第28回 四国のこんぴら(金毘羅)参り   

  伊勢参りのあとは四国のこんぴらさん。伊勢、善光寺とともに庶民が一生に一度は行きたい参詣は江戸時代から続く。明治までは神仏一体の信仰の地として爆発的な人気があった。奥宮までの石段は1368段を数える。上る道中で、いつも、石段さえなければと思う。ところが、お参りした後の吹き出る汗の爽快感と眼下の讃岐平野の眺望。あの重苦しい石段への思いはどこかに消え、なつかしさすら覚える。来てよかったこんぴらさんである。

     


  岡山で新幹線からあわただしく乗り継ぐためか、瀬戸大橋へ来るころになると、眠くなる。橋からの瀬戸の島々、行き交う船の航跡を眺めるうちに、夢見心地の時を過ごした。いまでこそ、東京からでも5時間、関西、九州から2時間余で金刀比羅宮の鳥居の前に立つ。橋開通前は宇高連絡船が通い、江戸時代なら丸金の幟を立てたこんぴら船が関西なら大阪・淀屋橋の出船所から、毎日出港した。数日かけた四国への船旅。船は乗り合い、ここで様々な出会いがあった。大半の参拝者は、仲間で費用を積み立て、くじで当たったものが代表で参る金毘羅講の代参。行きも帰りもあんなこと、こんなこととにぎやかに語り合った。

  ―夢か幻か。帆をあげた船。「一生に一度はこんぴらさんにお参りしなくちゃ。あんさんはどこから。江戸だって」。森の石松だ。絵筆を手にする粋人は誰だろう。奇才、画家の伊藤若沖若冲は金毘羅で障壁画を描くため、行く途中だ。物陰に身を隠すのは追われている長州藩高杉晋作だろう。もっと近くへー

  車内マイクで目がさめた。

  瀬戸大橋を渡るJR車窓の眼下に船の白い航跡が伸びていた。

  瀬戸内の潮流は、西の豊後水道からの流れと、鳴門からの流れが、瀬戸大橋下の多度津沖でぶつかり、東西に引いていく。参拝客の流れそのものである。象頭山の金毘羅が船を引き寄せ、送り出す地形は、航海神にふさわしい。

  JR琴平駅前は、すでに参道になっている。灯篭の列が迎える。親分格の高灯篭と松林。夜、琴平に着くなら、高灯篭と金倉川を挟んだ町の灯りが、昼間のけん騒を包み隠し、大宮橋の欄干に肘をついて、歌のひとつも口ずさみたくなる。

     


  琴平には道は五つあり、高松、丸亀、多度津、阿波、伊予・土佐の五街道金毘羅宮と結んでいた。道標、灯篭が街道筋に並び、道に不慣れな参拝客を案内する。道に迷う参拝者のため、村が寄付を募り灯篭を立てた話は、随所に残る。海の航海神のこんぴらさんは陸路でも、心憎いばかりの道案内を整備した。初めての道でも安心できた。無事、参拝済ませた人たちは、お返しに灯篭を寄進したから、道は益々、明るくなった。

  金毘羅参りの歴史は古い。平安期前の信仰形態は定かでないが、平安期には皇位継承をめぐる保元の乱で後白河に敗れた崇徳天皇が讃岐で天狗界にはいる伝承があり、祭神になった。仏教伝来後の日本の信仰は神仏習合の形式をとり、神は仏が姿を変えた現世救済の化身という権現信仰が広まる。金毘羅の語源もインドの鰐(コンピラ)からきている。神と仏の融合した金毘羅大権現信仰は江戸時代になると、西国大名の参詣、代参が盛んになる。これは家光の代で朱印地に認められ、将軍家とのつながりが強まったためである。大名の参詣に続いて、庶民が主役になり、こんぴら信仰のブームが起こる。西日本はおろか関東、奥羽まで参詣の波は海難除けから病気回復にいたる25のご利益を求めて押し寄せる。江戸時代は街道のインフラが進み、富士山噴火以来の地震、飢饉という社会不安が旅と信仰を結びつけた。

  庶民の参詣スタイルは白木綿の装束に背中に酒樽、天狗面を背負い、石段をのぼり、お札をもらってくる。有名なのは講談や映画でおなじみの清水次郎長の代参、森の石松。代参は悲劇に終わるが、命をかけた旅に庶民はご利益だけでないこんぴら信仰の心をみたのだろう。

  さて石段のぼり。本宮までは785段ある。気合をいれる。168段目で丸金の大提灯が見えてきた。ここからは勾配がきつい。294段目、金刀比羅教総本部、大門が目前にある。金毘羅さんは明治の神仏分離金刀比羅宮になり、再出発するが、大門はかつての山門、二層入母屋造り、瓦葺きの豪壮な構えは金毘羅大権現のままだ。山門と鳥居を交互にくぐる境内は心のふるさとへ向う旅の気がする。やがて旭社。名前は社殿ながら建物は寺。大権現の金堂にあたる。

  785段のぼった。冬といえども汗びっしょりだ。本宮に参拝すませて絵馬堂に移動する。北前船時代の絵馬から太平洋横断の堀江謙一さんのモルツ・マーメイド号など航海神への願いと札があふれ、海上のドラマを語りかける。

     

  北端は展望台で、讃岐平野が広がる。ひときわ高いのが讃岐富士(飯野山)。丸亀城も見える。汗もひいた。シャツを替えて、奥社の階段に向う。583段。象頭山の原生林の木々が覆う参道は歩きいい。石段がきたきた。数えだして、何段目かでわからなくなった。頭の中は息切れで酸素不足になり、真っ白。すると、奥社が急段の上から見下ろしていた。

  最後の石段は険しい。石段のぼりはこんぴら信仰を極めることと悟る。巌魂神社に参拝。社殿のなかにぬっと杉が根を張り、崖上から天狗の面がにらみをきかせていた。

  金毘羅参りは時代劇映画の定番であるが、現代劇で忘れられない映画のシーンがある。あの「二十四の瞳」。大石先生に引率された子どもたちが船でやってくる。大石先生はここの店で家貧しく、学校を途中でやめた教え子、まっちゃんに再会する。立教大学の学生時代、大島渚が学園祭で講演した。ヌーベルバーグの旗手として「青春残酷物語」「日本の夜と霧」で脚光をあびていた。その彼が木下恵介論を講演のテーマにした。映画制作では彼の対極にいた監督である。

  「まっちゃんと再会した大石先生は、学校に戻りたいと、泣くまっちゃんに、先生はなにもしてやれない。あなたと一緒に泣くことしかできないと、少女を抱きしめる。あれが、木下恵介の心であり、二十四の瞳のテーマ」

     


  社会派の彼がとつとつと語りかける姿に、もっと威勢のいいセリフを期待した私は戸惑った。確か小学校6年ごろ見た映画なので、記憶はおぼろげである。ただ大島渚の語りかけは胸に響いたことを覚えている。後日、池袋の人生座で「野菊の如き君なりき」と再上映され、特に小豆島出発から金毘羅参りまでの20分余に集中した。大石先生、かつて同級生が乗る船を桟橋かげから見送るまっちゃんと、埠頭にまっちゃんの姿を探す大石先生の金毘羅の別れシーンは、せつなかった。ぽろ、ぽろ涙した青春の思い出である。