第64回 歌の旅   ♪♪「真白き富士の根(嶺)」と「琵琶湖哀歌」♪♪


  今回は歌の旅である。私のスポーツ歴は、高校でボートを漕ぎ、大学でグライダーに明け暮れ、合宿所のある利根川畔と練馬の下宿、大学の池袋を行き来した。 京都の地元紙に就職して琵琶湖から流れる瀬田川沿いに住むようになり、再び、オールを手にしている。年寄りの冷や水ならぬ、真冬の琵琶湖で転覆して危うく 新聞ダネになりかけた。

          

 水ぬるむ春が待ち遠しい。ボートでゆく歌の旅は、鎌倉の七里ゲ浜と、琵琶湖が舞台である。いずれも遭難の追悼歌だ。

 鎌倉・稲村ゲ崎を見下ろす高台に、遭難の像が立っている。しっかり抱き合った兄弟の像は、遭難時、発見の遺体の姿をモチーフにしている。

          

  明治43年1月23日、逗子開成中学の艇庫から出たボートが相模灘に浮かんだ。同中学生と小学生の12人が乗っていた。休日のため、学校には無断で江ノ島向けて漕ぎ出した。七里ケ浜沖まできて、土地の人が「ならい」という突風にさらされ、ボートは転覆した。

  午後3時ごろ、沖合でオールにすがって助けをもとめる若者を漁船が発見して救助したところ、人工呼吸のかいなく若者は沖を指差して、息を引き取った。中学5 年、木下三郎とわかり、ここで12人の遭難を学校が知った。捜索は昼夜徹して行われ、すべての遺体収容は4日後になる。

  捜索者の涙を誘ったのは、最初の遺体を海底で発見のもようである。一人の遺体と思ったのが、もうひとりの遺体がしっかり抱きかかえられていた。徳田兄弟である。徳田兄弟4人は遭難にあった。浜辺で遺体にとりすがる母の慟哭は、絶叫に近いものだった。

  2月6日、校庭で追悼法要が営まれ、姉妹校の鎌倉学園女学校の生徒がそろいの黒紋付、はかま姿で並んでいた。数学の三角錫子教諭がオルガンを奏でる。三角教諭は、遭難した木下三郎と面識があり、この日のために追悼の歌をつくった。


  明治唱歌「夢の外」としてすでに歌われていたメロデイーをもとに作詞した。曲は賛美歌(米人ジェレマイア・インガルス作曲)を基調にしていたが、イギリス民謡からの引用説もある。

  『真白き富士の根』ではじまるあの歌だ。『根』は『嶺』ともいうが、『根』がもともとの詞のようである。当時は七里ケ浜哀歌が歌題であったが、詞の冒頭部分が題名になり、今日まで歌い継がれてきた。

     真白き富士の根(嶺) 緑の江ノ島

     帰らぬ十二の    雄雄しき御霊に

     捧げまつる     胸と心

  若い人はまず知らない歌だ。歌声喫茶の全盛期には定番だった。哀調あふれるメロデイーは、青春のさなかにあっても、また過ぎし青春の追憶の日々においても、心に響く。

  この法要の翌日、一人の教師が逗子開成中を去った。中学の舎監であった石塚教諭。遭難生徒のうち、7人が寄宿生であった責任をとっての辞職である。遭難いら い、遺族の学校に対する責任追及は厳しく、舎監の管理責任が問われたこともあるだろうが、私は明治の教育者の責任感の強さを辞職に重ねている。石塚教諭は 辞めた後、旅に出た。ここからは息子の宮内氏の小説「七里ケ浜」からの引用になるが、四国巡礼の旅を終えた彼は岡山県立農学校教諭として教壇に立ち、婿養 子になり、石塚姓を消した。

  あの日、彼は同僚を駅で見送ったあと、学校の先輩から、三角錫子教諭との縁談を勧められていた。互いに好意を寄せていた。三角教諭は36歳の独身であった が、美貌で知られ、まとまる縁談になっていた。教え子遭難は二人の運命も変えた。校庭でオルガンをひく三角錫子先生と、歌に聞き入る石塚先生の顔が浮か ぶ。別れの歌になった。

  6番を紹介する。

     帰らぬ波路に 友呼ぶ千鳥に

     われも恋し 失(う)し人よ

     尽きせぬ恨みに 泣くねはともども

     今日も明日も かくてとわに



  三角先生は金沢生まれ、女子高等師範数学科(お茶ノ水女子大)を卒業、教職に就くも、両親の死で弟たちを養育していた。体をこわし、逗子で療養のかたわら、鎌倉学園で教えていた。遭難の翌年、鎌倉を去り、女子教育者の道を歩み、大正5年、東京で常盤女学校を創立している。

  教え子には「鋼鉄に一輪のすみれの花を添えて包んでほしい」と、花嫁道具ではない女子教育を説いた。亡くなる48歳まで独身を通した。

  遭難から100年を経過した2010年、逗子開成高校で100年の追悼の集いが開かれた。東京の開成中の分校として開校の名門もその後の歩みは平坦ではなかった。戦後は経営危機が表面化したが、理事や教職員の再建努力で神奈川最古の私学を守ってきた。

  理事長、校長、遺族代表の追悼の言葉は、生徒の死を無にしない決意と希望がこめられ、あいさつ文を読みながら、私は胸が熱くなった。

  「遭 難から100年を経過し、私たちは3つの誓いを守ってきた。ひとつは二度と悲劇を起こさない、教訓に学ぶ取り組みと研鑽がわれわれの使命である。ふたつは 事故があると、とかく、してはいけない、やめておけという消極的になりがちである。しかしわれわれは12人の荒海に船出するという勇気とチャレンジ精神を 継承、決して消極的な教育をしない。3つ目は心の絆を大事にしたい。教師と生徒、親と子ども、兄弟の絆を遭難から学び、御霊に誓う」

  遺族を代表した松尾靖彦さんは、在校生に呼びかけた。

  「遭 難した松尾寛之は、私の父親の兄、彼からみれば私は甥にあたります。佐賀の出身で、明治になり父の仕事の関係で東京の中学に通っていましたが、体を悪く し、ここの中学に転校、海を友にする多くの仲間に恵まれました。しかし、若くして世を去り、もし生きていれば、どんな大人になったのか、と思うこともしば しばです。彼は駅伝でいえば、たすきを次の走者に渡すことはできませんでした。しかし、みなさんはできます。自分ひとりの人生、命と考えず、はるか昔の先 輩、祖先からあなたがたの子孫まで見通した長い線、全体の中で今いる自分を考えてほしい」

  この日も♪真白き富士の・・・・、歌声が講堂に響いた。

          

  四高生、琵琶湖に消える

  歌の旅は琵琶湖に移る。琵琶湖にボート、ヨットが浮かばない日はない。風が強くても瀬田川を練習場にして、オールがしぶきをあげる。琵琶湖の気象も変化に富み、冬、春、夏、秋とも荒れる。日本海の湾内よりも、激しい波が押し寄せる。

  次の歌の旅は、琵琶湖の西、福井県境に近い湖西が舞台だ。

  昭和和16年3月。金沢の第四高等学校の漕艇部は瀬田川沿い、石山の旅館で合宿していた。前年のインターハイで優勝したクルーは連覇をかけて猛練習をしていた。合宿の仕上げは、名物の琵琶湖遠漕である。戦争の足音がそこまできていた。

  3日の遠漕は、周囲160キロの琵琶湖をほぼ一周する日程を組んでいた。4月4日出発、6日に大津へ戻る予定だった。当時の艇はフィックスといって、カッ ターをスリムにした固定シートである。いまのエイトよりは重く、スピードも遅い。6人がじぐざぐに座り、漕いだ。レースはコックス(舵手)を入れて7人乗 りだが、この日はコーチや補助を含め12人が乗船して琵琶湖を北上した。今津までは順調に進み、途中の白髭神社で力漕20本を披露、奉納した。白髭神社と 対岸の安土の間に線を引くと、ちょうど琵琶湖を半分に区切ることができ、気象も日本海型と瀬戸内・太平洋型に分れるポイントである。今年など湖西は豪雪で も大津は積雪すらない。

          

  春、比叡山の北に連なる比良山から吹き降ろす風を比良八荒(ひらはっこう)といい、この風が吹いた後におだやかな春がくる、と言い伝え、事実、奈良のお水とりが済んでも、比良八荒までは寒い日があった。

  4月6日、当日の天気図は低気圧が東海沖に抜け、大陸から高気圧が東シナ海に張り出していた。薄曇り、北西の風に小雨が交じり、東の空に青空が広がってい た。日程では前日に竹生島を回り、近江舞子泊の予定だった。前日に近江舞子まで行っていたなら、無事に大津へ戻っていただろう。ところが霧のため、今津泊 になり、7時45分、OBの京大生3人を含む12人が出発した。今津では波もなかった。クルーとは別に陸上からの伴走班は鉄道で近江舞子まで先回りして 待っていたが、予定をすぎても艇の姿は見えない。白髭神社付近は強風が吹き荒れていた。

  翌日になって10キロ離れた近江八幡湖岸でオールが発見され、翌8日、最初の遺体を収容した。捜索は2人目の遺体収容の17日、打ち切られた。逗子開成中の遭難捜索に比べて、難航したのは天気もさることながら、琵琶湖の広さがあった。

  5月10日、遭難地点の浜辺で慰霊祭が営まれた。ここで歌われたのが「四高生遭難追悼歌」である。金沢から駆けつけた女学生たちが合唱した。遭難学生にほのかの思い寄せた女学生もいた。四高生をしのんだ歌声は琵琶湖に流れた。

  この追悼歌の1番は

     思い出る調べも哀し 春浅く水藻漂う志賀のうみ

     かの日風立ち雲たれて 呼びこたうこだまのみ

     たそがれに流れていきぬ

  すべての遺体が収容されたのは、実に66日後である。この間、四高では漕艇部再建に学生が立ち上がり、7月、他の部からの応援を含めた新クルーが盛大な見送りの中、インターハイ会場の瀬田川に向かった。合宿所にはOBたちも集まり、連覇の遺志を受け継ぎ、大会に備えた。

  7月12日、軍から大会中止の命令が下った。太平洋戦争5ケ月前である。中止決定の翌日、クルーは瀬田から今津に向かい、遭難現場で渾身の力をこめ、オールをひいた。

  遭難浜辺には追悼の桜が植樹され、四高桜として親しまれたが、老齢化や湖岸工事で新しく植えなおされている。

          

  遭難は新聞に大きく取り上げられ、連日のごとく報道された。遭難に目をつけたレコード会社は、追悼歌を発売した。これが「琵琶湖哀歌」。東海林太郎と小笠原美都子が歌った。その3番は

     ♪比良の白雪 溶けぬとも

     風まだ寒き 志賀の浦

     オールをそろえてさらばぞと

     しぶきに消えし若人よ

  「真 白き富士の根」と、メロデイーは良く似ているため、混同する人も多いが、このメロデイーと、もうひとつ似た歌が「琵琶湖就航の歌」である。こちらは三高水 上部(ボート部)で歌い継がれた。大正6年、部員の小口太郎が今津の宿で作詞し、イギリス民謡にあわせたメロデイーになっている。加藤登紀子の持ち歌のひ とつ。

     ♪われは湖(うみ)の子 さすらいの

     旅にしあれど しみじみと

     よする狭霧や さざなみの

     志賀の都よ いざさらば

  学生はもとより、滋賀県を離れる転勤者が必ず送別会で肩くみあい、放吟するのがこの歌である。以上3曲はボートと、青春がからむところから、熟年好みの似た もの同士のメロデイーだ。NHKラジオの深夜番組でときおり耳にするが、年輩者の反響は群を抜くという。3曲のうち1曲を選ぶなら、琵琶湖はいつでもいけ るためか、私は鎌倉・歌の旅をあげる。

  真白き富士の根 この詞に勝る歌はないと思う。三角先生のすべてがここに凝縮されている。石塚先生と三角先生の別れの日をしのびつつ、歌の旅を終える。