第72回  茶の湯の源流をゆく その3 

利休後の茶の湯 一期一会

  利休によって完成した茶の 湯の後継は、利休七哲(弟子)の一人古田織部が担った。古田織部は美濃・下巣の城主の子どもに生まれ、17歳で信長に仕え、武将の道を歩く。利休が秀吉か ら堺に蟄居を命じられ、京を去る利休を見送ったのは、二人しかいない。他の弟子たちは秀吉の怒りを恐れたからである。
  古田織部細川忠興だ。利休亡き後の茶の湯は、この二人に引き継がれたといってもいいだろう。
  名古屋市に ある徳川美術館は家康ゆかりの遺品をはじめ、代々の徳川家の「大名道具」を蔵している。この中に利休が最期の茶をたてる際、使った茶杓がある。織部は利休 から形見に茶杓を託された。織部は小さな窓(穴)をあけた筒をつくり、この茶杓を収め、利休をしのんだ。徳川家が利休遺品を蔵しているのは理由がある。
  利休切腹後の茶人織部の足跡を振り返る。
  織部は、天下一の茶人として秀吉の側近になるが、利休の侘びとはひと味違っていた。厳しいまでの作法と、茶道具の選択、そして心を求めた利休に比べて織部は 開放的、奔放な茶の湯だった。茶碗のゆがみ、ひずみ、デザインも奇抜で、今日風の表現をすれば、モダンな紋様といえる。博多の豪商、神谷宗湛は毛利輝元ら と招かれた茶会で新趣向の茶碗が登場した感想を日記に記している
     「瀬戸茶碗。ひみつ(ひずみ)候なり。へうげもの(おどけもの)」
  伝統や格式にこだわらない茶の湯織部の特徴である。織部は秀吉に随行した九州肥前唐津で連房式窯(登り窯)に出会い、唐津焼との交流を深めた。故郷の窯 造りの加藤景延に唐津窯の研究を命じ、これが美濃焼の大量生産、産業化につながった。唐津織部から斬新な意匠など陶芸技術を学び、飛躍した。唐津以外の 瀬戸、信楽備前など窯元でも、多くの陶工を育てた。
  3万石の大名であり、茶人の織部は朝廷、公家、社寺に人脈を持ち、秀吉没後の関ヶ原では家康についた。利休と反目した石田三成とは相入れなかった。家康が大名茶人の織部を見逃すはずがない。
            綾部焼き
  織部徳川秀忠の茶指南役になり、持ち前の豪胆、奔放な茶の湯は「武家の茶道」とも呼ばれ、人脈、情報網が築かれた。その影響力は、家康をして警戒させるほ ど広がった。家康は利休との交友もあったが、茶の湯への関心は薄かったという。大阪夏の陣で、織部は家康、秀忠親子から大阪方と内通したかどで切腹を命じ られた。
  師であった利休の跡を追う切腹だった。一切の釈明もしなかった。72歳。息子5人のうち、秀頼の小姓だった次男は戦死、他の4人は父の死後、処刑された。家財は没収され、一国一城に匹敵する茶の湯関連は徳川家に渡った。利休の茶杓は、かくて徳川家の家宝になったのである。
           利休の茶杓
  利 休後継のもうひとりは細川忠興である。細川忠興の妻は明智光秀の娘(切支丹名ガラシャ)で信長、秀吉、家康に仕え、豊前小倉藩主になる。関ヶ原では織部同 様に東軍につき、この功で息子、忠利が肥後藩主になると、八代に隠居し、ここで利休直伝の茶の湯三昧のかたわら忠利を助けた。利休正伝という極真盆点など 奥義を継承した質実剛健の肥後古流は忠興、忠利親子が起こした茶道文化である。
  熊本市の 北、熊本大学に近い立田自然公園には細川家菩提所がある。ここに忠興が京の大徳寺山内に建てた茶室、松向軒を原図に基づいて復元した仰松軒(こうしょうけ ん)がたたずんでいる。肥後古流の茶会には、利休の孫、千宗旦ゆかりの花入れを飾るのが常だ。 細川家は茶指南に古市宗安を招いた。宗安は利休四女の娘 婿、本能寺の僧、円乗坊宗圓(還俗して古市姓名乗る)の婿で、忠興から古風な茶の湯の継承を命じられている。
           熊本仰松軒
   忠興が古風な茶の湯と、言ったのは織部を意識しての指示だった。織部は茶よりも道具にこだわるところがあり、利休正統の茶は、われにありという自負があったのだろう。
  忠興は無類の今日でいう情報マンである。忠利が家光に仕え、外様ながら譜代同様の信頼を得た背景には忠興が人脈を駆使して江戸の忠利に送った書簡の存在が あった。そこには、徳川幕府の人脈から大奥までの情報が網羅され、その数は2千通にものぼった。外様大名が次々に改易される中で、雄藩として残った細川家 の真髄は情報にあったといってもおかしくない。それは、利休ゆずりの茶の湯の対話を積み上げた情報の山がもとになっていた。
  古市宗安は、千家復興を担う宗旦(利休孫)に利休の茶を伝え、尽力した。肥後古流の茶会に飾られる宗旦花入れは、その傍証ともいわれている。
           宋丹の花入れ
  旧 聞になるが、ある茶道研究家が肥後古流を熱心に調査し、「肥後古流の飾り、所作は利休の茶に似ており、肥後古流は利休の茶を受け継いでいる」と、発表した ことがある。地元では「今更、当然のこと」と、受け止めたが、熊本で利休正伝の茶が現代に続いている事実は、世間を驚かせた。
  茶の湯は時代とともに変わる。ところが肥後古流は伝統の「古風」な茶を守ってきた。古流は武士の茶である。茶席で左腰帯には袱紗(ふくさ)をはさまない。あ いさつはこぶしを軽くにぎり、膝の前において低頭するなど他の流派にない特徴がある。左腰を空けておくのは、武士が刀を差すところで、刀以外は袱紗といえ どもはさまないのが古流だ。
          古流茶会
  柄杓の水をきる所作は、抜刀して血振りするごとくと教えられる。こぶし、柄杓といい、いかにも熊本らしい。茶席の女性のお点前にも武道をたしなむ尚武の香りがただよい、いまにもエイツ、ヤアの掛け声が聞こえてきそうな古流の所作である。
  肥後古流は宗安の子、弟子・小堀家、萱野家に伝授されるが、萱野家は古田織部の弟、重府が兄の切腹後、豊前小倉に逃れ、萱野家婿になり、その子が宗安の弟子 になった家柄である。栄西の植えた茶に始まり、織部唐津、古流の小倉、熊本と続く九州は、利休後の茶の湯の源流を形成している。
  千家復興が許されたのは利休自刃から数年後である。一家離散、家財没収の後を受けた千家は利休娘婿、少庵が2代目になる。少庵は現在の表千家の地に屋敷を構え、残月亭と不審庵を建てたが、利休時代の隆盛は見る影もなく、息子、宗旦の代になり再興をとげた。
  時代は徳川政権下に移った。宗旦は侘び茶の追究につとめ、大名に仕えず清貧をつらぬいた。時の権力から距離を置いた宗旦の茶は3人の息子が継ぐ。次男宗守は武者小路千家、3男宗左は表千家、4男宗室は裏千家を興し、3千家が生まれた。
  京都市堀川通を二条城前から北へ、今出川通を過ぎてすぐが寺の内で最初の南北の狭い通りが小川通である。北に向かって木造の豪壮な家並みが続く。木造建築の粋をこらした表千家兜門が建つ。隣が裏千家だ。裏の名は宗旦が隠居して裏に今日庵を建て、そこに初代宗室が居にしたことから裏千家の名がある。 表千家の兜門は紀州徳川家から寄贈の建築で、4代宗左が紀州家に仕え、以降、紀州家の茶の指南役になった。
           表千家の兜門
  千 家とともに京で忘れてならないのが薮内流である。利休、織部と親交のあった薮内紹智は利休から相伝を受け、利休の信頼があつかった。織部の妹を妻にし、町 衆に広まった地味な茶ながら、侘びに貫かれた厳しさがあった。西本願寺の知遇を得て発展、千家を「上流」という世評に対して、下京に居を構えたことから 「下流」と呼ばれた。
  徳川時代茶の湯織部切腹後、弟子の小堀遠州が引き継いだ。作庭で名高い遠州は、侘び、さびの世界に「きれいさび」という概念を持ち込み、王朝風の華やか さで戦なき時代の茶の湯は利休の求道的な茶から変貌を遂げた。その心変わりは遠州七窯の傑作、福岡直方・高取焼の茶器にみることができる。
           遠州高取
  高取焼は黒田藩の御用窯。朝鮮の陶工が拓いた。遠州好みの「きれいさび」を象徴する磁器のような肌合い、きめ細かい生地は茶陶器の逸品の評がある。400年の歴史の中で、名作を生んだのはわずか20年と短く、美術品としての価値も高い。
  徳川時代の武士の茶の湯は、室町期の茶会に似て、遊興をともない、侘び、さびの世界から離れていった。ところが黒船来航の騒然とした幕末に異色の茶人が登場した。趣味人サロン茶会の流れに反発し、侘び、さびの原点に戻る茶の湯流派結成を決意していた。
  開国を断行し、反対派に峻烈な弾圧を加えた井伊直弼そのひとである。
           井伊直弼
  直弼は彦根藩主の側室の子に生まれ、青年時代は埋木舎と称した堀端の屋敷で過ごし、和歌、能、剣道、槍、弓など武術に加えて、茶の湯に没頭した。特に茶の湯 は侘び、さびを追究して数多くの著書を残した文武両道の人。自ら宗観の号を名乗り、『茶湯一会集』に、茶道の心得を記している。井伊家は禅宗であった。
  一期一会。
  この言葉は茶の湯ばかりか、人の交わりにおいて好んで語られる。利休の言葉として取り上げる書物(広辞苑)もあるが、正しくは利休と直弼の合作である。利休 愛弟子が書いた『山上宗二記』によれば、利休は茶席における客は、一期に一度の参会のつもりで亭主に接するべきという内容の言葉を残したという。直弼は、作法にとどまらない茶の湯の心として、利休の言葉を深化させた。
  「茶の湯の交わりは、たとえ幾たび同じ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらさることおもへば実に一世一度の会なり。これを一期一会といふ」
  直弼は兄の死で予想もしなかった藩主、幕府大老に就任、茶人で生涯を終える志は挫折した。安政5年、彦根に戻った直弼は彦根藩の庭園、玄宮園で藩主として最 初で最後の茶会を催して江戸に旅立った。彦根藩桜田門外の異変を知らせる急使が到着したのはそれから2年半後の春だった。
  時代の混乱、転換期に「一期一会」の言葉が生まれた。国難、維新、維新と声高に叫ぶいまの政治家たちが語る言葉のなんと軽いことか。利休、織部、直弼とい い、侘び、さびを求めた茶人が政治と茶の湯の狭間に身を置き、血に染めた死は、偶然で片付けられない共通するなにかがある。運命と呼ぶにはあまりにも過酷 である。しかし、私には、いささか過激であるが、直弼がこう語りかけてくる。人間は血まみれで生まれてくる。死が血まみれであることになんの不思議があろ うか、と。なにごとも極める道は平坦ではない。嵐の海、そそり立つ岩壁を前にした茶人直弼の姿を歴史の風景の中に描いている。

          (次回は日本銘茶物語)