第5回 京都から長州への旅 〜1〜 2007/11/27 閲覧(732+904)


     維新の源流、吉田松陰は、弟子たちに説いた。「地を離れて、人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、まず地理を見よ」。旅の勧めである。京都の維新前夜めぐりをしているうち、松陰の言葉に出会った。維新後の藩閥政治は距離をおいて見ているが、維新前夜、京都で敗れても、なお再起して倒幕に向かった長州藩のエネルギーには感嘆するしかない。その源泉知るには、地を見なくてはいけない。長州は大きく歩かねばならない。海をのぞみ、山を越え、川のほとりにたたずむ。幻か。維新の扉から、飛び出す志士たちの姿を見た。
 
     この旅は京都御所の蛤御門前から始まる。蛤御門は9つある京都御所のひとつで江戸時代の様式を伝えている。烏丸通に面したこの門は禁裏の門が正式名称で、開かずの門になっていた。1788年の大火で初めて門が開かれことから焼けて口をあける蛤に例えられ、蛤門が呼び名になった。京都のユーモアと風刺が実によくきいている。御所9門の中で最も名高いのは1864年(元治1)の蛤門の変(禁門の変)の舞台になったからだ。御所警護の会津薩摩藩長州藩が京都の主導権をめぐり衝突。黒船来航以後の尊王攘夷運動の高まりは、京都を政治の表舞台にしていた。天皇と幕府の融和による公武合体派と倒幕派に分れ、御所を巻き込んだ主導権争いを繰り広げてきた。

     長州は攘夷倒幕の先頭に立ち、1863年(文久3)5月には下関海峡通過するアメリカ船、フランス船に砲撃している。8月、長州の砲撃に対する報復を恐れた御所内で8・18政変が起こり、尊攘派三条実美ら公家の追放、御所警護の長州も任を解かれ、藩主親子は謹慎を命じられた。維新前夜の最初の敗北である。
     長州藩士は潜行し、活動するが、翌1864年、池田屋事件発生を機に藩論は上洛に傾き、京都で挙兵したのが蛤門の変。この時の藩論は、上洛派と、再起の力を蓄え、次ぎに備える慎重派に割れた。興味深いのは上洛強行を唱えたのは松陰愛弟子の久坂玄瑞、藩重臣と、都落ちしていた三条らの公家らであり、高杉晋作桂小五郎らは上洛反対に回った。若手の突き上げで腰をあげたのではなかった。

     7月19日早朝、伏見街道を北進した長州勢は彦根大垣藩と戦端を開き、嵐山から御所へ向かった木島又兵衛率いる本隊が蛤門を警護する会津藩と衝突した。蛤門の梁にはいまも弾痕が刻まれている。長州2敗。さらに8月、アメリカら連合艦隊が下関を占領し、長州は存廃の危機を迎える。

     蛤門は語りかける。「あの戦争はすごかった。御所周辺は火の海になり、ドンドン焼けというて、いまの京都駅前あたりまで焼いた。東本願寺もこの火事で焼失した」。京都の寺、民家2万6000戸が灰になった。蛤門前の上長者町のお年寄がよく口にする「この前の戦争」は蛤門か、さらにその前の応仁の乱を指しており、京都人の心に深く刻まれている。蛤門をくぐる。御苑の椋の古木は、激戦の生き証人である。長州勢の木島又兵衛はこの木の近くで息絶えた。決起を急ぐあまりの敗戦だった。

     幕府の第1次長州征伐隊が西へ向かった。
     広島で幕府と和議を結び、家老ら関係者の戦死、切腹により、中枢部がいなくなった長州の再起はこれまでと、誰もが思った。しかし、下関で連合国との講和の使者に抜擢された高杉晋作は、香港になるかもしれない列強の圧力下で講和をまとめ、さらにわずか80人の奇兵隊で立ちあがった。藩論を倒幕に統一し、薩摩との同盟を結ぶ。幕府は第2次長州征伐隊を送り込むが藩境で敗れ、維新の流れは倒幕に大きく傾いた。                                                      
                                               (つづく)