2016-12-09 第130回 日米開戦から75年の京都哲学の道


〜日本はどこへ行くのか、晩秋深まる〜

     

  名残りの紅葉になった京都「哲学の道」を歩いている。この道が通称から正式名になったのは私が京都新聞社に入社して間もない社会部時代のいわゆる「町廻り」のころであ る。サツ廻りが事件取材なら町廻りは町ダネを拾って歩いた。地元保勝会が保存運動に取り組み、道の整備と合わせた正式名を付けたころを取材した。

  琵琶湖疎水の管理道路が始まりの明治の道である。三高、京都帝国大学の開校により、熊野若王子神社銀閣寺橋2キロの道沿いは文人や学者が移り住んだ。

  哲学者西田幾多郎田辺元が好んで散策して歩き、「哲学の小逕」と呼ばれるようになった。一揆の研究で知られる黒正巌(元京大教授、初代大阪経済大学長)が ドイツ留学時代のハイデルベルクのフイロゾーフエン・ウエヒ(哲学者の道)を思い出して付けたというが、西田門下生の京都学派が歩き、議論したことも哲学 の道由来になる。

     

  今年は日米開戦から75年の12月。アメリカはトランプ旋風で揺れている。紅葉の京都岡崎から哲学の道を歩きながら、日本はあの時、どこへ行こうとしていたのか、それが頭をよぎった。

  真珠湾開戦の13日前、11月26日、京都学派の高山岩男(哲学)、高坂正顯(哲学)、鈴木成高(西洋中世史)、西谷啓治宗教哲学)の4人による重要な座 談会が中央公論社により開かれていた。テーマは「世界史的立場と日本」。西洋史の鈴木をのぞく3人は哲学専門。歴史哲学を論じ、西洋に対する大東亜圏構築 に話は進んでいく。

  西田哲学を継承した京都学派は、西洋中心の世界がほころび、真の意味での世界一体の時代が訪れ、その中心になるのが日本という歴史認識と進むべき方向を共有 していた。 日本には明治以降、西洋イコール近代の認識があり、西田哲学には反西洋、反近代の構図が内在していた。近代の超克とは鈴木成高が政治において はデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克、思想では自由主義の超克と定義した。しかし、よく考えればその先にあるのは戦争による解決し かなかった。

  開戦後、掲載された座談会は評判を呼び、太平洋戦争の思想的バックボ−ンになり、戦意鼓舞の役割を果たした。

  西田は当時、京都 大学病院に入院中で、見舞いに訪れた門下生が帰路で開戦号外を読み、病院に戻り、報告している。この座談会の半年後に文芸春秋社雑誌「文学界」メンバー河 上徹太郎、亀井勝一郎小林秀雄ら中心の「近代の超克」座談会が企画され、学者、文化人(評論家、作家、詩人、作曲家)、映画記者らが政治、文化、経済の 多分野にわたって西洋対日本を論じた。しかし、座談会は散漫になり、文春、中央公論の両方に参加した鈴木、西谷の京都学派は内容に不満を漏らしている。

  京都学派と海軍の 結びつきは西田哲学会の大橋良介前会長(元大阪大教授)が指摘しているが、それによると、陸軍の専横をいかにくいとめ、戦争を軟着陸させる道をさぐるべく 秘密会に参加していたという。その彼らが13日後の海軍の真珠湾爆撃を知らされてないにしても、迫りくる戦争の緊張は感じていただろう。

  日本をとりまく政治経済はいきづまり、腐敗した官僚への批判がうずまいていた。内外の課題を打開する道が大東亜共栄圏の構築である。開戦時の国力差はけたち がいでアメリカが上。英首相チャーチル真珠湾奇襲を聞いて「これでドイツに勝った。日本は粉砕される」と、手をたたいた。無謀な戦争突入というほかはな い。にもかかわらず、日本は総力戦にかけた。一高から京大に入学して西田哲学を学んだ三木清は開戦の興奮を抑えきれずに中央公論巻頭に総力戦への備えをよ びかけている。

  アジアがひとつになって、アメリカに対抗する大東亜構想は、近代の超克と一体の「世界史的立場」だった。京都学派のこの歴史認識は日本がアジアの上に立つ戦 争に利用され、戦後、痛烈な批判をうけ、京都学派は解体された。大東亜構想を鼓舞した三木清はあろうことか軍部ににらまれ、獄死している。評論家の加藤周 一は日本浪漫派が戦争を感情的に肯定し、京都学派は論理的に肯定する方法を編み出したと、厳しかった。

  京都学派が受けたダメージは、はかりしれないものがあった。

  評論家の竹内好は戦後14年経た1959年(昭和34)、60年安保の前年にこれまでタブー視されてきた大東亜戦争分析を発表した。忘れられていた「近代の 超克」をジャーナリズムの世界に引きずり出した。明治以降の「脱亜入欧」の矛盾が中国侵略、大東亜戦争を引き起こし、敗戦の現在も思想的課題になっている と、論文に書いた。

  東洋・日本対西洋の考察であった。中国文学者であり、魯迅の研究など中国との関係の深い竹内は戦争中から戦後、一貫して戦争を肯定してきた。竹内の提起した 東京裁判批判は、京都学派の歴史認識に近い。戦争責任をあいまいにする竹内の指摘には多くの反論、批判が寄せられるが、支持も受け、皮肉なことに戦後の右 寄りの思想潮流に組み込まれていく。

  哲学の道の紅葉は終わりを告げ、冬の準備にはいっている。名残りの紅葉が色あざやかに迎えている。記憶にある昔の道は疎水沿いの人通りのない道であったが、 いまや道筋は装いを施し、紅葉と競い合っている。哲学の道の由緒を記す掲示板が立てられ、歴史の道の趣がある。道のなかほど、法然院にのぼる石段があっ た。法然ゆかりの寺には谷崎潤一郎はじめ知名人の墓が多い。私と同年代の共同通信の石山幸基記者の墓もここにある。石山記者とは京都支局勤務の頃、私の同 僚が解雇され、撤回のビラを一緒に街頭でまくなど議論を交わした。京都から外信部に異動し、プノンペン支局に勤務のさい、クメール・ルージュ取材で消息を 絶ち、死亡が確認された。京都べ兵連を創設した哲学者橋本峰雄前管主の知己を得て、ここで眠っている。

  法然院から哲学の道にもどると、西田幾多郎の石碑がある。西田は終戦の直前、昭和20年6月、鎌倉で死亡した。西田は西洋哲学と仏教思想を融合した独創的な 哲学体系を生み出し、「善の研究」は旧制高校生の愛読書になった。「善の研究」という本の題は、奇異な感じがするが、西田は「純粋経験と実在」で出版を考 えていた。出版社の反対で誰もが入りやすい構えにしたが、中味は奥深い難解な哲学に変わりはなかった。

  石碑には「人は人、吾はわれ也、とにかく吾が道を吾は行くなり」と刻まれている。

     

  解体された京都学派は歴史、哲学を離れた人文研究所の貝塚茂樹桑原武夫今西錦司、梅棹忠雄らにより再編成され、第二次京都学派と呼ばれるようになった。マスコミは湯川秀樹に代表される理学部系も含めて京都学派の冠をかぶせるが、明確な基準はなく、幅広くなっている。

    哲学の道に猫が 増えた。閉鎖の喫茶店が住まいらしいが、人になれ、観光客の相手もしている。3年前、死んだ我が家の猫小太郎は、丹波哲郎ばりの容貌で空(くう)をにら み、その反面、本棚のうえで寝ていて、転げおちるテンネンぶりを発揮した。哲学の道のニャンコに小太郎が重なり、なつかしい。

  開戦から75年の晩秋は、京都学派の世界史認識や竹内の歴史感に訂正をせまる変化が押し寄せている。もはや日本はアジア唯一の盟主ではない。中国の存在はこ れからさらに大きさを増すだろう。アジアと米・西洋、イスラム圏のかかえる矛盾は、近代の超克を拡大している。日本の矛盾も深まり、政権与党の自民党はア メリカ押しつけでない日本独自の憲法をもつべきとして改正草案をつくり、安倍首相のもとでの手続きを進めている。その一方で当選したトランプ次期大統領を どの国の首脳よりも早く自宅に訪ね、日米の絆の強さを世界にアピールした。脱アメリカと親アメリカが交錯する政治状況は現代の超克といってもいいだろう。 この道はどこへ行くのか。

  京都学派の鈴木成高は超克すべき近代は19世紀かルネサンスかと問題提起した。19世紀はフランス革命後の列強のアジア進出、リンカーン奴隷解放、ノーベ ルのダイナマイト発明など政治、文化とも波乱に満ちた時代。ルネサンスは14世紀から16世紀にかけての文芸復興運動と日本訳されているが、文化の香りの ある明るい時代ではなかった。ペスト流行し、政争、戦乱に明け暮れ、マキヤベリは君主論を書いた。

  鈴木の提案はその後、検討されることもなく今日までいたっている。提案の正否はわからないが、いかなる時代も歴史を離れて存在しない。大乗仏教の祖ナガー ル・ジュナ(龍樹)は去るものは去らず、去りつつあるものも去らずという、考えれば考えるほど頭がいたくなる空(くう)の論理を説いた。目をまわしなが ら、時間は線でなく円、歴史は回っているという我流の「空」にたどりついた。

  とすれば、どこかの時代が近付いていることになるが、京都近代の産物哲学の道に聞いても「その道はわが道」と、真っ赤な紅葉を散らしていた。

     

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