第22回 北の海が育むトップブランド 北海往還 こんぶの道その1  閲覧(174+299) 2008/08/11

  数多い京の老舗で、室町期から続く店は数少ない。一三九二年に昆布の老舗が生まれた。京都市中京区釜座通丸太町下ル、「松前屋」。後亀山天皇から下賜の屋号は、御所の昆布を扱い、 御用達(ごようたし)の歴史そのものだ。
     
  現当主小嶋文右衛門さんが「店を構えても、御所の台所が仕事場で、明治の遷都になり市販に活路を見いだすまで店売りの経験はなかった」と語るように、町商の歴史は浅い。

 昆布は禁裏のおやつにもなった。表面にふく白い粉が昆布の糖分であり、なめると甘いのは、塩昆布しか知らない若者からすれば、意外な味かも知れない。お茶菓子からおやつと、多種多様な使い道があった。

 松前屋には、比呂女(ひろめ)という名前の一子相伝の技術の生んだ昆布が並ぶ。比呂女はえびすめとともに、昆布の古名で、昆布の呼称に比べてどこか雅びに響く。いにしえの味がする。

  松前屋の使う昆布は、北海道の道南、尾礼部(おさつべ)産の真昆布で、「白口浜」がその銘柄だ。 「あそこは、いい山と、川がある。しかし、浜環境の変化でいい昆布は減っている」

  昆布にも、産地によって甘口と辛口があり、白口浜は品質の良さと甘みが特徴の最高級品の折り紙がつく。松前屋の極上品は御膳昆布「ゆきのうへ」。予約してから二年半してもまだ届かないという話も誇張でなく、最高の昆布をそろえ、寝かせてから使うから、予約して二年待つなどは現代の寓話の世界にはいる。

  京都に昆布がまとまって海路運ばれた昆布の始まりは、宇賀昆布といわれ、南北朝から江戸時代初期まで函館の宇賀の浦海岸は、昆布の産地になっていた。まだ北前船の西回りコースが確立していない時代で、敦賀、小浜で荷揚げして、陸路で京都、大阪へ運んだ。

  北前航路が隆盛をきわめ、西回りの下関から瀬戸内、大阪まで昆布が持ち込まれるのは、江戸時代まで待たなければならない。東京が関西に比べて昆布の食文化が多彩でないのは、北海交易からはずれていて、昆布が手に入りにくかったことによる。

  宇賀に続いて、白口浜の昆布が京、大阪へ届く。透明な出汁で京料理に欠かせない利尻はさらに遅れる。昆布にはランクが歴然とある。魚と違って、産地によって味、形がはっきり異なり、用途も分かれる。昆布ロード、この食のさきがけの旅の起点も、錦から始めた。

  塩干ものそばには、決まって昆布が花かつおと並んでいる。産地から離れて食は花開くの例えどおり、京都、大阪で昆布の様々な食べ方が工夫、開発された。銘柄は当然ながらもういろいろ、数えても七種類は越える。これを使い分けるには、すべて特徴を知らないと、いけないが、錦の店に用途をいえば、用意してもらえるから、料理人とって錦はものと情報を手にできる食の博物館。料理人は、なじみの店を持てば、失敗することはない。

  店にまかせてしまい、勉強しない料理人でも、なんとかやっていける弊害もあるが、じっくり養成する時間も人もいない現状では、独自のル−トのある老舗やこだわりの料理屋以外は実に頼りになる」。錦を抜きにして京料理は成り立たない。

  馬場通四条上ルの京昆布の「ぎぼし」。寺、料亭から一般家庭のひいき客を持ち、大阪あたりからも、この店の塩昆布を求めて買い物客が通う店内には、あの昆布をたく匂いがたちこめる。主人の上田敬治さんが昆布ブランドをていねいに解説する。京の町のように話の奥は深い。

  「真こんぶは肉が厚く、幅広い。食べておいしいのはこの昆布。ただ出汁に色がつくから透明感を重んじる懐石をはじめとする京料理の吸い物には使わない。出汁昆布なら利尻が最高のブランド品。やや硬い感じがあるものの、風味、味とも申し分がない。羅臼は味が濃厚でくどいので京料理には向かないが、最近はそれがいいと、人気があり、利尻よりもこちらを好む料理人もいる。日高はやわらかく、昆布巻用に使うので、正月や茶懐石に欠かせない。東京でも需要が多く、品薄感がいつもある。産地で不作になると、値が高くなるのがこの銘柄」

  天然昆布は寝かせると、味がまろやかになる。普通は二年から三年間、倉入りするが、五年待って使う店もある。ちょうどワインと同じで、いい昆布は白口浜何年ものというように、産地、採取年がものをいう。年によって出来ばえに差があり、これだけの情報を板場で集めるためには、何人いるかわからない。昆布出汁は、ぐらぐら煮ると、色がつき、甘みもでるから、熱湯でさっと通すのがコツ。京都では引出し昆布といって、ナベの一方から昆布を入れ、底をくぐらせ、反対側に引き上げる方法があるくらいで、京料理の出汁は、さっと、さっとを合言葉にとる。

  調理場でさきほどの煮込みの香りが強くなった。尾礼部産の真昆布である。親子で煮込みをする上田さんがつぶやく。

  「春から夏にかけて、京の天気よりも、北海道の天気が気になってしょうがいない。ええ昆布に育ってくれているやろか」

  「京都は数多くの食材が育つ、北へのロマンがあり、北の人たちは京へのあこがれがある。そんな互いの風土が出合いって生まれたのが千枚漬けです」」というのは、左京区岡崎の千枚漬け「大安」本店の西田久士さん。千枚漬けに昆布は欠かせない。カブラの真っ白い生地をこわさない味とねばりは、昆布の中でも利尻に代わるものがない。尾札部とともに利尻は高級ブランドの札が下る。昆布の需要が多い関西でも利尻に限っては京都の需要が大半を占める。京料理と京漬けもの。千枚漬けは、そんな京野菜のカブラと、北の昆布の出合いの味。いいもん同士がつくる味は、京名物になった。

  千枚漬けは進物用のため、良質の昆布を使い、しかも大根の白さを失わない昆布となれば利尻産になる。「つけ込んだ昆布は細切りにするとおいしいので、カブラに添えて食べてほしい」と、西田さんは、昆布とカブラの相性の良さをあげた。

  錦の主人が北の空もようが気になるころ、京都市西京区桂でも大窪健三さん(六二)は北の空を見上げていた。利尻島出身。桂で利尻昆布を販売している。ふるさとの昆布を京都で扱ってもう三十年になる。

  「十一人兄妹の五番目。おふくろは働きまくった。おばさんが桂で魚屋をしていて、それを頼って京都へ来たのが十五の時。そのころの利尻の海は、昆布でびっしり、昆布についたウニがポロポロ落ちた」

  新参に厳しい京都で大窪さんが利尻昆布をデパ−トへ納めるようになったのは、大丸の北海道物産展を最初から手伝ったのがきっかけ。利尻の兄たちの漁連が弟を応援して、海産物を送り、デパートとの間に産直ルートを開拓した。

  利尻に夏が近づいていた。

  島にそびえる標高千二百七十一の利尻富士を、なだらかな高原が取り巻き、いたるところに名水が湧く。現在の町名の利尻はアイヌ語のリイシリ(高い山のある島)が語源とされている。北海道の山は、漢字の当て字を使うケースが多いが、羊諦山のようにアイヌ語でない俗称にしてしまった山もある。ニセコKねて、羊蹄山でなく、アイヌの呼んだマッカリヌプリの美しい響きと周囲の風景の調和に感動したことがあるが、その思いはリイシリにもあてはまる。

  利尻の歴史は古い。旧石器時代からすでに人が住み、流氷が打ち寄せるオホ−ツク文化圏時代の遺跡は数多く分布しており、貝塚は豊かな自然をそのままの食生活を現代に伝えている。記録にあらわれる利尻はアイヌの島になっていた。一六七〇年には松前藩の商船がアイヌとの交易しており、幕末には出稼ぎの漁民が進出し、やがて明治になると、アイヌ社会は崩壊していく。初期の開拓移住者は北海道南部地域、青森、秋田からが大半を占め、北陸、山陰、伊勢地域の移住が続いた。タラ、ニシン、昆布が生活の糧になった。道南の昆布漁が利尻でも普及し、真昆布の北前交易に、利尻昆布が加わった。

  利尻、礼文と連なる最果ての二つの島は、京料理に欠かせない利尻ブランドの昆布を供給してきた。最近では稚内周辺の昆布も利尻昆布の銘柄にはいるため、本利尻とも呼ぶ。利尻昆布は細くて、肉が厚く、熱湯に入れても、組織が崩れず、色がでない特質がある。 大窪さんの記憶にある昆布の海だった利尻は、昆布が少なくなり、養殖昆布が主流になった。利尻の養殖は、ロープに仮植した種苗を、秋から冬の間、沖合で育て、波がおさまる春から夏にかけて沿岸へ移動する。

  「波がうるさいから、昆布は抵抗を少なくするため、細く、波に耐える肉厚に育つ。利尻の海の自然が育てたともいえる。天然と養殖の違いは、噛めば噛むほどに味がでるのが天然。養殖よりも、そりゃ、天然がいい。使ったら、すぐわかる。でも、養殖のほうが、幅広く、見場がいい」と、大窪さん。こんな話があった。天然昆布を売った客から虫喰いをあんたの店は扱っている、と苦情がきた。

  「野菜もそうやが、天然の特徴はウニの食べた穴があいている。穴のあいた昆布こそ、天然の証明ですのに、それが、わからない。あのウニが好物にするから、利尻昆布は、いいのです。見た目やのうて、味で勝負するなら、穴は昆布の勲章と思ってほしい」

  料理人が昆布を知らなくなっている。グジのねばりを勘違いする料理人とまったく同じ話だ。京都は素材を大事にする伝統があり、精選して使うから送りこむ側もおのずと、力がはいる。京料理が一目おかれる最大の理由なのに、この目が曇ると、京都も他都市と変わりがなくなってしまう。

  七月は利尻昆布の水揚げの季節を迎える。大窪さんの兄、松夫さんも島で昆布養殖を手がけている。道南で開発された養殖技術が島に伝わり、安定した水揚げが地元にとって大きな魅力だ。養殖事業に着手したのは昭和四十五年だから、ここへたどりつくまでに三十年かかった。この年に、稚内と利尻の最初のカーフェリー、第一宗谷丸が就航した。

  「戦後はタラスケソウ、ニシンを西カムチャッカ樺太付近まで船を繰り出してがんばったな。しかし、ニシンが不振、昆布までだめになった。昭和三十年代かな。そこへ昭和三十九年、沓形の町が大火にあった。ここが戦後の転機で、夏はウニ、秋からは出稼ぎ暮らしが利尻で当たり前になってしまった」

  昭和三十年代は南から北まで日本の歴史の上からも重要なターニングポイントとして、もっと検証されるべきかも知れない。

  「幸運にも育てる昆布の成功者第一号になった。もう必死でした。天然はどれだけの水揚げができるか、ふたをあけてみないと、わからない。だから、島を離れて、出稼ぎにいかなくても、昆布で食べられるようになった。天然ではないが、ここは機械乾燥をしない。天日干しの島。一度、出汁をとった昆布をもういちど、干して使うと、十分にいい出汁がでる。おてんとうさんは、昆布に新しい命を吹き込む」と、松夫さんは、京都の健三さんに昆布販売を託している。

  昆布は採取から乾燥まで一気にやらないと、風味、光沢を損なう。利尻の昆布干しは、日の出に始まり、午後三時までの一日で、ほぼ七割まで乾燥させる。半乾きでしまい込むと、束にした昆布が熱を持ち、白くなる。商品価値が半減する。夏の天候不順は昆布の敵である。島は、魚をとるひまがないほど昆布漁一色に包まれる。島の人間だけでは、採取から天日干しまでとてもできない。この時期は全国から集まった昆布体験のボランティアが一ヵ月、寝泊まりして、島はにぎわう。朝はカジカのミソ汁で目をさまし、夜は焼酎を番茶で割った、バンチュウでの夜の語らいが待っている。ボランティアにとって、一日の疲れを忘れさせる一時だ。島の人にとってもこの語らいを通じて、昆布漁への自信というか、島の自然の素晴らしさを再認識する場でもある。ウニ、昆布資源回復の方策に、近道はない。昨年は四十人が参加した。九月なれば、新昆布が京へ届く。

  浜で小さな磯船を足一本で操りながら、目は海の底へ、蒼い海、昆布とウニを求めていく島の暮らしを眺めていると、一時間という単位は、わずか数分の時間に凝縮するほど時の経つのが早い。とにかく見飽きることはない。良質のドラマの世界に引き込んでいく。

  (次回に続く)