第26回  京都嵯峨野 男の歩く「女の嵯峨野めぐり」

 秋から冬の京都・嵯峨野はもの思うところ。女の一人歩きは様になるが、男の彷徨は他人の目に、うらぶれて見えてか、出会う女性からは警戒信号が発信される。が、もう気にする年ではない。古いスクッラプを開いたら、「女ひとり生きる」グループの嵯峨野マップが見つかった。25年前の記録だから、新聞やテレビが取り上げることもない。戦争で相手を失い、一人自立することを余儀なくされたグループの碑が嵯峨野の常寂光寺に出来たのは、1980年。「女ひとり生きる」という本が話題になった。著者の谷嘉代子さんは、住職と大阪の大学で同じ研究室の同僚だった関係から、女の碑建立を思い立ち、呼びかけたところ、全国から192人の賛同者が集まった。


      常寂光寺

 第二次大戦で多くの若者が命を失った。その結果、年頃だった娘たちは、結婚相手を失い、独身のまま生きることを強いられた。谷さんもその一人である。谷さんは綴る。

 「どこのだれかもわからない。知らない人を待っていた女たちは、売れ残りと、いわれようとも、権利を主張するのでなく、戦後を黙って生きてきた」

 「気がつけば、残り少ない人生。みなさん、歴史上の女たちのように、一人生きた生涯を嵯峨野で終えたい。散策のつれづれに心のすみで感じていたのか、碑づくりに共感され、ここで眠れると、思うだけで心安らぎ、いうなれば、ふるさとになったんですね」とは、谷さんの取材メモのひとこまである。

 マップは歴史上の女たちの史跡を結んでいる。嵯峨野は平安期から幕末まで歴史に登場する女たちの舞台になった。男が歩く「女の嵯峨野めぐり」は、まず、北にある愛宕鳥居前を左に進む。あまりの静けさにためらい、エナガオナガの鳴き声すら驚かされる嵯峨陵から始めた。桓武帝の後継、嵯峨天皇の嘉智子皇后は嵯峨野の女性史に登場する最初の女性である。平安朝は実質的に嵯峨帝において始まるといわれ、空海最澄の平安仏教は嵯峨帝を後ろ盾に隆盛をきわめ、平安文化が幕開けた。嵯峨の離宮は後に大覚寺になった。妻の嘉智子皇后は類なき麗人の評があり、髪は地に届くまで長く、嵯峨帝が皇太子時代、お忍びで訪ねたさい、女御たちの噂をきらい、外に待たせた歌がある。


大覚寺門跡

言繁し しばしは立てれ 宵の間に おけらむ露は いでてはらはむ

 おけらむ露以下は(衣の露は私が払います)意になるが、皇太子をじらすあたりは、なかなかのものである。仏教に深く帰依、壇林寺を建立している。176段ある石段には黄、緑の粉をまぶしたような苔が張り付いている。

 「嵯峨野は有名、無名の女たちが詩情豊かに生き、自分に忠実な生き方を求めたところ」と、谷さんは説明する。

 コースが決まっているわけではないので、行ったり、戻ったりを繰り返すが、地図を手に歩く。陵墓の南に祇王寺がある。平家物語でおなじみの祇王、祇女姉妹と母の3人ゆかりの寺。草庵という表現がぴったりの境内は女性に人気があるが、紅葉を敷き詰めた庭に、清盛の寵愛の下を離れ、母娘が余生を過ごした伝説の歴史を重ねている。隣の滝口寺も平家物語に出てくる悲恋の舞台。出家した滝口入道と女官横笛のかなわぬ恋が綴られる。親に反対され、出家してまで忘れようとした男の気持ちよりも、自らも尼になり、なお男の後を追い、死んでいく横笛に肩入れしたくなるのが嵯峨野だ。


    祇王寺

 小倉山を仰ぐ二尊院阿弥陀如来、釈迦如来の二尊が安置してある。天台宗寺院の格式をほこり、嵯峨野の寺の中では構えたたたずまいだ。ここの参道の紅葉は色合いもさることながら、両側の木々の紅葉が風に舞う晩秋は素晴らしい。皇女の墓が多い。近くには、嵯峨天皇の皇女で有智子内親王の陵墓。才女で知られ、シングルズの大先輩にあたる。

 女の碑のある常寂光寺は、茅葺きの仁王門が待つ、いかにも嵯峨野らしい寺である。いかめしさもなく、山寺の親しみ、優しさがある。住職は、反骨のお坊さんで戦争を憎み、憲法9条にこだわり、環境問題にも積極的に関与してきた。女の碑とは別に独身女性が兄や弟夫婦らに気兼ねせず、多くの仲間の女性と眠ることができる納骨堂がある。生前からここに通い、きたるべき時に備える女性の姿をしばしば見かける。小倉山の歴史と仏の胸に抱かれて、永遠に眠りたい。戦後を女ひとりで生き抜いた女性たちに共通する思いだろう。落ち葉が肩を叩く。気の早い話であるが、来年の再会を約束する。

 ちょうど学生らしい5人の女性グループと出会った。東京からきたという。シングルズの女の碑について、話を聞くつもりが、なぜこのような質問を見知らぬ女性にするのかで手間取り、我ながらもどかしい。グループには賢者がいるもので、「あのう、私たちは嵯峨野を良く知らないのです。もっと歩いてみたら、戦争独身の会の方とここの結びつきにきっと、共感できるでしょうが」。

 野宮まできた。源氏物語の「賢木の巻」には 黒木の鳥居どもはさすがに神々しく見渡されて とある。天皇の即位を報告する伊勢参宮の皇女、斎宮が1年間、ここに籠り、禊をした。戦後、間もない頃は、怖いぐらいで、嵯峨野で生まれた先代の宮司妻は、娘が歩くのもはばかるところだったという。嵯峨野ブームはNHK大河ドラマ「玉ゆら」からだ。ささやきの小道と呼ばれだし、夕方には若者たちカップルの大胆な姿が見られるようになった。反対に竹林の中にじっとたたずむ女性もいる。

 野宮から距離はあるが、大覚寺北の竹林に足を踏み入れる。ここも草堂の趣濃く、女の駆け込み寺の別名がある。幕末に勤皇志士として活躍した津崎矩子は大覚寺宮家来の娘として嵯峨野で生まれ、近衛家侍女になり、西郷隆盛ら志士と公家の間を橋渡しする。維新後は嵯峨野に戻り、荒れた直指庵を再興した。この寺は拝観の若者が綴る「思い出草」が有名だ。机のノートを開くと、「心」「悩み」「愛」「妻子ある人」「別れ」の文字が大半を占める。「こんなにまで同じ思いの人がいることに支えられて」と、結んでいる。

 広沢池前を通り、清涼寺からJR嵯峨駅に急ぐ。夕暮れの竹のトンネル向こうに見える山陰線の踏み切りの赤の点滅がなにやら意味ありげで、小津安二郎の映画のワンカットを連想するのだった。

 =メモ・嵯峨野=

 嵯峨野はどこからどこまでという明確なものはない。一般的には嵐山から小倉山沿いの社寺群と愛宕山南、大覚寺周辺を含む地域。田畑と山あいの里のイメージが濃い。奥嵯峨の化野は風葬の地。