第3回 京都きたのやまの里    2007/10/09  閲覧(347+503)

鞍馬を過ぎると、京都交通の路線バスは、どこでも随時停車のメロデイバスに変わる。バス停がなくても、手をあげれば、バスは停まる。杉木立の中を流れるのどかなメロデイは、バス接近の合図の役を果たしている。歩きたい時に歩き、疲れたらバスに乗る。のどがかわけば、湧水でのどをうるおす京都スローライフの道は、峠の里に通じている。

花脊峠(759)。冬から春ならここを境に、風景は一変する。峠の北は雪の中、道は両側に雪壁をつくる。京都中心部からわずか1時間たらずの地域が日本海側と同じ雪国になる。花脊の雪どけ水はいったん北へ流れるが、峠よりさらに北の佐々里峠を源流にする大堰川と合流して桂川に注ぐ。京都市だから加茂川に注ぐと思いがちであるが、北行きから西行きに大きく蛇行しながら、亀岡を経て嵐山経由で桂川になる。回りくどい水の旅は花の京を背に進んでいても、流れは京にいつか、たどりつく。明治に花脊峠が開かれるまでは西隣の京北町芹生より山道を歩いて別所へ入り、木材、木炭の運搬は大堰川経由で嵯峨へ運んだ。夏は涼しい。高原の趣があり、暑い市内を逃げるには格好の場である。

峠の最初の里は花脊別所。花脊は普通、背を使うが、正しくは脊である。都を背にして行くから、南に広がる都の背骨の山、北山の懐にあるので花脊など語源につては、諸説がある。眼下の山間に民家が並び、峠越えの風景は劇的なほど美しく、かつて北山を歩いた山男たちは、はるかヒマラヤの里に例えた。別所は古くは天台宗の念仏別所があった。峠を下り、道沿いの福田寺(曹洞宗)かつて叡山3千坊のひとつといわれ、平安時代には北方弥勒浄土の地にある寺として信仰を集め、花脊経塚が営まれた歴史を伝える。この塚から黄金の仏(重文・金銅製毘沙門立像)が発掘された。

70年代の民家はかやぶき屋根が大半であったが、いまは、逆にかやぶきは数少なく、花脊でなく「離世」と称した工房、レストランが点在するようになった。民家の表札は「藤井」「物部」が圧倒的で、地域で家を訪ねる場合、苗字でなく名前をいわないと、あわてる羽目になる。土地の人は藤原氏系列の物部氏が住みついたと、語り継ぐ。

工房で数人の子どもがポンプで楽しそうに水をくみ上げているのに出会った。呼び水などというなつかしい説明書きが浮き世離れた気分を誘う。峠の湧水は隠れた名水で京都中心部から車で汲みにくる人も数多い。秋の紅葉時、地域あげての井戸端展は工房の手作りケーキからおばぁちゃんのわら細工、とち餅、山菜、ソバなどが並ぶイベントで人気がある。

つづく