第30回 大正ロマンの石塀小路

   -- 靴音追いかける石畳の男と女の道 --

  隠れ里というのは、戦国期を舞台にした時代劇や横溝正史の小説に登場する定番である。ところが隠れ町に関しては、あまり耳にしない。その隠れ町を歩いてみるのが今回の旅である。場所は京都。昼間ならまだしも、夜ともなれば、町の存在すら気づかない。昨今はTVの舞台になり、名前は知られ、しゃれた店ができ、昔のような隠れ町の趣はなくなったが、石畳に靴音響かせて歩く男と女の道であることに変わりない。

          


  東山の麓、石塀小路の名がつく。かつては石塀に囲まれた隠れ宿が並び、京女は石塀小路と聞けば、「まあ」「ふーん」とかあいまいな言葉で素知らぬふりをした。若い娘が出入りするような町ではなかった。いまは観光客の足音絶えることなく、石塀小路の独特のつやっぽい雰囲気は、つかみにくいが、夜はお勧めだ。一人歩きや団体は、避けたほうがいい。ここは男と女の二人、それも世をしのぶ関係なら文句なしだ。石畳を踏む足音が追いかけてくるかのようなサスペンスに富んでいる。

  入り口は3カ所あるが、八坂神社の南鳥居を南に行くと、お茶屋が軒を連ねている。通りの板塀をくりぬいたかのような、トンネルをくぐると、石畳と石塀の町が広がる。さながらタイムトンネルの風情だ。

  石塀の町は、大正時代にできた。なぜ石塀かというと、東山から流れる菊渓川は高台寺そばを通り、雨季ともなれば鉄砲水を周辺に見舞った。下河原の地名は暴れ川の名残である。大正初期に一帯を宅地化するにあたり、水に備えて石を積み、石塀で囲む防災対策が今日の景観をつくった。

         


  石塀は大正期であるが、下河原の歴史は古い。秀吉の妻ねねが秀吉没後、高台寺で19年間、余生を過ごしている。ねねの下に芸達者な女たちが集まり、下河原に住み着く。下河原の芸者は俗に山ねこの別称で呼ばれ、歌にまでになった。

  蒲団着て寝たる姿や東山 裾よりねこが出入りする

  祇園の芸者とは一線を画し、見識も高かったと、伝わる。江戸、明治、大正の時の流れは下河原を祇園奥座敷にする。明治末に上村常次郎が石塀小路を開発、石塀の宅地に貸家が建ち、旦那をもった元芸妓らが家を構えるにつれて、表札のない石塀に囲まれた家が連なり、やがて隠れ宿の名称が生まれた。現在のように料理屋も少なく、芸能人が好んで泊まる看板のない旅館町は、一見さんはまず相手にされない一角で、「どなたさんのご紹介ですやろか」と、ていよく断られた観光客も多い。

          


 川口松太郎花柳小菊のゆかりの家、勝新太郎の紹介で泊まった、石原裕次郎が京の常宿にするなどこの町を利用した有名人の名前にことかかない。

  この町が散策路になるきっかけは、70年代にブームになった道路開放である。京都では東山散策道路が地元の肝いりで実現、廃止になった市電の敷石を敷き詰めた道は大正ロマンの世界としてにぎわう。当時、散策道路取材でたびたび訪れたが、昼間のにぎわいと一転した夜のたたずまいに、京の面白さを感じたことを覚えている。

  京の魅力は、平安期から現代までの時代が町に溶け込んでいる点にある。江戸の町並み、町家の保存なら、関東周辺の城下町、宿場町のほうが上だ。しかし、大正期から昭和60年代の雰囲気をとどめ、かつ密会の男女の息遣いを隠微でなく、からりと伝える町は寡聞にして知らない。

          


  春風吹いて、そぞろ歩きの季節になった。石塀小路の門戸開放が進み、ぶらり立ち寄れる店も増えた。夜の石畳の道をたずねてほしい。


     http://www.kyoto-gion.jp/michi/1/ishibei.html(映像資料)


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