第120回 吾輩は猫でない、猫である 

  〜「CATSはどこからきたのか」没後3年小太郎が雲でゆく〜

  ありし日の小太郎

     
 在りし日の小太郎

  吾輩が実家を後に して黄泉の国へ旅たち早や3年になる。空から見る家に変わりはない。ベテイ、ボンの姉、弟の2匹は天気がいいと、庭で遊んでいる。ベテイは13歳の人間で いえば70歳に近い老女であるが、美貌は衰えていない。ナンパの近所の野良がいまだに通っている。かつての主人である旦那(吾輩の使う呼称)は、何思った のか昨秋からスズメに餌をまき、ママから「大群になったらどうするの」と、いやみいわれつつ、やめる気配はない。この頃は猫がいてもスズメが逃げないから 庭になじんできたのだろう。吾輩は焼き鳥にする腹ではないか、と、注意してみているが、昔、空気銃やパチンコで追い回したおわびの意味があるようだ。お気 に入りの歌、早春賦を口ずさみ、餌やりに余念がない。
  吾輩は近頃、歴史 に興味を持っている。雲に乗り、どこへでも行ける身軽さと、さまざまな時代を潜り抜ける空間住まいから、日本猫のルーツを求めて旅に出た。ただ、むやみや たらに行けば、いいものでもない。古典など文献が吾輩の旅のガイドブックである。旦那の本を盗み読みしていたことが役にたっている。 
  日本の猫歴史の前 に、我々はどこからきたのか。この疑問に答える研究が10年前、アメリカで発表された。アメリカのすごさはこんなところにもある。アメリメリーランド州 ベセスダにある国立ガン研に飛んだ。ワシントンDCから50キロ。ここは年間5000億円の予算をつかい、6000人が働いている。2007年、キャット ゲノム研究チームが3大陸のヤマネコ5種と日米英などのイエネコ979匹のDNAを分析した結果を公表、世界の人と猫を驚かした。その内容は猫の先祖は中 近東に生息するリビアヤマネコというのだ。これまでの研究ではヨーロッパヤマネコ先祖説もあったが、リビアもヨーロッパもDNAでは違いがないことがわ かった。
  吾輩も砂好きで、 砂の上でごろごろしたものであるが、やはりという思いがする。砂漠の民の血が流れている。トイレの砂かけの習慣もこれで納得がいく。砂漠は清潔なのだ。エ ジプトでは吾輩らは神のつかいとして敬われ、発掘の墓からは人の骨のそばに猫の骨がみつかっている。穀物を荒らすネズミ退治がわれらの役割であったが、大 航海時代、船底の食料を食い荒らすネズミ対策のため、乗船して世界の海をわたり、各地にすみつく。
  さて日本である。 これは旦那の受け売りながら、文献に猫が登場するのは平安時代から。ただ奈良時代には猫がいたらしく、説話集の『日本霊異記』の一節に飛鳥時代に猫の存在 をうかがわせる記述が残っている。705年(慶雲2)、豊前国の膳原廣国なる男が「我正月一日狸となり、汝が家にはいる」とあり、この狸には「禰子」(ね こ)の注釈がついていて当て字のようだ。しかし、平安朝以前にはなぜか「猫」の言葉は登場していない。
  奈良時代の猫につ いて書いた文献は、ずっと後の江戸時代になってからだ。戯作者田宮仲宣が随筆『愚雑俎』で「大船はネズミあるものなり。往古仏教経典の船乗せし時、猫を乗 せた」と、あり、経典をかじるネズミ対策に猫が動員され、海を渡ったことを説明している。仏教伝来から平安期まで300年もの間、この国は吾輩らの先祖を 歴史に登場させなかった。
  当時の日本人は猫に偏見をもっていたのか、まさしく謎である。古代史研究者もまったく触れることすらしていない。エジプト王朝は吾輩らを崇敬し、像まで彫っているのに。
  ところが平安時代 になって、吾輩らの姿が文献にお目見えし始めた。そこで京都上空へ場所を移した。京都御所はいまの御所より西よりにあった。JR山陰線沿いの千本通が禁裏 への道、朱雀大路跡。空から見ると、羅城門、東寺から北の直線、千本丸太町界隈が旧御所の位置になる。二条城の西北にあたり、北に「四神相応」の玄武、船岡山が森をつくっている。空からの眺めは、確かにこの縦軸が都のセンターラインで、西山、東山とも均衡がとれている。現在の京都は当初より左寄りのつくりになっている。
  『日本後紀』によ れば内裏の西は深い森で狐などが徘徊したというが、狐は吾輩らの天敵に等しく、うっかり森にはいることもできなかっただろう。平安期、吾輩らの先祖はすで に御所住まいをしていた。実に雅な暮らしである。桓武天皇から数えて10代目、宇多天皇が日記を残している。その中に光孝天皇の黒猫を息子の宇多天皇が譲 り受けた話がでてくる。これが正史の猫記述の初見になる。つまり、天皇のペットになるほどだから宮中にはかなりの猫がいたに違いない。

  平安時代は猫の時代

  藤原氏が権力を握った摂関政治の平安中期、花山天皇が歌に猫を詠んだ。猫が宮中の中枢にいたことを伝える歌だ。
  『敷島の大和にはあらぬ唐猫の君がためにもとめ出たる』
  一条天皇中宮定子の女房(女官)の清少納言枕草子で、爵位をもらい、貴族待遇の黒猫「命婦おとど」について逸話を書いている。
  おとど一条天皇の大の気に入りで乳母までついていた。ある日、宮中の縁先でおとどが昼寝していたところ、この乳母がはしたないといって呼んだが、おとどの 返事はなし。そこで乳母は翁丸という犬をけしかけて、おとどを驚かした。おとど天皇の下へ逃げ、天皇が乳母に事情を聞き、犬と乳母が処分された。犬はや がて、都に舞い戻り、御所の前に姿を見せ、警護番に叩かれ、死ぬが、結局、宮中の同情をかい、以前の生活に戻ったという話だ。だいたい、おとどは貴族の身 でありながら、縁先で昼寝などはしたない。この時代の高貴な方は姿をめったにさらさないものだ。追放された乳母にすれば、しつけのつもりが裏目に出た。天 皇のふところにはいったおとどは、ごろごろと、甘えたのだろう。
  清少納言は猫の記述が多い。耳の穴がどうとか、「猫はうえのかぎりは黒くてことはみな白き」をよしとしている。背中が黒で腹が白い猫 だ。そういえばベテイをナンパしにきたノラ(野良)も頭が黒いのを自慢していた。いわゆるブチと呼ばれる猫である。ブチは雑種の中の雑種の交わりで生まれ た毛柄。だからたくましい。ペットショップでは最低ランクの種類になるが、清少納言のお気に入りだ。清少納言のセンスはやはり一流である。 

  清少納言のほめたぶち猫

  ベテイに聞いたことがある。「あんなブチのどこがいい」と、ベテイ答えて曰く「とてもシンプル」。吾輩は外面で判断していけないと、なんども注意したが、女 はいくつになっても外面に騙される。平安期は女流文学が花開いた時代。清少納言のライバル、紫式部は「若菜上」で柏木と源氏の正室女三の宮の運命の出会いを猫で演出する。吾輩は旦那の受け売りの影響からか、式部のとりすました感が鼻につき、好きになれないが、このくだりはさすがと思う。
  皇女三の宮をあきらめられない柏木は蹴鞠に参加するふりして三宮の住まいに近づき、ようすをうかがっていると、ひもつきの猫が飛び出してきた。
  「唐猫のいと小さくおかしげなるを、すこし大きな猫追ひつづけてにわかに御簾のつまより走りでるに」
柏 木が猫を抱き上げると「いとかうばしくてうたげにうちなくもなく」と描いている。つまり、猫は三宮の匂いがしてメロメロになる。猫の匂いをかぎ、三宮をし のぶ男の切ない心情とわいせつな心を見事に表現している。旦那も吾輩にあのくだりはいい、と、誰かの匂いを連想していた。かねがねベテイはハリウッド女優 のエリザベステーラに似ていると、吹聴しているが、さしずめベテイの香りに女優の豊満な肉体を思い浮かべていたのだろう。

  ひも付きで宮中に飼った

  鎌倉時代から戦国時代にかけて猫は影がうすい。あの兼好法師は「奥山に猫又といふものありて、人をくらふという」と書き、ひとりの僧がこの化け物猫又に食べ られそうになり、気がつくと、飼っていた犬が飛びついたのを勘違いしたと分かったと結んでいる。さすが兼好さんである。ひとの噂なんてそんなものと、クー ルだ。
  この猫又は江戸時代の各地に残る化け猫伝説に受け継がれ、怪猫をつくりあげた。行燈の油をなめる猫、夜光る眼など温厚と野性が同居する姿が人間に恐れられた。行燈の油は魚油を使っていたから、猫がなめるのに不思議はない。不当ないいがかりだ。
  有名な話は鍋島化け猫騒動である。肥前佐賀藩の前藩主龍造寺一族と、豊臣・徳川時代になって藩主に就いた義弟の鍋島家との怨念に猫がからむ、復讐劇と化け猫退治の歌舞伎演目。長崎本線佐賀駅から長崎寄りの白石駅。 駅から歩いて農業高校そばに秀林寺がある。ここの猫塚が化け猫騒動の死骸を埋めた跡といわれている。鍋島藩主勝茂が重臣龍造寺又一郎と囲碁を打っていたと ころ、いさかいになり、勝茂が切り殺してしまった。又一郎はかつての藩主の家柄。飼い猫の知らせで又一郎の母は藩主をうらみ、自害する。飼い猫が血をな め、かたき討ち、これを迎え撃った家来や藩主一族に災いが起こるという後日談から供養して、霊をなぐさめた。
  お家騒動に担ぎ出された猫も気の毒であるが、猫は薄情といわれても主人思いは犬の比ではない。吾輩などいまだに旦那とママをしのび、家を守っている。隣の久 留米藩でもお家騒動に化け猫を登場させ、藩主の奇行を隠蔽する材料に猫を利用している。九州は大陸との交流拠点。多くの猫が日本の土を踏んだ。佐賀とい い、久留米といい、飼い主は情が深く、これが後世の化け猫話に発展したと、吾輩は解釈している。
  化け猫に対して招き猫も江戸時代の生まれである。農家の養蚕の蚕を食べるネズミ退治に猫が活躍して大事にされ、守り神になった。この風習が田舎から江戸の町まで広がった。 東京台東区今 戸の今戸神社。生活の苦しい老婆の夢枕に猫が現れ、「わが姿を人形にしたら福徳あり」と告げた。老婆は猫の形の今川焼を売り出し、評判をとった話。招き猫 の定番の小判を持った猫の話は江戸両替町の大店に出入りの魚屋に店の猫がなつき、魚をもらうなどかわいがられた。この魚屋が病気になり、苦しんでいると誰 かが小判を置いていった。回復した魚屋がくだんの両替商に行くと、猫はいなくなり、店の小判がなくなっていたという。
  猫の恩返しと呼ばれる逸話は落語の素材になり、猫神社もできてゆく。吾輩らは義理も猫情も強いことを江戸つ子に教えた。犬が小判おいていった話は聞いてこと がない。平安朝が猫文学なら江戸は浮世絵である。江戸と平安朝、似て非なる時代であるが、吾輩らが活躍するのだから、いい時代であった。浮世絵師の歌川国 芳は無類の猫好きだった。家に20匹の猫を飼い、猫を画材にして描いた。あの鶏を描いた伊藤若冲とともに奇想の画家と、学者がほめている。国芳は猫の仏 壇、戒名をそろえ、猫の姿を面白く、楽しく描いた。吾輩が見ても笑ってしまうぐらいだから、ノリのいい江戸っ子の人気を集めた。

  浮世絵師「歌川国芳」の猫絵

  最後は吾輩ら仲間で最も遠くへ旅して戻ってきたタケシにふれないわけにはいかない。南極探検の越冬隊に同行してあの極地で1年過ごした。犬のタロ、ジロの影 になり、知る人も少ないが、吾輩らは南極で遠くを見つめるタケシの写真に感動した。タケシは三毛猫のオス。3千分の1、3万分の1の確率で出てくる希少価 値の毛柄は縁起がいいと、珍重され、南極航海の無事を祈り、隊員に加わった。隊員と無事帰国して、隊員の家に引き取られたが、1週間後にどこかに行ってし まった。タケシは思い浮かべた。南極の広大な氷原、ペンギン、タロウ、ジロウもいる。狭い日本でやっていられない。タケシは野生の血を呼び起こし、旅に出 た。そうだ南極に行こう。

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