第6回  京都から長州の旅 その2   2007/12/18  閲覧(339+305)

 萩の城下で門に魅せられた。旧毛利家別邸の門。門にかかる「萩青年の家」が立ち止まらせ、中に招く。旧藩主の門を現代の若者たちが集う入り口に据えた活用は、吉田松陰実学の教え、長州の教育への志を受け継ぐ。最後の藩主13代毛利敬親と志士たちの姿が目に浮かぶ。敗れても再起し、戦った青春と維新の門は、長州いたるところで旅人を迎える。

  萩市の中心部、松並木と木造校舎の明倫小学校は、藩校新明倫館跡に建っている。文武両道の施設、水練場、練兵場を設け、医学所、西洋学所もここに統合し、まさに総合的な人材育成は、藩主敬親が命運をかけ、重臣でもない、大組村田清風にゆだね、断行した藩政改革の一方の柱になった。藩士でなくとも志あるものは、勝手次第、袴着用のうえ、まかり出べき候と、門戸を開いた。

  文久3年、藩主敬親は、幕命を無視して藩庁を萩から山口へ移す決断をした。藩校明倫館跡から新堀川沿いの萩バスセンター前に、かつての萩と山口を結ぶ萩往還起点の唐樋の札場跡がある。ここから山口を経て瀬戸内側の三田尻まで12里(48km)の道だ。

  萩往還の道は、札場から4ほどしてゆるやかな坂を迎える。悴坂は萩を遠望できる最初の峠で、街道に涙松の碑が立つ。吉田松陰安政6年、江戸伝馬町へ送られるとき、ここで歌を詠んだ。


 帰らじと 思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな

 峠を下ると、下関への赤間関街道が分岐している。この道を志士たちは走った。

  山口藩庁門。緑が目にしみいる門前で、激動の文久3年5月をたぐりよせる。下関通過の外国船への攘夷決行に米・仏軍艦が報復。藩庁は、攘夷、開国に揺れた。敬親は、上海から帰国後、御殿山の英国公使館焼き討ちして、頭まるめた高杉晋作を呼び寄せ、藩の危機を25歳の若者に託した。家老格の身分と偽って交渉の晋作は、賠償金、関門海峡彦島の租借要求をはねつけ、撤回させている。藩主敬親はなにごとも丸投げの藩主評があるが、要所の人材起用は、実に果断だった。

  長州の維新源流の松陰神社内に松下村塾を訪ねた。晋作が松陰の教えを受けたのは、松陰刑死までのわずか1年にすぎない。ここで蛤門挙兵を指揮し、戦死した久坂玄瑞に出会う。玄瑞は松陰の妹を妻にし、晋作とともに英国公使館を焼き討ちでは行動を共にするが、4年後、蛤門の変になった上洛では対立した。松下村塾双璧とも生涯のライバルといわれる。けっして身分の高くない若者が通い、大きく巣だっていった小さな学舎。倒幕、維新の源流である。


  長州藩をここまで倒幕、維新に駆りたてた理由は、いささか横溝正史風にいえば反徳川の歴史にたどりつく。萩の町を歩いて気づくのは地形。関が原戦後、広島を追われた毛利一族が目にした萩の風景は「もってのほかの田舎にて竹林茂り、砂塵まきあがる荒地」でしかなかった。築城とまちづくりは困難をきわめ、さらに萩転封の条件に120万石から36万石減封の差額の年貢約80万石を治めると、あり、今日風にいえば破綻が待っていた。取り潰しより、転封を選んだ幕府の狙いがそこにあった。時代的には250年の歳月は流れても、ことあるごとに語り継がれたにちがいない。維新前夜の藩主敬親のある行動が過ぎし日々を呼び戻した。その足跡を岩国に求めた。


  山口藩庁移転の直前の文久3年2月、敬親は京都から帰途、前触れもなく、分家吉川経幹を訪れた。毛利元就から3代目の輝元の時、関が原合戦が起こり、輝元は大阪方についたが、元就次男の吉川元春の子広家は徳川方に毛利存続をはたらきかけ、輝元は西軍総大将でありながら動かず、後方待機のまま引き上げた。しかし、合戦後の徳川は中国地方10カ国を押さえ広島城主の輝元に長門・周防の2国しか渡さず、広島明け渡しを命じた。萩での築城と家臣リストラを余儀なくされた毛利の徳川への怒りはこの措置に端を発している。恭順を画策した分家吉川広家と宗家の間には、以来、目に見えない溝ができていた。敬親の訪問は永年のわだかまりを解き、元就時代に立ち戻り、一丸になって幕府に立ち向かうしかないという意思表示であった。経幹も同じだった。病身でありながら経幹は第1次長州征伐の幕府との和議に単身乗り込み、また第2次長州征伐戦では幕府と戦い、勝利に貢献した。しかし、明治維新後の会津藩への仕打ちは、勝者と敗者の理を越えており、さながら戦国時代の図式である。教育、思想で維新をリードした長州に光と陰を見るのは私だけだろうか。それだけに維新前夜の高杉晋作29歳の死が惜しまれてならない。