第23回 北海往還 こんぶの道その2 閲覧(298+411)   2008/08/28

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 稚内を朝七時三十七分にでたJR宗谷本線の特急宗谷2号は、旭川に十一時、札幌には十二時十五分に着く。稚内の駅をでた宗谷2号は、素晴らしい眺めを乗客にサ−ビスする。進行方向の右は海。海に浮かぶ利尻富士がここからも、見送っている。荘厳という表現でも言いつくせない海と山だ。このあとは、原野になり、稚内駅で買い込んだ駅弁を食べると、そろそろ眠くなる。

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 函館本線の小樽からは、鈍行にした。インドを旅した時、バスに一日乗り合わせたイギリスの女性が帰り際に、「イッツ、ロンゲストディ」と、いったのを覚えているが、まさにこの日は、JRとともにの長い一日だった。ニセコを過ぎて車内マイクの「次は昆布、昆布」という声に、思わず声をあげた。

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 この山中に、昆布…。停車した時間に、ワンマントレインの運転士に聞くと「みなさん珍しがって写真に撮っている」の説明に、あわてて駅名めざしてシャッタ−を切った。

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 どうしてこんなところに、昆布の地名がついたのか。これは、函館のホテルから電話で蘭越町の職員に問い合わせてわかったのであるが、二つの説が残っている。

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 昆布川、昆布温泉と地名に昆布がつくが、海岸とは離れ、昆布とはなんのゆかりもない地域だ。天変地異で大津波がここまで押し寄せ、昆布が木の枝にひっかかっていた説と、アイヌ語のトコンポ・ヌプリ(小さなコブ山)からついた説。アイヌ語のコブはコブでもコブ違いがどうも有力な気がした。

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 稚内から列車を乗り継いでの長旅は、函館到着が夜になった。函館は、港沿いが毎年、新しくなっている。北市ガラス館が評判をとったころの小樽は、石蔵を改造したランプの喫茶店に東京から学生がそれだけの目的でコーヒーを飲みにくる伝説を生んだ。小樽から北の町の風情が薄らぐいま、函館の喫茶店の片隅にそんな楽しみを見つける若者も結構いるようだ。

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 翌朝、昆布のさきがけ産地の宇賀の浦を探した。立待(たっぴ)岬がかすんでいる。昆布とのつながりを尋ねても、戸惑う地元民から地名の所在地は聞き出せた。

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 湯の川温泉の海岸沿いに石川啄木銅像が立っている。

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 「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇(ばら)よ 今年も吹けるや」

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 啄木が歌った砂浜は道路になり、往時の面影はない。古い地名の宇賀の浦は、かろうじて残った。というのも、現在の風景から「浦」を呼び戻すのは、いくら想像力豊であっても難しい。通りすぎようとして、電柱の地名が目にとまり、ここが探していた場所かと、思いあたった。山と海が近い函館独特の狭い川が海へ注ぐ。川沿いを下って川口には打ち上げられた昆布が波とたわむれていた。

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 函館の昆布は、空港に近い一帯で、わずかに採取され、主力は山隔てた駒ケ岳の東、噴火湾の海岸から恵山岬にかけての海岸に広がる。江戸時代になって函館は昆布主産地の座を降りた。真昆布のトップブランドの白口浜へは、函館から山を越えなくてはいけない。観光客がトラピスチヌ修道院前で降りると、バスは貸切りに近い。バスで一時間余、距離にすれば三十四の山道が深い霧の向こうに続く。真昆布が浜から運ばれた最初の昆布ロードである。京都で「山だし」の銘柄表示を目にするが、利尻や日高、羅臼の産地の横にこの山だしの名前が無造作についている。しかし、もともとは道南の真昆布をさした呼び方だったらしく、由来についての説明はまちまちで、そのひとつに山越えの道説があった。

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 真昆布は室蘭から渡島半島の最南端の恵山岬まで分布しており、最高級品の白口浜は南茅部町を中心にした三十の海岸で採れる昆布をさしている。南茅部町の地図を広げると松前屋の主人が語った「あそこは海といい川がある」という地形に思いあたる。大きな川でなく、海岸の背後の山から人間に例えると、毛細血管のような細い川が海へ流れ込み、この川口の岩場が昆布の海である。白口浜昆布でも別格の尾札部、川汲はなだらかな深い山、そこから三十ほどの渓流が海へ向かって注ぐ。

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 尾札部港の南のトンネルを抜けた黒鷲岬には大謀網漁業発祥の地の碑が立っていた。

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 江戸・延宝五年(一六七七年)に北海道で最初の定置網。昆布の海は、回遊する魚の宝庫でもあった。松前でニシン、コンブ、サケ、マスの取引で成功した能登の与五左衛門が松前からここを訪れて、波打ち際で飛び跳ねるイワシの群れを発見したのが昆布産地を開拓のきっかけになった。

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 清流が注ぎ込む海と、昆布。山と川、海と昆布はつながっている。もうひとつ、付け加えるなら、山の地質が昆布の成育に必要なケイ素を多量に含む流紋岩という研究者の調査もある。黒口浜は安山岩と異なることから地質の因果関係の研究も進む。

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 職員が胸を張った。

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 「山の木を保護して、伐採には組合の許可がいる。だから、うちの山は、緑が強い。ナラ、カシがいい。山と川、海は紛れもなく三点セットになっている。白口浜はこの三点セットで生まれ、育った」

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 浜にでると、山、川、海の関係がもっと鮮明になる。川の水と海水が交じり合う岩場が真昆布の成育環境になっているからだ。沖合での昆布漁を予想していたが、浜のすぐそばの岩場で昆布が揺らめいていた。

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 「昆布の成育には光が欠かせない。深い海なら光が届かず、細い、背の高い昆布に成長するが、ここは遠浅ですから、幅ひろの昆布が育つ」

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 大阪の老舗を舞台にした山崎豊子の「暖簾」には、主人公が南茅部に昆布の買いつけに行く場面が登場する。尾札部漁協の昆布談義に加えてもらった。尾札部は昆布を運んだ北前船の関係か、石川県出身者が多い。能登がルーツの下池徹さんは「五月の天候が昆布の成育に影響する。平成九年が豊漁年にあたるが、この年の五月の天候は良かった。雪どけ水と青葉をたたいた雨が地表の落ち葉から浸透して、川へ流れ、海へいく。そこへ陽光がさんさんと照る。ここは、冬の間、栄養豊富な親潮が入り込み、昆布に養分を置いていく。春からは対馬暖流が流れ込み、これが透明度も高く、昆布にとって最高の条件がそろっている」

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 ハモもそうだった。梅雨の雨をくぐっておいしくなる。海水と真水の交じり合う季節に昆布も旬を迎える。東北のカキ養殖業者が川の水の良否がカキの品質に関係ありと、上流の山にブナやカシを植えて、木を守る運動を展開しているが、南茅部は、行政主導で旗振りを務める。幸いにも、山、川、海がひとつの行政区にすっぽりおさまり、広域連携をしなくても、一貫した環境行政に取り組める立地に恵まれている。

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 尾札部は、夏になると、一家あげて昆布採りの船にのった。下池さんも子供の頃から、手伝った。昆布は地元でもめったに口にしないが、船で口がさびしくなると、昆布をなめとけ、といわれて、昆布を口にした。甘い。塩辛い海から揚がる昆布の甘さは、驚きと、昆布への親しみを深めた。

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 「白口と黒口の違いか。昆布の肉質部分の切り口がクリーム色をしているのがここの昆布で白口。黒口は恵山周辺になるが、切り口はもえぎ色をしている。色分けで品質が決まるから、昆布はごまかしがきかない」

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 昆布の色分けを見つけたさきがけは、本土からの移住者ではなかったはずだ。先住民の発見によるものだろう。奈良時代に、蝦夷の酋長スガキミノコマヒルの先祖が昆布を献上した歴史からも、想像がつく。昆布はアイヌ語のコンプ、クンプが語源といわれ、日高地方のアイヌは七月から九月にかけて海に潜って、刃物で昆布を切り、シケで打ち上げられた「寄り昆布」の中から肉の厚いものを晴天下で干した。それも一気に干し上げて保存用にした。半乾きは水分を含み、腐って味が悪くなるため、シケ後の晴天下しか、昆布採りをしなかったという。現代の昆布乾燥法マニュアルにそっくり使えるアイヌの暮らしの一端だ。尾札部浜でも、移住者が来るはるか昔、まだ自然なままの海と暮らしの時代に、発明、発見の天才の子どもたちが、なめてこれは甘い、白い、黒いと、互いに遊んだ光景が目に浮かぶ。

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 天然昆布の収穫は、利尻同様に、真昆布の産地でも深刻になってきた。養殖が進み、養殖七に対して天然は三の割合になった。尾札部での養殖昆布試験は、昭和三十七年。淡路や若狭でなんども聞かされた浜の転換点、昭和三十年代後半の時代の変化が北の町にも押し寄せた。産業としての昆布養殖を奨励した町にとって、四十年後には、天然昆布をいかに守っていくかが、町の課題になるとは予想もしなかった。

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 尾札部の浜の沖合には養殖昆布の位置を示すブイが浮いている。夏の昆布漁は七月の養殖から始まり、土用の頃、天然昆布を収穫する。祇園祭天神祭の季節は、昆布漁の最盛期である。

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 養殖と天然が産地で交じり合うのを避けるため、尾札部では、養殖用の船溜まりと天然の船溜まりを区別する。拾いものといって、打ち上げられる昆布の採取者は決まっており勝手に浜で拾うことも許されない。

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 養殖普及で変わったのは、天日干しから機械乾燥が増えたこと。一家あげての作業が夫婦単位になり、機械に頼らざるをえない。

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 「かぶれ(カビ)に苦労した。カツオ節のカビはいいカビだが、昆布のカビは味をそこなう。うちのおやじなんか、わらむしろに湯たんぽを入れて、カビを防いでいた。低温保存ができるようになり、そんな手間も昔話ですわ」

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 天日干しはいいとわかっていても、できない浜事情は、天然昆布の白口浜をさらに貴重品扱いしていく。

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 北海道はほとんど昆布を食べない。使っても出汁。出荷するだけの産地が昆布加工を考え始めたのは、ごく最近の話だ。町制三十周年で記録をまとめるため、京都、大阪を視察した際に、改めて知った浜値と流通価格の差。高級品であることから、一般になじみが薄く、このままでは他産地に押されてしまう危機感が背景にあつた。

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 「PRするにも町で味の良さを知らないことには、話にならない。京都の松前屋さんにうかがい、白口浜が加工技術であんな絶品の味になるのか。歴史に磨かれた味でした。うちでも加工品をやってみよう」と、地場産業振興センタ−で試験的に削り昆布、とろろなどに取り組んでいる。尾札部へ訪れる業者や観光客用にもおみやげの昆布をセンターのカウンターに並べた。「献上昆布」のブランド名が光を放つ。

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 「幕府の命で北海道を視察した村上島之充は報告書の『蝦夷嶋奇観』の中で、真昆布について一に曰く天下昆布、または朝廷に献じる絶品と記している。また献上昆布の天日干しの写真も残っており、品質から工程まで手間をかけた」

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 価格は通常の四倍から五倍。昆布の光沢が素晴らしい。文化財のような輝きがある。

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 思いあたるのは、日本の海沿いで姿を消しつつあるものに、産地が手間、ひまかけてつくった干物をあげることができる。一夜干しはあっても、何日も丹精込めて干したあの硬い丸干しにお目にかかることはめったにない。食べると、しぶみがあり、生臭いことは一切ない味だ。干物であって、まるで刃物のごとくぴかっと光る。鮮度の良いイワシを風にあて、日光にさらしてしか完成しない浜の女たちの手仕事だった。産地の暮らし、生活のリズムが消費地に近づき、手仕事の継承は、困難になっている。南茅部は少数精鋭の献上昆布づくりを通じて、これからの昆布産地のあり方を探る。ブランドを守ることと、浜の暮らしを支える地域経済の昆布産業を維持する方策。二者択一でない方策は、簡単に見つかるものでない。浜は岐路にたっていた。

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 南茅部から恵山へかけての国道二七八号線は、海蝕崖の発達した海岸線が続き、トンネルも覚えているだけで五つはくぐった。そそり立つ岩肌に木々が緑の斑点模様を描き、途中、滝も交わり、バスの車窓を山側と海側へ交互に何回か入れ替わった。函館からこんなに近いのに、大沼などと比べて、知名度は低い。津軽海峡の荒波や風、すさまじい自然の力が崖を削り、穴もあけた。海と山が激しくぶつかりあって誕生した風景は真昆布の味に負けぬ絶品と、見飽きることはなかった。

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 バスを椴(とど)法華(ほっけ)でいったん降りた。恵山岬の眺望は、海を見ても、噴煙上げる恵山を振り返っても、東へ、西へ目を向けても、どこをとっても雄大な北海道である。本土から渡った開拓者たちがはるか故郷を遠望し、定住を決意するまでの心情は、想像を絶している。しかし、それは先住民の姿を見落としているのに気づく。アイヌたちの暮らしがあればこその安心、少なくても本土との交易をはじめるまでは、倭人アイヌの心のこもった交流がきっと生まれていたのだろう。岬には、道内で初めての灯台ファミリー博物館がオープンしていた。灯台ができる以前、この海は北の海を目指した数多くの船を呑み込み、来る日も来る日も岩に打ち寄せ、人間をほんろうしてきたに違いない。

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 灯台の光が指し示す方向は、自然と人間の対立でなく、共存の世界であってほしい。悠久の海は、しぶきをあげて、叫んでいる。

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 函館のバスターミナルに夕方、戻ってきた。とても、朝、函館を出発したとは思えないのは、バスに長時間揺られたせいもある。ただ、疲れを感じないさわやかな気分で足が軽い。日没前の港を歩いているうち、末広町で古い店を改造しただけの「昆布館」の前で立ちどまった。観光案内書で知ったわけでもないのに、これも昆布の引き合わせと、偶然の出会いを喜んだ。

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 説明書きから、かつてこのあたりが昆布を中心にした海産物問屋の町であったことを知るが、大正中期のガス灯が迎える内部に大きな揮毫(きごう)がかけてあった。

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 京都も揮毫好きな町であるが、北海道も劣らない。揮毫のいわれを読みはじめて、メモをとらずにいられない心境になった。函館商業校長の吉岡熊雄の揮毫による「徳は海の如し」の解説は、明治から大正の末広町へ時計の針を逆回りさせた。

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 「いらっしゃい。立派な揮毫ですな」

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 「そうなんです。これはうちの店の信条なのです。このあたりのどの店も、これに似た看板をあげています。海への感謝を忘れてはいけない。そこから海はすべての生命の根源であり、海のような広い心を持ち、商いをせよと。商売繁盛の元です」

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 商いにはいる前に客と店員のこんな会話が交わされた。売り買いの前に、おのが信条を語った明治・大正の商人たちの心意気が揮毫からよみがえる。産地偽装の現代からは遠い国の話のような商いの哲学である。