第10回  松山の旅 ( 漱石と子規)  2008/01/28  閲覧(618+387)

  小説には、さまざまな別れの名場面が登場する。男と女はいうにおよばず、親子、兄弟いろいろある。旅立ちに別れがつきものだ。夏目漱石の坊ちゃんが四国・松山に出発する東京駅頭の場面は、なんど読み返しても、印象深い5行である。生れながらの無鉄砲が自慢の「坊ちゃん」と、母親を亡くした彼を子どものころから世話し、理解者であった年輩の女中の「清」との別れ。おれは泣かないといいつも、動き出してしばらくして汽車の窓から振りかえる坊ちゃんは、フォームに立ち続ける小さな清の姿を見つける。漱石は小説の中で坊ちゃんの涙を書いていないが、仮に泣いたとすれば、この時しかない。

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  坊ちゃんは汽船、艀(はしけ)を乗り継いで松山の停車場に着く。今は京都からJRで一気に松山駅まで行ける。便利になりすぎたと嘆くつもりはないが、鉄道・船のアナログの旅もなつかしい。「坊ちゃんやないかなもし」と、声かけてほしい気分で駅頭に立った。

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  春や昔十五万石の城下哉
    
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  松山駅前にある正岡子規の句碑の前で空が好きな坊ちゃんに習って空を見上げる。松山城天守閣が大胆にも空と高さを競い合っている。子規は詠んだ。

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  松山や秋より高き天主閣

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  明治前夜の松山藩士の家に生れた子規と江戸っ子漱石東京大学予備門入学後、文学を通じて交友を深めた。日清戦争従軍で体をこわし、松山に帰省した子規は松山中学教師として赴任中の漱石の下宿で共同生活をはじめ、漱石はここで創作活動の第一歩を踏み出し、子規もまた俳諧革新運動に乗り出していく。坊ちゃんが子規主宰の雑誌「ホトトギス」に掲載されるのは、2人の共同生活から約10年後である。

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  子規の名句をくちずさみ、漱石文庫本を手に城下を歩く。

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  松山城は秀吉小姓、賤ケ岳7本槍で名をあげ、関ケ原の戦いでは徳川についた加藤嘉明関ケ原2年後に築城した。標高132㍍の勝山西側を削り、眺めは優美、守りは難攻不落の城。大手門から本丸まで6門がたちはだかり、道は迷路になっている。徳川幕府加藤嘉明の意図をはかりかね、警戒感を抱いたのもうなずける。3代目城主は家康甥の松平定行となり、親藩松山藩が誕生した。定行は天守を5層から3層に改築する一方で道後温泉の大改築などまちづくりを進め、現在、松山名物の餡入りタルトは定行の長崎土産から考案された名菓である。松山に俳諧が勃興するのは4代定直の時代。定直は芭蕉の高弟宝井基角の門人になり、藩士から数多くの俳人を輩出、松山に江戸文化が花開く。

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  駅前から路面電車で堀端へでる。早春、堀端の梅がほころび、柳萌え、やがてつつじが咲き、菱の花が夏を呼ぶ。変わらぬ松の緑と四季のうつろいを水面に映す堀端は、市民の散策の場になっている。南堀端を東に向かうと、一番町、二番町、三番町と続く官庁街。空襲を受けるまではかつての武家屋敷が城を囲んでいた。県庁前電停南は旧松山中跡、漱石は中学去る日、「わかるるや一鳥啼きて雲に入る」の句を残した。裁判所北の山あいに、旧藩主ゆかりの洋館萬翠荘と、漱石・子規の下宿を復元した愚陀仏庵がひっそり建っている。

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  子規の生家は城下のはずれにあり、後に湊町へ引越し、そこから松山中学を中退して上京するまで住んでいる。子どものころ、橙(だいだい)を投げ合って遊んだ回想の句

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  正月や橙投げる屋敷町

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  野球用語の打者、走者、死球、直球など多くは子規の翻訳であり、1898年(明治22)、東京から帰郷した子規は松山に野球をもたらした。球音求めて、電車道から住宅街にはいり、しばらく行くと、寺の本堂を思わす建物が見える。松山東高の旧藩校明教館講堂が異彩を放っている。

  松山中から移築した東高のシンボルだ。東高から国道隔てて、松山商がある。共に野球の名門校は県大会で名勝負を繰り広げ、甲子園で紫紺の優勝旗を郷土に持ち帰った。いまは私立済美が強豪に成長して名門を押さえ、今治勢が甲子園の道の壁をつくる。グランドのノックは熱く、ユニフォームの高校生に往年の名選手、名場面が重なる。芭蕉没後の俳諧復興に取り組んだ江戸中期の俳人、栗田樗堂、近代俳句を確立した子規。城下の文化の継承と創造の流れは、スポーツの世界にもあてはまる思いを強くする。伝統とは、それを超えるもののみにあるからだ。

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  再び路面電車道へ戻ってきた。ここでひと風呂の気分。電車はごとごとつぶやきながら道後温泉へ案内する。にぎわう共同浴場の浴槽で観察していると、すぐ体をごしごし洗うのは、観光客。地元のお年寄りは浴槽から出て柔軟体操などして、時間を過ごし、また浴槽につかる。風呂を楽しんでいる。夕方には太鼓やぐらが時を告げ、風呂をあとにして町へ出た。松山の発見のひとつに喫茶店の多いことがある。電話帳で400店を数える。しかもおいしいコーヒーを飲ませる。俳句をひねる伝統と関係あるのか、と、想像しながら道後温泉近くの小さな店で「マドンナ」というタルトのついたセットを注文した。子規、漱石の俳句、小説がまちの隅々まで根付いていて味わい深い。 

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  喫茶店のマップに宝厳寺の名前を見つけた。温泉街の坂道の上にある。松山が生んだ文化史上の巨人、一遍の生地の碑が立つ。鎌倉期に大伽藍の下でない仏教の道を拓いた時宗開祖。一遍と子規は時代こそ異なるが、激動期の武士の家に生まれた。ふるさとを離れ、念仏唱えて遠く旅した一遍は星空の下で故郷を思い、子規はふるさとの人情や情景を俳句に詠んだ。伊予路は、交じり合うことのない二人を結びつけ、旅の心に響く。