第29回 熊本城下に見る武蔵と「阿部一族」

  熊本城下は道が曲がりくねり、途中でどちらを向いているのかわからない。山、城が見える位置ならともかく、町の中はあわてることがしばしばだ。そのややこしい道を市電と車がさからうことなく走っている。市電の速度は車にひけをとらない。電車内で武芸稽古帰りと見られる中年の女性たちと、乗り合わせた。武具を手に、お茶の相談する姿に、ああ、熊本なのだと思う。いまに伝わる尚武の風が薫る。

  ここ2、3年、熊本城はくるたびに新しくなっている。こう書くと、語弊があるが、日本最後の城攻防になった西南の役で焼け、宇土櫓など13棟を残して姿を消した。戦後になり天守閣、平成には飯田丸5階櫓が復元され、最近では本丸御殿が完成した。加藤清正が築城した当時は大小天守と49の櫓、29の城門があったというから、昔の姿に近づいている。

   
         熊本城


  茶臼山に武者返しの石垣を積み上げ、見上げる角度で優美であり、りりしく、かつ険しい名城が蘇りつつある。加藤神社のある北西からは崖の上の要塞を思わせ、南に回ると、重なる石垣が威圧する。美しさに魅せられたら、落とし穴にはまる造りだ。事実、西郷軍の隊長桐野利秋は「青竹で城をおとしてみせる」と、豪語しながら、敗走した。

  熊本城は清正から2代で国替えになり、細川忠利が小倉から藩主で移った。細川家は足利将軍、信長、秀吉、家康と、変転する戦国をくぐりぬけ、九州を代表する雄藩大名にのぼりつめた。島原の乱では天草四郎の首をあげたのも細川家臣であった。外様ながら徳川家の信頼をかちとり、利忠の代で武芸と文化の肥後藩をつくりあげる。利休直弟子の父忠興のつながりから、利休正伝の質実剛健の肥後古流の茶道もおこした。

  武芸の師はいうまでもなく宮本武蔵。巌流島(舟島)の決闘以降、28年間、小倉から姿を消していたが、利忠の懇請で熊本藩の客分になり、破格の待遇で剣の指導をし、藩士にズー、タン、ヘッタイという独特の掛け声の二天一流を教えた。城東の現NHK熊本放送局は武蔵居宅跡になる。1年たたずして忠利が死去する。武蔵は、藩主死後、後継藩主光尚にいとまを申し出るが、慰留され、2年後には兵法論「五輪書」を著し、熊本滞在5年の62歳で死去する。

     
           五輪書(細川家伝)


  武蔵の墓はJR豊肥線武蔵塚駅北東9キロの街道沿いにある。大分へ向う豊肥線は、肥後大津までは電化区間で、車窓風景も住宅街が続き、武蔵塚付近からは加藤清正が整備した杉並木の街道と並走する。武蔵は、参勤交代で街道を通る藩主の行列をいつも見守りたいという遺訓から街道そばに埋葬されたというが、真偽はともかく晩年の武蔵の心境はそれに近いものであったことは想像に難くない。

  この豊肥線と市内をはさみ西の藤崎台トンネルを抜けた一角に島田美術館がある。武蔵の肖像画、墨類、武具が転示されているが、五輪書で読む剣法は独特で、例えば、対峙してつま先をあげ、かかとをしっかり踏むことを教えている。飛び足はいましめ、重心の安定を保つ剣ともいえるが、まねしても難しい。

  忠利の後継光尚にとって武蔵は、父の大いなる遺産であったのだろう。4年余の間、厚遇した。武蔵の存在は父没後の藩にとって重石になった。若い藩主は、いつの時代も苦労している。江戸住まいで国許になじみがなく、側近藩士も江戸詰めに偏り、派閥が生まれ易い。反対に嫡子でなく、国許で部屋住み経験の弟たちは不遇時代を経験しているから、兄の後を継いでも、執政を無難にこなした例は多い。

  忠利死後の雄藩藩主になった光尚には荷が重い。幕府の目が光り、国家老に頼らざるを得ない彼に試練が見舞う。忠利の後追いの家臣殉死である。側近で、かつ生前に許可を受けたものに許される忠義の印だ。家光の代になり殉死は禁止されるが、ちょうど過渡期にあり、名君の後追いは家の名誉として語られ、相続にかかわるから、次々に殉死がでた。

  阿部一族の反乱は、殉死をめぐる藩内の思惑があつれきを生み、悲劇に発展したお家騒動である。森鴎外は小倉の第12師団軍医部長時代と、陸軍省医務局長時代の2回、視察の旅をしている。2泊3日の滞在で、阿部家の隣人、栖本又七郎の書き残した『阿部茶事談』をもとに歴史小説阿部一族』を書いた。阿部家は千五十石の家禄があり、忠利時代から仕える重臣。子ども3人も島原の乱の功でそれぞれ二百石をもらう自他とも認める側近だった。鴎外はドキュメンタリー風の展開で当主の弥一右衛門が19人目の殉死者になる経過や、藩士たちの阿部一族を見る目、殉死後の一族に対する措置をからませて一族反乱の終末に持っていく。

  一族は家に立て篭もり、女子ども含めて自刃、斬殺されて反乱は終わるが、討って10人のうち7人が討ち死にする、すさまじい戦闘になった。ひとり一人の死体の傷跡を川で確認する最後のくだりは、そこまでこだわる武士の名誉とはなにか、鴎外の問いかけのようでもある。ところで、『阿部一族』は、史実との違いが指摘され、論議が起こった。

  小説だから、当然のことであるが、一族反乱は鴎外描く殉死と異なる要因という研究者らの指摘である。

     
           森鴎外


  安部一族の屋敷跡は、城南の山崎町にあった。現在はRKK熊本放送のあたりだ。同放送局玄関横には阿部一族家跡の碑が立つ。ビルの谷間はかつての重臣屋敷町だった。阿部一族の反乱は藩の日誌にもあるが、殉死に関しては許可なく切腹したものもおり、鴎外描く弥一右衛門がだけが許されなかったわけではない。北岡自然公園の利忠廟には殉死者の墓石が並び、その中には弥一右衛門の名前も見られ、他の殉死に比べて冷遇されていない。
  ただ弥一右衛門嫡男の権兵衛が一年後、縛り首になっており、鴎外は父親殉死後の藩の家禄減封(千石から三百石)措置への不満がつのり、忠利一周忌で自らの髷を切った、と書いている。タネ本の『阿部茶事談』はもとより、藩記録もこの縛り首については、記しており、事実であったが、問題は理由になる。研究者は殉死に端を発した事件でなく、藩の抗争に巻き込まれた結果という見方をする。

  『阿部茶事談』は、事件から百年後、世にでたもので、それを持って信憑性に疑問符がつくのはあたらない。藩の抑えていた真実を隣人が茶事の名でさりげなく後世に残したいという意図もあっただろう。一族の屋敷跡にたたずみ、鴎外は史実の裏に秘められた真実に目を向けたのではないか。

  近くの喫茶店で持参の文庫本を読み直した。幕末の津和野藩に生まれた鴎外は、新藩主就任後の家臣殉死による藩の動揺をみぬき、あやしげな重臣が立ち回る様を描いている。権兵衛が新藩主列席の一周忌の席でまげを切り、武士を捨てる意思表示には、殉死者遺族を巻き込んだ抗争の存在が浮かぶ。しかし、鴎外は創作のポイントを政争よりも武士社会の相続、名誉に重きを置いた。初めに殉死でありきである。一気に読み終えた。ルポルタージュの手本といわれる由縁だ。乃木大将の殉死がきっかけになり、翌年書き上げた歴史小説といわれるが、町を歩きつつ、一族反乱の真相を後世の人にゆだねたいー眠る死者の霊が呼んだ小説と、思い巡らす。

  武蔵と阿部一族。同じ時代を熊本で過ごした。

  剣豪武蔵は阿部一族の反乱になにを見たか。

  偶然ながら武蔵の寓居跡はNHK、阿部家跡は熊本放送、いずれも小倉に関係がある。武蔵は阿部一族の壮烈な死のあと、雲巌禅寺奥の洞窟にこもり、「五輪書」を書いている。

     
           武蔵像


  電車で水前寺公園へ足をのばし、茶室「古今伝授之間」で肥後古流の伝統の香りを楽しむ。茶を味わい、歴史にかってな想像を加える熊本のたびは、父のふるさとのせいか、いつも気ままになる.

         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜