第125回 日本海夏物語

  鳥取 いい味は岩ガキと青谷和紙〜

  日本海をのぞむ露店風呂でこの日、鳥取のいい味を思い浮かべていい気分に浸っていた。夏の鳥取の味覚は数あるが、青い海にごつごつした岩場から連想するのは 岩ガキだ。殻を割って食べるあのふくよかな、とろりした味は口いっぱいに広がり、こぼれ出るほどである。鳥取の岩ガキは「夏輝」のブランドで売り出してい る。養殖の岩ガキもあることから天然の札付きだ。鳥取港賀露市場で最初、食べたときの印象は冬の牡蠣に慣れた舌がからみつく身の大きさにたまげていた。市 場では生そのままはあぶないからやめてほしいと、注意するが、むき身をほうばるあの誘惑には勝てそうもない。
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  他所からくると、生こそうまいと思うが、地元では鮮度がすべてでなく、酢につけて食べるのが一番と、教えてくれた。食べ方はそれぞれの好みである。
  岩カキの産地は三陸能登隠岐、山陰など日本海沿岸が産地である。例外として銚子、鹿島灘が太平洋岸で名があがるが、数は少ない。素潜りで岩場の牡蠣をはがすのは手間がかかる。ハンマーとノミをつかうため、観光客はやめたほうがいい。
  太平洋岸では干潮を利用して岩場で牡蠣を打つ。岩と見まちがう岩ガキをハンマーとノミではがしてとる。岩にハンマーでくさびを打つ要領である。
  賀露市場で岩ガキを開けてもらった。素人がすると手を傷つける。さほど貝は固く閉じている。やっと口があく。手のひらがかくれるほどの貝の身。コロッケより も大きいだろう。2個食べて満腹した。600円。特大は茶碗ぐらいあり、1800円の値札がついていた。「だいたい4年すると食べごろになる。夏のことゆ え、神経をつかいまっさ」と、市場の兄ちゃん。昔はひとり300個ぐらい取ったこともあるという。
          
   夕食に宿でもでたが、市場で食べた印象が強くて、まあまあの味である。この季節は宿から料理屋まで岩ガキのないところはない。
  「夏 輝」のいい味と、もうひとつのいい味は因州和紙。食べる味でなく風合いの味わいを指している。賀露港から日本海を眺めながら青谷(あおや)へ向かう。山陰 線普通電車で30分でJR青谷駅。旧気高郡青谷町は平成16年に鳥取市と合併したが、一帯からは世界的に珍しい弥生時代の土器、石器が発掘され、人骨に交 じり、中国、朝鮮半島の交流を示す鉄器類が見つかった。
  駅からバスで南へ6キロ山あいにはいると、青谷山根地区に着く。因州和紙のふるさとである。因州和紙は正倉院に保存され、奈良時代からすかれてきた。ミツマ タ、コウゾが原料である。平安時代の文献には登場するが、その後はばったり文献から姿を消した。他産地の紙漉きの影に隠れたのだろう。戦国期に亀井氏が因 幡を治め、和紙作りが盛んになる。亀井氏が津和野藩に国替え後は鳥取藩の領地になり、明治維新を迎えた。
          
  青谷が和紙の里として注目をあびるのは、明治以降、洋紙普及の中で和紙にこだわり続け、伝統産業にしたことである。文化の産業化に成功し、いまでは墨書などの画仙紙の国内6割をつくっている。
  青谷和紙の工芸品化の歴史は新しい。戦後間もない昭和24年(1945)、青谷山根の浄土真宗「願正寺」を民芸運動柳宗悦鳥取の医師吉田璋也の二人が訪 ねた。『因幡の源左』こと足利喜三郎さんの話を聞くためだった。江戸天保生まれの源さんは20年前、88歳で亡くなっていたが、生前は浄土真宗の教えを日 常生活の中に体現した浄土教の篤信者である妙好人として地元民から敬われた。
  青谷ではものをもらったお礼は「ようこそ ようこそ」といい、ありがとうとはいわないが、これは源さんの口癖が土地の言葉になったものである。一般につかういらっしゃいの意味と異なる因幡独特の言葉。源さのエピソードをひとつ紹介する。
  寺へ行く途中で雨に降られた源さんはびしょ濡れで寺についた。和尚が雨に濡れて大変だったろう、といたわると、源さんはこういった。
  「鼻の穴が上むいていたら雨がはいり大変やった。下むいていたから雨ははいらん。さてもさても」。住職は絶句した。
  願正寺に逗留して源さん話を取材した宗悦は本にするが、逗留を聞いた土地の人が「骨董の目利きが来なすった」と、家々のお宝を寺に持ち込み、鑑定を頼んだ。 テレビ東京の人気番組『なんでも鑑定団』さながらのにぎわいになった。宗悦は陶器や絵画に関心を示さず、土地のひとは「ありゃなんじゃ」と、噂した。
  現在、大因州和紙協同組合の創業者塩義郎さんは天地がひっくり返る吉田璋也ほどの衝撃のことばを鮮やかに覚えている。紙漉き職人の塩さんは宗悦にあうため、手漉きの紙と土産代わりの焼トウモロコシを紙に包んで持っていった。
  トウモロコシの包み紙を開いた宗悦はいった。
  「美しい。いい味している」
  売り物にならない包み紙。塩さんは信じられなかった。この出会いが転機になり、和紙作りは方向転換する。戦後の間もない時代だけに誰もが反対した。因州和紙 は、民芸調にとどまらず、インテリアまで幅広い。浅草雷門の大提灯も因州産である。丈夫で古くなっても味を失わない風合いこそが民芸品であることを宗悦か ら学んだ。「ようこそ、ようこそ、さても、さても」を繰り返した源さんの心は和紙づくりに生きている。
  宗悦とともに民芸運動を起こした医師吉田璋也は源さんが浄土の教え吉田璋也を日常に体現したこころを民芸運動で実践した。吉田は民芸の美を生活の中に取り入れるプロ デュサーを自認、新しい生活文化を提案した。一時、京都暮らしのさい、宗悦や河合寛治郎と知り合い、昭和6年(1931)、郷里鳥取耳鼻咽喉科を開業の かたわら鳥取民芸會を創立した。戦後、民芸美術館、たくみ割烹を市内に開いた。デザインしたイス、机なども手がけ、運動を広めた。
  民芸運動は大正時代に第一次ブームが起こり、戦後の高度成長期には第2次ブームを迎える。吉田の匠店は2次ブ−ムの波にのった。私の記者時代、京都でも「鳥 取の民芸、匠に行ってきた」と、OL、女子大生が旅自慢していた。民芸品の大皿にアゴ(トビウオ)の丸焼き、岩ガキが出てきた。京の料理屋が雅にこだわり 忘れていたいい味があった。しかし、このブームも民芸をブランド化し、本来、名のない民衆の美のはずが作家名で流通し運動は変容した。吉田璋也は運動の波 と変容を経験しながら新しいデザインによる工芸品を制作した。古いからいいのではなく民衆の中にある工芸品であることを運動の軸にした。
  JR鳥取駅前に近い匠店。店の構えも店内も変わりはない。郷土料理が分厚い皿にのってでてくるが、皿も岩ガキもまぎれもなく鳥取のいい味である。
          
  食後はコーヒー。民芸ゆかりの鳥取だけにコーヒー店は市内に多い。もともとお茶の文化が定着している城下町だからなんの不思議もない。スータバックスが開 店、さらにオーストラリアのアズバズが相次いで香りふりまき、鳥取の家庭におけるコーヒー使用量はついに全国1になった。坊ちゃんの松山も喫茶店の多い町 であるが、この町はひけをとらない。聞くところによれば昭和27年の大地震のさい米軍がインスタントコーヒーを配布したのがきっかけになり、家庭の消費が 増えたという。今年9月にはコーヒーサミットを計画している。鳥取コーヒーもいい味に加えたい。
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  メモ  JRスーパーはくと号京都7時6分発鳥取10時29分着。青谷には普通乗り換え30分青谷駅。バスで40分和紙会館 

  たくみ割烹は美術館、工芸品館の3点セットの鳥取民芸の要。駅に近く便利。営業時間は昼ときと夕方から開店。単品もあり、敷居は高くない。 

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