第12回   薩摩ブシか土佐ブシか、本枯れ節讃歌   2008/02/28 閲覧(658+641)

篤姫ブームの南国への旅  その1

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 京都からは多彩な食の廻廊が延びている。このたびは食材が集まる錦から産地への旅。薩摩ブシか土佐ブシか、錦で仕込んだ話が南国への旅のきっかけになった。ブシは武士でなく枯れ節ことかつお節である。母や妻をさしておかかともいうが、関東や北陸に行くと、おかかかつお節の別称にもなっている。

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 かつお節は京料理にとって昆布とともに、欠かせない味を生む天然調味料。もっとも、京料理でなくても、かつお節は子供の朝夕の仕事であったように、最近まで削りたてをごはんのおかずとして、また子供の弁当のごはんにまぶして入れた。

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 このかつお節、結納や結婚式の引き出物には必ずついた縁起ものだった。贈りものに使うから形にうるさく、姿良ければ味もいいというほどかつお節の評価は形で決まった。

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 花かつお、削り節のパックが並ぶ錦市場。乾物店には土佐節と染めた古い暖簾がかかっている。

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 姿にうるさいかつお節には土佐型と薩摩型の二種類がある。この違いを知る料理人すら昨今はまれだ。

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 土佐と薩摩のどこが違うのか。土佐型はファッションでいえば、かつお節にワンポイントデザインをほどこし、薩摩型はのっぺりしている。土佐型はカツオの頸肉部分の一部をのこして切るため、かつお節の鼻に該当するところがちょうど凸状になって、全体にふっくらした印象を与える。これに対して薩摩型は、やや細いが、そのかわりに使う際に無駄がない。

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 「かつお節は鼻と呼ぶ先端部分を大事にする。先っぽを梅鉢型にして、表面の黒皮を松の緑に、削り肌に残るカツオの縞模様が竹。これで松竹梅や。おめでたいと引き出物にする。この鼻が薩摩と土佐の大きな違い」

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 「うちは薩摩節を扱っている。これは大阪で仕入れた薩摩型。京都の料理人は、薩摩が産地になってからは、デザインのいい土佐よりも、薩摩型を好んだ。プロの世界は格好よりも味やからね。土佐は形を整える分、量的に少ないし、凸部分は削っても無駄ができる。のっぺりの薩摩は削りやすい。ほんのわずかなところやが、かつお節を大事にした料理人の気概というもんや」

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 デザインの変遷や流行がかつお節にあるとは思ってもみなかった。姿を重んじるかつお節らしい。

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  一尾の大型カツオから四本の節をとるのが本節。カビ付きのはずなのに、カビがついてない。京都はかつお節のカビをいやがり、売る時はきれいに店でとっている。

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 「ところが、東京は、カビがないと、本枯れ節やないというて、カビ付きで売る。面白いやろ」

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 うどん、そばの出汁ばかりか、こんなところにも関東と関西の違いがある。

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  「東京はそばつゆの出汁をとる節を削る前に、必ず、焼いて脂肪分をとる。それと、返しというて、醤油と砂糖で煮た汁を使う。この返しが店の特徴を決める。節はかつお、目近(ソウダカツオ)、さばの三種類。関西はうるめいわしが中心で、目近、さばを混ぜるが、麺の老舗は目近を重用する。東京の返しにあたるのが、八方だしで、これは用途に応じて濃度を加減する出汁醤油のことや。名古屋いうたら、きしめん。麺が幅広やから、出汁がよくしむ。まろやかな味がほしいと、ムロアジを入れるのがこつ。名古屋あたりは、枯れ節といえばムロアジ

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 京のかつお節専門店の解説だ。お得意の注文に合った枯れ節を産地から仕入れ、削ったあとブレンドする。傍目には仲介、配達の仕事に見えたかつお節店の裏技は、お得意先の味づくりにあった。

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 かつお節を削り、食べてみる。カビ付きは粉が多くなるが、削るうち、アメ色の地肌が表れる。削りたてを口にした。舌先でとける。カビ付き前の荒節(花かつお)は噛めばかつおの味が強いが、口でとけない。なるほどなるほどと感心するしかない。

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  カツオは南から北上するにつれて、脂がのってくる。しかし、かつお節はこの脂がよくない。脂肪は酸化する。まだ脂ののらない北上前の薩摩、土佐沖のカツオが節に適していた。

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 枯れ節の産地を求め、鹿児島へ旅立った。菜の花咲くJRキハ47形が走る枕崎が目的地である。

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 カツオは赤道をはさんで北緯四〇度から南緯四〇度の海域を回遊する。三月には鹿児島で初カツオの水揚げがはじまり、やがて四国、和歌山沖を北上して、目に青葉の頃には関東地方が初カツオの季節を迎える。夏には三陸から北海道沖に達する。秋には戻りカツオになって西へ回遊する。

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 カツオ漁は豪快な一本釣り。カツオはサバと同じで、生きぐされの言葉があり、痛みが早い。冷凍技術のない時代は、近海で水揚げの大半はかつお節にして保存するしかなかった。

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 土佐のカツオには足摺の半島の地先に留まったままの地のカツオと、黒潮とともに回遊の二種類がある。足摺沖を漁場にしていた漁師は、大型のカツオ船で一月から二月は薩摩の山川港へ、三、四月は土佐清水、五月は紀州、六月からは房総沖、そして年末に清水へ帰るのが一年の生活だった。足摺沖のカツオでつくる春日節は名品の呼び声高かった。

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 薩摩半島大隅半島に挟まれた鹿児島湾。その湾の入江がつくる天然の港、山川は島津藩時代、南方貿易港で栄えた。JR指宿枕崎線西鹿児島を起点に、指宿まで十八の駅がある。普通列車で行くと、一時間二十分、快速なら一時間かかる。山川は指宿の次の駅で降りる。列車は入江を見下ろす高台のホームに、よいしょと身を寄せる。「ここは日本最南端の駅」「ツマベニチョウの舞う駅」などとロマンチックな看板が出迎える。

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 最南端は正確にいうと山川の次の西大山駅であるが、無人駅のため、記念の入場券は山川でしか買えないから、キップマニアにとっての最南端になる。ここに、土佐から漁師が集団移住して、黒潮流れる漁場でカツオ漁と、かつお節づくりを始めた時期は比較的新しい。

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 「親の代には、すでに山川へ移っていた。カツオ漁で土佐から出かけていたのが、住み着いたものの、土佐の人間が薩摩で暮らすのは、想像を絶していた。地元と気質からして全然、合わない。それに山川には、五島列島と土佐からの出稼ぎが根を下ろしたから、漁師は土佐派、五島派、そして地元の薩摩派の三派に分かれてしまった」

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 土佐の流れを組む坂井良深さん、六十歳。本枯れ節づくりでは、ていねいな仕事に定評がある。坂井さんから三派の流れのぶつかり合いを聞いていると、笑うのを我慢するのが難しい。互いに真面目だけに、余計に面白いが、当人たちには深刻な問題だった。

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 土佐のいごっそうに対して薩摩はぼっけんもんのお国柄。ことあるごとに土佐弁と薩摩弁で対立した。

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 「集まりでも、薩摩は焼酎を飲み、土佐は日本酒をあおった。うちの祖父なんか、まずい焼酎なんか飲めるか、といつもいっていた。宴会は荒れるのが当たり前の時代でした。もちろん組合も別々。やっと言葉の壁のない山川生まれが大きくなり、役所の指導で薩摩と土佐が合併してひとつの組合をつくった。薩長ならぬ薩土連合が実現した」

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 明治維新から遅れること百年の薩摩・土佐の漁連合併劇は、山川をかつお節製造で全国の三分の一を誇る産地にした。枕崎と合わせると、鹿児島が全国の大半を押さえている。 特に本枯れ節は、もはや鹿児島でしかつくっていないといってもいい。

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 坂井さんの自宅で奥さんがコーヒーカップを運んできたので、インスタントコーヒーのもてなしかなと思ったら、これがおいしいみそ汁。山川名物の茶節。かつお節を削り、これにミソ、ネギを加えて熱湯をかけ、食べる。即席ミソ汁というには、惜しいほどの味がする。

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「疲れたら、タマゴの黄身を落として食べる」。かつお節の浜料理だ。

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 坂井さんの説明で本枯れ節の製造工程を見学した。

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 「カツオが三以上なら三枚におろして、四本のかつお節をとる。これを本節といい、型が小さいと、二本で、本節は背と腹が分かれて、背側は男節、腹は女節。味は女節のほうがいい。さばいてから、焙乾燥と蒸しが続き、外形を整えて日干しにする。二十日で荒節ができ、形を整え、修正してカビ付けをする。この青カビが酵素を分泌して、中性脂肪を分解するから、出汁の透明度を高める。カビ付けは、一番から二番、三番と繰り返して、そのつど天日干しにする。仕上がりまで半年は見なくてはいけないので、手間と時間がかかるんです」

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 飴色の光沢、たたくと澄んだ音がするのが良質で、鈍い音のかつお節は水分が多い。京都の料理屋ではさらに一年ぐらい寝かして使うが、しかし、二年経つと、味が落ちる。

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 坂井さんが山川水産加工業協同組合の名簿を広げた。同じ名字が少なく、屋号で呼ぶ必要もない。

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 「四十五軒の会員のうち、二十一軒が土佐からの移住者で、一軒は焼津からきている。残りは五島出身と地元で、土佐派が数のうえでも多数派になった。だから、薩摩であっても、型は薩摩型でなくて、土佐型が増えて主流の座を占めている」

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 薩摩が土佐に吸収されたという解釈には、薩摩が黙っていない。

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 「薩摩と土佐の結婚のようなもので、薩摩型がなくなったわけではない。しいていうなら、改良型、新薩摩とでもいうか、新しい型の誕生です」

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 山川からは、年間売上げは百億円の地元産業に成長した枯れ節のカシで燻す煙が毎日、のぼっている。しかし、薩摩の本枯れ節には、悲しい歌がある。その調べを聞きたくて山川をあとにした。目的地は枕崎である。

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メモ 土佐がかつお節の産地ブランドの名前を残しているのは、藩の産業政策による。古事記など文献に堅魚、煮堅魚として表れるかつお節がマキをいぶして乾燥させる方式になるのは江戸時代。土佐藩が収入源確保から、奨励していらい、かつお節なら土佐節の名前が確立するが、ルーツは紀州という。延宝二年(一六七四)に紀州の甚太郎なる漁師が土佐の宇佐港で教えたのが始まりになる。土佐藩は製造工程を秘密にして、類似品づくりを防いだため、黒潮にのって北上するカツオ漁が各地で盛んになっても、枯れ節製造になると、明治期に伊豆から焼津、薩摩に焙乾製造が伝わったにすぎない。