などとほど遠く「国家主義経済」に陥っている。
  一国の経済の重要政策を日銀の委員の多数決で、しかも1票差で決定していくことに異を唱えたマスコミもいない。これが世界経済の流れというなら、遅かれ早か れ現経済体制は崩壊するのは間違いない。大正から昭和の経済学は視野の広い学問であり、実利本位でなかった。1921年(大正10年)、伊藤整(英文学 者)が入学、図書館で読みたい本を借りにいくと、先約があり、小林多喜二(作家、著書に蟹工船など)が借主とわかった。伊藤整小林多喜二の名を知った始 まりは図書館というのが当時の高商ならではのエピソードである。多喜二は伊藤整の1年上にあたり、傾倒する志賀直哉を読み、映画、演劇、音楽に関心を持 ち、卒論はクポトキンの『パンの略取』を選んだ。伊藤整は自伝小説『若い詩人の肖像』で多喜二との交友を描いている。
  私は多喜二の小説を読んだことはなかった。プロタリア作家、蟹工船の作者ぐらいの知識しかなかった。旧高商建物を下り、小樽商業高前の道を左に行くと旭展望 台に着く。小林多喜二の文学碑がここに立っている。碑文に刻まれた多喜二の獄中からの手紙に胸を射抜かれる思いがして、しばし、動けなかった。
  ―冬が近くなるとぼくはなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている。そこは運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは人は重っ苦しい空の下をだれも が背をまげて歩いている。ぼくはどこを歩いていようがどの人も知っている。赤い断層を処々に見せている階段のようにせりあがっている街をぼくはどんなに愛 しているかわからないー
  この手紙の年の6月、満州事変が勃発、多喜二は治安維持法下で非合法の日本共産党に入党する。3年後の1933年3月20日(大正8)、釈放されて地下運動中の多喜二は東京築地署特高に逮捕され、拷問の末、死亡している。29歳の若さだった。
           
  小樽の町を見下ろす丘の上から多喜二の育った町と、町とのつながりをひとつひとつあてはめていく。秋田生まれの多喜二は4歳のとき、家族ともども小樽に移っ た。パン店を叔父の援助で小樽商業に進み、ここで大正デモクラシーの影響を受けた校風の下、校友会雑誌の編集や作文投稿など文章を書き始めた。さらに小樽 高商進学後は志賀直哉を読みふけった。卒業後は北海道拓殖銀行小樽支店に勤め、5年間の銀行勤めのかたわら地域の労働組合との結びつきを深め、『蟹工 船』、『不在地主』を執筆、発表し、プロレタリヤ作家の仲間入りした。プロレタリヤはラテン語源のローマ最下層の人々をさすドイツ語。小樽は貿易業者と金 融資本は富み、港の労働者との間に階層化が進んでいた。
  海岸線から山の手にかけての細長い町は入船町といって歓楽街になっていた。ここの「やまきや」で銀行員の多喜二は16歳の田口タキと出会った。タキは母、妹 らを養うため、店に売られていた。多喜二とタキは映画を見たり、喫茶店で会うなど客と酌婦の関係を離れてデイトを重ね、親密になっていく。
  JR小樽駅の東の線路南に花園町が広がっている。国道5号をはさんで山手は官公庁、海側は歓楽街になっていた。小樽の中心を形成し、かつてここにあった映画館「公園館」、「越治喫茶」がふたりのデイト場所になる。タキが行方を知らさず、小樽を離れた日、多喜二は泣きながら花園町を探し歩いた。
  多喜二はタキの借金を肩代わりして自由にし、結婚を申し込むが、タキは固辞した。ふたりの間の溝を埋めるには、時代はあまりにも過酷だった。タキは戦後、事業家と結婚、平穏な晩年を送り、夫には先立たれた後も101歳まで生き、2009年、亡くなった。
  作家の澤地久枝は著書『わが人生の案内人』(文春新書)でタキと手紙のやりとりを紹介している。取材を申し込む澤地にタキは断った。1980年の手紙にはこ う書かれていた。「とても昔の恋人の話を他人と平気で話すことはできない。私はろくに学校も出ず、なんの教養もないことを恥ずかしく、母も妹もいて小林と の結婚を断った。私はなにも持っていない。それを恥じて結婚を辞退した」
  上京した多喜二の後を追って暮らした東京でのわずかなふたりの生活、小樽の思い出をタキは、心にしまい、生涯を送った。
  運河の道を歩く。若者たちは小林多喜二、まして田口タキの存在すら知らないだろう。倉庫沿いの道も新しい。多喜二の就職した北海道拓殖銀行も姿を消した。戦 前、北海道の耕地面積の半分に抵当権を設定した日本一の不在地主も、バブル崩壊であっけなく破たんした。小樽運河は内陸を掘りこんだものでなく、港の沖を 埋め立ててつくったため、ゆるやかに湾曲している。沖合の船からはしけで物資を運び、倉庫にいれた。ふ頭整備で運河の役割は終え、いまでは小樽観光の名所 になった。幅40㍍は半分になり、散策路が延びているが、北部分(北運河)は昔のままの40㍍を残している。多喜二の未完成小説『転形期の人々』は当時の 運河のもようを印象深く描いている。
  ―運河の岸壁にはいろいろな記号を持った倉庫や保税倉庫が重い扉を開いて居り、えそこから直接に艀の上に荷物の積みおろしをしている。(以下略)そこでは荷 揚人足が何十人も一列に、「歩み板」をわたってあるいは米をあるいは雑穀をかついで倉庫の暗い出入り口を出入りしていた。大福やアンパンやラムネを箱の上 に並べた物売りの女が行きかえりの人夫たちにひやかされて、負けずに口をかえしているー
  この風景はもはやない。ただ北運河の西側に元日本郵船小樽支店の社屋があり、小樽市はこの一帯を文化遺産にしている。国際港小樽の輝きと、汗を流し、貧しくともやさしい笑いを絶やさなかった港の男たちが運河の水面に浮かんでは消えていく。国際化は、一部の富める層が手にし、多くの貧困層が取り残された。
  運河に若い男女が姿を映している。「だめなんだ。みんなが豊かにならなくてはいけない。そんな国にしなくてはいけない」。多喜二はこう熱っぽくタキに語りか けただろう。タキはおそらくまぶしいものを見るかのように多喜二を見たにちがいない。運河沿いの喫茶店のコーヒーは実に味わい深いものがある。
     
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第120回 吾輩は猫でない、猫である 

  〜「CATSはどこからきたのか」没後3年小太郎が雲でゆく〜

  ありし日の小太郎

     
 在りし日の小太郎

  吾輩が実家を後に して黄泉の国へ旅たち早や3年になる。空から見る家に変わりはない。ベテイ、ボンの姉、弟の2匹は天気がいいと、庭で遊んでいる。ベテイは13歳の人間で いえば70歳に近い老女であるが、美貌は衰えていない。ナンパの近所の野良がいまだに通っている。かつての主人である旦那(吾輩の使う呼称)は、何思った のか昨秋からスズメに餌をまき、ママから「大群になったらどうするの」と、いやみいわれつつ、やめる気配はない。この頃は猫がいてもスズメが逃げないから 庭になじんできたのだろう。吾輩は焼き鳥にする腹ではないか、と、注意してみているが、昔、空気銃やパチンコで追い回したおわびの意味があるようだ。お気 に入りの歌、早春賦を口ずさみ、餌やりに余念がない。
  吾輩は近頃、歴史 に興味を持っている。雲に乗り、どこへでも行ける身軽さと、さまざまな時代を潜り抜ける空間住まいから、日本猫のルーツを求めて旅に出た。ただ、むやみや たらに行けば、いいものでもない。古典など文献が吾輩の旅のガイドブックである。旦那の本を盗み読みしていたことが役にたっている。 
  日本の猫歴史の前 に、我々はどこからきたのか。この疑問に答える研究が10年前、アメリカで発表された。アメリカのすごさはこんなところにもある。アメリメリーランド州 ベセスダにある国立ガン研に飛んだ。ワシントンDCから50キロ。ここは年間5000億円の予算をつかい、6000人が働いている。2007年、キャット ゲノム研究チームが3大陸のヤマネコ5種と日米英などのイエネコ979匹のDNAを分析した結果を公表、世界の人と猫を驚かした。その内容は猫の先祖は中 近東に生息するリビアヤマネコというのだ。これまでの研究ではヨーロッパヤマネコ先祖説もあったが、リビアもヨーロッパもDNAでは違いがないことがわ かった。
  吾輩も砂好きで、 砂の上でごろごろしたものであるが、やはりという思いがする。砂漠の民の血が流れている。トイレの砂かけの習慣もこれで納得がいく。砂漠は清潔なのだ。エ ジプトでは吾輩らは神のつかいとして敬われ、発掘の墓からは人の骨のそばに猫の骨がみつかっている。穀物を荒らすネズミ退治がわれらの役割であったが、大 航海時代、船底の食料を食い荒らすネズミ対策のため、乗船して世界の海をわたり、各地にすみつく。
  さて日本である。 これは旦那の受け売りながら、文献に猫が登場するのは平安時代から。ただ奈良時代には猫がいたらしく、説話集の『日本霊異記』の一節に飛鳥時代に猫の存在 をうかがわせる記述が残っている。705年(慶雲2)、豊前国の膳原廣国なる男が「我正月一日狸となり、汝が家にはいる」とあり、この狸には「禰子」(ね こ)の注釈がついていて当て字のようだ。しかし、平安朝以前にはなぜか「猫」の言葉は登場していない。
  奈良時代の猫につ いて書いた文献は、ずっと後の江戸時代になってからだ。戯作者田宮仲宣が随筆『愚雑俎』で「大船はネズミあるものなり。往古仏教経典の船乗せし時、猫を乗 せた」と、あり、経典をかじるネズミ対策に猫が動員され、海を渡ったことを説明している。仏教伝来から平安期まで300年もの間、この国は吾輩らの先祖を 歴史に登場させなかった。
  当時の日本人は猫に偏見をもっていたのか、まさしく謎である。古代史研究者もまったく触れることすらしていない。エジプト王朝は吾輩らを崇敬し、像まで彫っているのに。
  ところが平安時代 になって、吾輩らの姿が文献にお目見えし始めた。そこで京都上空へ場所を移した。京都御所はいまの御所より西よりにあった。JR山陰線沿いの千本通が禁裏 への道、朱雀大路跡。空から見ると、羅城門、東寺から北の直線、千本丸太町界隈が旧御所の位置になる。二条城の西北にあたり、北に「四神相応」の玄武、船岡山が森をつくっている。空からの眺めは、確かにこの縦軸が都のセンターラインで、西山、東山とも均衡がとれている。現在の京都は当初より左寄りのつくりになっている。
  『日本後紀』によ れば内裏の西は深い森で狐などが徘徊したというが、狐は吾輩らの天敵に等しく、うっかり森にはいることもできなかっただろう。平安期、吾輩らの先祖はすで に御所住まいをしていた。実に雅な暮らしである。桓武天皇から数えて10代目、宇多天皇が日記を残している。その中に光孝天皇の黒猫を息子の宇多天皇が譲 り受けた話がでてくる。これが正史の猫記述の初見になる。つまり、天皇のペットになるほどだから宮中にはかなりの猫がいたに違いない。

  平安時代は猫の時代

  藤原氏が権力を握った摂関政治の平安中期、花山天皇が歌に猫を詠んだ。猫が宮中の中枢にいたことを伝える歌だ。
  『敷島の大和にはあらぬ唐猫の君がためにもとめ出たる』
  一条天皇中宮定子の女房(女官)の清少納言枕草子で、爵位をもらい、貴族待遇の黒猫「命婦おとど」について逸話を書いている。
  おとど一条天皇の大の気に入りで乳母までついていた。ある日、宮中の縁先でおとどが昼寝していたところ、この乳母がはしたないといって呼んだが、おとどの 返事はなし。そこで乳母は翁丸という犬をけしかけて、おとどを驚かした。おとど天皇の下へ逃げ、天皇が乳母に事情を聞き、犬と乳母が処分された。犬はや がて、都に舞い戻り、御所の前に姿を見せ、警護番に叩かれ、死ぬが、結局、宮中の同情をかい、以前の生活に戻ったという話だ。だいたい、おとどは貴族の身 でありながら、縁先で昼寝などはしたない。この時代の高貴な方は姿をめったにさらさないものだ。追放された乳母にすれば、しつけのつもりが裏目に出た。天 皇のふところにはいったおとどは、ごろごろと、甘えたのだろう。
  清少納言は猫の記述が多い。耳の穴がどうとか、「猫はうえのかぎりは黒くてことはみな白き」をよしとしている。背中が黒で腹が白い猫 だ。そういえばベテイをナンパしにきたノラ(野良)も頭が黒いのを自慢していた。いわゆるブチと呼ばれる猫である。ブチは雑種の中の雑種の交わりで生まれ た毛柄。だからたくましい。ペットショップでは最低ランクの種類になるが、清少納言のお気に入りだ。清少納言のセンスはやはり一流である。 

  清少納言のほめたぶち猫

  ベテイに聞いたことがある。「あんなブチのどこがいい」と、ベテイ答えて曰く「とてもシンプル」。吾輩は外面で判断していけないと、なんども注意したが、女 はいくつになっても外面に騙される。平安期は女流文学が花開いた時代。清少納言のライバル、紫式部は「若菜上」で柏木と源氏の正室女三の宮の運命の出会いを猫で演出する。吾輩は旦那の受け売りの影響からか、式部のとりすました感が鼻につき、好きになれないが、このくだりはさすがと思う。
  皇女三の宮をあきらめられない柏木は蹴鞠に参加するふりして三宮の住まいに近づき、ようすをうかがっていると、ひもつきの猫が飛び出してきた。
  「唐猫のいと小さくおかしげなるを、すこし大きな猫追ひつづけてにわかに御簾のつまより走りでるに」
柏 木が猫を抱き上げると「いとかうばしくてうたげにうちなくもなく」と描いている。つまり、猫は三宮の匂いがしてメロメロになる。猫の匂いをかぎ、三宮をし のぶ男の切ない心情とわいせつな心を見事に表現している。旦那も吾輩にあのくだりはいい、と、誰かの匂いを連想していた。かねがねベテイはハリウッド女優 のエリザベステーラに似ていると、吹聴しているが、さしずめベテイの香りに女優の豊満な肉体を思い浮かべていたのだろう。

  ひも付きで宮中に飼った

  鎌倉時代から戦国時代にかけて猫は影がうすい。あの兼好法師は「奥山に猫又といふものありて、人をくらふという」と書き、ひとりの僧がこの化け物猫又に食べ られそうになり、気がつくと、飼っていた犬が飛びついたのを勘違いしたと分かったと結んでいる。さすが兼好さんである。ひとの噂なんてそんなものと、クー ルだ。
  この猫又は江戸時代の各地に残る化け猫伝説に受け継がれ、怪猫をつくりあげた。行燈の油をなめる猫、夜光る眼など温厚と野性が同居する姿が人間に恐れられた。行燈の油は魚油を使っていたから、猫がなめるのに不思議はない。不当ないいがかりだ。
  有名な話は鍋島化け猫騒動である。肥前佐賀藩の前藩主龍造寺一族と、豊臣・徳川時代になって藩主に就いた義弟の鍋島家との怨念に猫がからむ、復讐劇と化け猫退治の歌舞伎演目。長崎本線佐賀駅から長崎寄りの白石駅。 駅から歩いて農業高校そばに秀林寺がある。ここの猫塚が化け猫騒動の死骸を埋めた跡といわれている。鍋島藩主勝茂が重臣龍造寺又一郎と囲碁を打っていたと ころ、いさかいになり、勝茂が切り殺してしまった。又一郎はかつての藩主の家柄。飼い猫の知らせで又一郎の母は藩主をうらみ、自害する。飼い猫が血をな め、かたき討ち、これを迎え撃った家来や藩主一族に災いが起こるという後日談から供養して、霊をなぐさめた。
  お家騒動に担ぎ出された猫も気の毒であるが、猫は薄情といわれても主人思いは犬の比ではない。吾輩などいまだに旦那とママをしのび、家を守っている。隣の久 留米藩でもお家騒動に化け猫を登場させ、藩主の奇行を隠蔽する材料に猫を利用している。九州は大陸との交流拠点。多くの猫が日本の土を踏んだ。佐賀とい い、久留米といい、飼い主は情が深く、これが後世の化け猫話に発展したと、吾輩は解釈している。
  化け猫に対して招き猫も江戸時代の生まれである。農家の養蚕の蚕を食べるネズミ退治に猫が活躍して大事にされ、守り神になった。この風習が田舎から江戸の町まで広がった。 東京台東区今 戸の今戸神社。生活の苦しい老婆の夢枕に猫が現れ、「わが姿を人形にしたら福徳あり」と告げた。老婆は猫の形の今川焼を売り出し、評判をとった話。招き猫 の定番の小判を持った猫の話は江戸両替町の大店に出入りの魚屋に店の猫がなつき、魚をもらうなどかわいがられた。この魚屋が病気になり、苦しんでいると誰 かが小判を置いていった。回復した魚屋がくだんの両替商に行くと、猫はいなくなり、店の小判がなくなっていたという。
  猫の恩返しと呼ばれる逸話は落語の素材になり、猫神社もできてゆく。吾輩らは義理も猫情も強いことを江戸つ子に教えた。犬が小判おいていった話は聞いてこと がない。平安朝が猫文学なら江戸は浮世絵である。江戸と平安朝、似て非なる時代であるが、吾輩らが活躍するのだから、いい時代であった。浮世絵師の歌川国 芳は無類の猫好きだった。家に20匹の猫を飼い、猫を画材にして描いた。あの鶏を描いた伊藤若冲とともに奇想の画家と、学者がほめている。国芳は猫の仏 壇、戒名をそろえ、猫の姿を面白く、楽しく描いた。吾輩が見ても笑ってしまうぐらいだから、ノリのいい江戸っ子の人気を集めた。

  浮世絵師「歌川国芳」の猫絵

  最後は吾輩ら仲間で最も遠くへ旅して戻ってきたタケシにふれないわけにはいかない。南極探検の越冬隊に同行してあの極地で1年過ごした。犬のタロ、ジロの影 になり、知る人も少ないが、吾輩らは南極で遠くを見つめるタケシの写真に感動した。タケシは三毛猫のオス。3千分の1、3万分の1の確率で出てくる希少価 値の毛柄は縁起がいいと、珍重され、南極航海の無事を祈り、隊員に加わった。隊員と無事帰国して、隊員の家に引き取られたが、1週間後にどこかに行ってし まった。タケシは思い浮かべた。南極の広大な氷原、ペンギン、タロウ、ジロウもいる。狭い日本でやっていられない。タケシは野生の血を呼び起こし、旅に出 た。そうだ南極に行こう。

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第119回 江戸の奇想の画家・若冲を歩く

  日本画の因習を破ったユルキャラの元祖〜

  10年前、2006年のことである。東京国立博物館は長蛇の列が続いた。「若冲と江戸絵画展」の入場者は主催者も驚く1日6500人に達した。英国の美術専門誌は一日の入場者として世界NO1 の展覧会と紹介した。今年は若冲生誕300年を迎え、全国の美術館は関連イベントを組んでいる。いまや最も人気のある江戸の画家である。狩野派尾形光琳琳派の伝統絵画の殻を破り、絵の構成、筆のタッチなど写実と想像の世界を組み合わせた奇想の画家の評価を受け、フアンは若者から高齢者まで幅広い。特に 描かれた動物は戯画風でユーモアがあり、ユルキャラの元祖とまでいわれている。
  京都の台所、錦通りの入口に動物絵のバナーがかかっている。若冲は錦の青果卸商「桝源」の長男として正徳6年(1716)2月8日に生まれた。時代は徳川吉 宗が8代将軍に座り、享保の改革を始める転換期。「桝源」は生業のほかに地代、家賃の不動産収入もあり、錦小路の大店だった。若冲は父の死にともない23 歳で4代目伊藤源左衛門を継ぐ。商家の主人としての仕事の傍ら趣味の絵画の世界に身をおいた2足わらじは、弟子入りして学んだ当時の画壇にあって異色の経 歴である。
          
  錦小路商店街は「若冲」をまちづくりに取り込み、バナーやモニュメントを商店街に飾っている。生鮮品の町に絵画のモニュメントはいかにも京都らしい。文化を 商いに活用している。若冲は趣味として狩野派の絵師から絵画を学び、あとは独学で宋元画の模写を繰り返したあと、真似の限界を知り、動物や植物を描いた。対象を昆虫、魚まで広げ、独特の画風を確立してゆく。錦の家の窓下に数十羽の鶏を飼い、何年も写生に費やした。若冲の作品で制作時期がわかるもっともはやい作品は『松樹番鶏図』で、[壬申春正月]の書き込みから若冲37歳の作になる。壬申は宝暦2年(1752)にあたり、この作品を基準に研究者は制作年を想 定し、ぶどう、いんげん豆、とうもろこしなどを初期作品にしている。
  錦の青果商ならではの作品は「野菜涅槃図」。釈迦の入滅のようすを描いた涅槃図になぞらえて野菜や果物を配置したユニークな絵画は若冲の独壇場である。若冲 は一時、錦の世話役年寄を任され、奉行所との折衝にあたっている。任期中に五条問屋街のよこやりで錦閉鎖の沙汰がくだり、農家、商店を含めて閉鎖撤回の運 動を展開した社会派の一面を持ち合わせている。
          
  40歳で家業を弟に譲り、画業に専念して独立不羇の画風に磨きがかかった。48歳の時、売茶翁・高遊外の知己を得て数少ない肖像画を描いている。高遊外は佐賀に生まれ、13歳で宇治の黄檗宗萬福寺で修行、22歳の時、東北各地を遊歴し、61歳で茶店を開き、81歳まで自ら煎茶の道具を担いで京の町なかを歩いて 茶をふるまっていた。若冲は高遊外の人生感に心打たれ、尊敬していた。千利休の茶道でなく形式にこだわらない茶の味わいこそが遊外の茶の世界であった。こ れは狩野派尾形光琳らの絵画流派に属せず、独自の絵画の世界を目指した若冲にとって、遊外の生き方は画の道にも通じるものがあったのだろう。
  遊外は若冲の『動植綵 絵』全30幅を見て感嘆し、交遊を深めた。遊外は「丹青活手妙通神」の賛辞を贈り、心にしみいる絵画と評している。若冲は遊外の辞を印に刻んで愛用してい た。晩年、水墨画の画料にわずかの米をもらい斗米翁と称していたのも売茶翁の姿を自らに重ねていたからだ。『動植綵絵』は動物、植物を写実と想像で描いた 若冲の傑作で、相国寺に納められると、当時から評判を呼び、年一度の観音懺法会には絵を見たさの参拝者が列をつくったという。しかし、明治維新廃仏毀釈により相国寺が困窮し、皇室に献上されたのちは皇室行事や外国の賓客の接遇のさい、飾られてきた。宮内庁病院の医師で若冲画を研究の赤須孝之医師は若冲を 美の巨人、知の巨人と呼び、先見性からレオナルド・ダ・ヴィンチに比肩した。
  赤坂医師は若冲が京で興隆しつつあった博物学に接し、かつ禅宗に帰依していたことを作風の背景にあげているが、一度、若冲に遭遇すればフアンになる絵の真髄 は因襲を破った手法にあるというのが研究者の一致した見解である。現代の若者たちが若冲の画を前にしてため息でなく、歓声をあげるほど斬新で、ユーモアー に富んでいる。若者はアニメやユルキャラを見る目で若冲画に接し、絵画展にない笑いの渦をつくった。
          
  私が若冲に遭ったのは四国・金毘羅宮取材の奥書院の間「花丸図」である。200点余の花が上下左右に整然と並び、モダンで幾何学的、図鑑的な構成に見とれて しまった。まさにこれが江戸の画家と、目を疑った。京都国立博物館所蔵の『百犬図』は毛のもようが異なる子犬を描いているが、図鑑の面白みと、アニメを見 る楽しさがある。この絵が85歳の作品と聞いて、驚かない人はいないだろう。
  当時の京でも若冲の画はすでに人気を集め、人気物ランキングの平安人物誌の画家部門で円山応挙に次ぐ2位を占めていたが、明治以降、画壇から忘れられた存在になり、好事家の鑑賞にとどまっていた。江戸時代の大衆的人気は影をひそめている。江戸時代の京町衆の美的センスは、現代人をはるかにしのいでいた。スポ ンサー好みの画風よりも、絵の好きな住民たちが求める多彩な絵画を生みだした。
  若冲の再評価は大正15年(1926)、美術史専門の元東京帝室博物館学芸課長秋山光夫が『動植綵絵』の展覧会を開催したのが、一般を対象にした最初の展覧会になった。若冲に大正の残光あたるも、軍国主義の世は、再び影をさし、戦後まで若冲が話題になることもなかった。
  1953 年(昭和28年)ニュヨーク。パイプラインの接続技術で財を成した実業家を父に持つ青年が帝国ホテルの設計などで著名な建築家フランク・ロイド・ライトの案内でマデイソン街のある店を訪ねていた。ジョー・D・プライス24歳。東洋美術の店に掛け軸が下がっていた。作品名も作者も聞かないまま、青年は即刻、 買い求めた。ベンツ車を買うため、ホテルに置いてきた金を取りに行くほどの衝動買いである。
  美術品などの世界では出会いがすべてというが、手持ちがなく、あるいは価格でためらい、後日、買い求めると、すでに売られていた例は多い。これが世界的有名 な若冲プライスコレクションの始まりになった。東洋美術に関心もなかった青年の心をとらえた若冲画は後に京都で妻となる日本人女性との出会いをつくった。
  当時の金で600ドルというから現在の円価値に直せばン百万円になるだろうか。しかし、いまでは億の値がつく若冲画からは想像もつかない掘り出したものになる。投機目当ての美術品は失敗することはバブル破綻で多くの日本人が経験したから、出会いの大切さを教えるエピソードだ。5年後、知人の持つ若冲大正展覧 会図録を見たプライスは画に魅せられ、くだんの店で若冲画を注文したところ、あなたはすでに持っているではないか、と、いわれこの前買った画が若冲の『葡 萄図』と初めて知った。
          
  父親の会社を手伝っていた青年はビジネスに疲れ、ヨットで旅に出かけ、日本に3カ月滞在した。京都での通訳が後の悦子夫人。鳥取から京へ出て、体をこわし大学休学中の悦子は友人から頼まれ、「変な外人」の通訳を引き受けた。東京オリンピックで再会した二人は結婚する。悦子夫人の協力でコレクションは京の細見美術館と並ぶ若冲コレクションになった。宮内庁京都御所で行う秋の曝涼(書画の虫干し)に招かれたプライスは若冲の『動植綵画』を食い入るように見つ め、涙した逸話が残っている。
  日本人美術家の間でも若冲が話題になっていく。東京オリンピック後の大学紛争時代である。辻維雄東大教授(美術史、現名誉教授、ミホミュージアム館長)が若冲長沢芦雪歌川国芳ら6人の江戸の画家を『奇想の系譜』にまとめてとりあげた。因襲の殻を破った画家たちの再評価は評判を呼んだ。舞台でいえば脇役に甘んじる評価を受けていた画家を主役にした本は、美術界の因襲を打破する試みだった。学生たちが世直しを叫び、ぶつかっていった風潮と、無縁ではない。
  2000年、京都国立博物館で開催の「没後200年 若冲」は会期後半から入館者が急増し、列をつくった。新聞社に関係ないため、宣伝もなく、マスコミは若冲に無関心だった。これが若冲にたいする当時の世間の目である。ところが後半から入館者の列ができていく。しかも日本画と縁の薄い若者の姿が目立った。新聞が紹 介しない展覧会はインターネットで広がり、たちまち若冲ブームを起こした。さらに2006年、日本経済新聞社主催でプライスコレクションの「若冲と江戸絵 画展」が東京国立博物館で開かれ、爆発的な人気を集め、入場を待つ列が延々と続いた。新聞雑誌の既成メデイアの殻を突き抜け、口コミとインターネットで存 在を明らかにした若冲絵画。まさしく奇想の展覧会を催したことになる。
  京都伏見区深 草の黄檗宗石峰寺(せきほうじ)。伏見稲荷大社の南にある寺はゆるやかな坂をのぼり、寺の門前から振り返れば京都駅、東寺が遠望できる。深草は淀川水運の 交通の要衝にあたり、大阪と京を行きかう人でにぎわった。若冲を訪ねた文人、画人も多かったにちがいない。本堂南に若冲の墓があり、毎年9月10日には若 冲忌の法要が営まれる。若冲はここを晩年の住まいにし、庵で85歳の生涯を閉じた。土葬され、法名は「米斗翁若冲居士」。遺髪が菩提寺の宝蔵寺と相国寺に 埋められた。
          
  石峰寺境内には500体余の石仏が表情豊かに並んでいる。若冲は10年がかりで描いた下絵像を石工に彫らせ、その数は千をゆうに越えたというが、かなりの石仏が流出している。
  若冲の暮らした庵の跡地に立って若冲をしのぶ。錦生家も幕末に廃業している。85歳といえば、昔なら超のつく長寿である。同い年の与謝蕪村若冲より17年 前、世を去っている。現在の景色から若冲の毎日見た風景をたぐり寄せるのは遠すぎて無理がある。しかし、木漏れ日が陰影をつくる石仏の顔はまぎれもなく若 冲の心を刻んでいる。

          
  【メモ 2016年の若冲
  生誕300年の本年は記念展が各地で予定されている。昨年から継続しているのは東京渋谷広尾の山種美術館の「ゆかいな若冲めでたい大観展」。1月3日から4月10日まで開催。若冲の「ふぐと蛙の相撲」が笑いを誘う。
  本年の美術界の話題を独占しそうなのが4月22日から5月24日まで東京上野の都美術館の「若冲展」。 若冲の代表作をそろえ、若冲展の決定版の前評判が高い。宮内庁所蔵のため、展覧が限られていた代表作「動植綵絵」30幅すべてが展示されるのが話題。群鶏 図など動物、植物が克明に、大胆に描かれている。会期が1カ月と短く、主催者側は混雑を予想して対策を練っているが、主催する側も鑑賞する側も頭が痛い。
  静岡県立美術館は「東西の絶景」のタイトルで若冲・大観、モネ・ゴーギャンの作品を並べる東西の巨匠の対決。4月12日から6月19日まで。企画の面白さもさることながら、モネ、ゴーギャンと比肩する若冲作品は楽しみ。
  若冲コレクションで定評のある京都岡崎の細見美術館は6月25日から9月4日まで「伊藤若冲」開催。

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