第18回  遠ざかる父の足跡 街道は「きょうとい道」  閲覧(641+523) 2008/05/13

鯖街道 その2〜

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  若狭で「きょうといことやなあ」の会話を聞く。「京都は遠い」が縮められて「きょうとい」になった。しかし、意味は遠いでなく、怖い意味で使う。サバの運搬は、道中に危険が待っていた。追い剥(は)ぎから野犬、さらに京都へ着くと、魚を買いたたかれる。あれこれ推測すると、「京都怖い」では刺激が強すぎて、角が立つ。そこはやんわり、遠いという言葉の中に怖さを隠した若狭風の表現なのかも知れない。

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   「魚を例にすると、京都まで持っていっても、売れなければ捨てるしかない。サバなんか腐ってしまう。買いたたかれても置いてこないとしょうがなかった」から、労の割には実入りの少ない京への道だった。京都への魚の行商で一代を築いた若狭人はまずいない、といわれている。

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   鮮魚の店の並ぶ小浜・泉町は、サバ街道起点の横断幕がかかる。焼きサバの匂(におい)がたちこめる。昭和30年代は、浜で焼くサバの煙が町を包み、焼いても焼いても水揚げのサバが追いかけてきた。馬車で運ぶ荷から落ちるサバをトンビが拾っていた。京都中央市場の記録では昭和初期までは若狭、丹後の魚が大半であったが、30年代になると、長崎、福岡、山口が上位を占め、現在はランキング10位にもはいらない。しかし、地元だけに「地魚」の表示が目につく。あたりまえのことがそうでなくなった産地表示だ。

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  ここの商店街の一角に食堂が店を構えている。大谷食堂。小浜を訪ねたら必ず立ち寄るなじみの旅行客も多い。

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  主人の大谷長二さん。大谷さんの父親は小浜から朽木へ魚を運んだ泉町の朽木屋で魚の担ぎを覚え、十三の時に独立して自分で売りに出た。若狭街道を通らず、名田庄村から堀越峠を越えていく丹波ルートの得意先を開拓した。

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   「大八車、てんびん棒で魚を運び、母も大八を押して手伝っれた。お腹(なか)の大きい時でも、赤ん坊を背負って。お腹の子も背中の子も帯で締められてきつかったのか、私の兄たち五人ともみんな生まれて死ぬか、育たなかった。その両親が、やっと生まれ育った私に残してくれたのがこの店ですわ」

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  小浜の町からサバの道には京都と若狭のつながりが残っている。それも、名所旧跡でない、目をしばたたかせ、鼻をすすりあげて語る食堂の主人の思い出の中に、しまい込まれている。 大谷さんにとってサバ街道は父、母、背負われた兄たちの道である。

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  小浜の大谷さん夫婦の食堂には、昔、父親の得意先がやってくることがある。「おいしかった、まずかった、みなさん思うままにいってくださる。魚が少なくて、この魚が食べたいと思っておいでた人をお断りすることも増えた」と、妻信子さん。信子さんは義父が「おい、丹波料理を食べようか」と、教えてくれたアオリイカを刻んで煮え湯をかける料理が懐かしい。こんな塩して食べる方法もあるのか。浜で育った信子さんには新鮮だった。

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   「朽木(滋賀県)からお年寄りが見えて、ハマチの刺身を食べながら、うちらではハマチの薄塩を刺身にする。甘味が出ておいしいと、聞きました。グジなら知ってますが、ハマチも薄塩で食べるなんて、小浜では考えもつかない」

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  店は息子夫婦が継いだ。ところが、店をやめたいといいだした。時代の流れなのか、どこかがおかしいのか。魚を使うにしても、これが地魚と胸を晴れない浜の事情は、両親が大谷さん夫婦に店を残した時代から激変している。

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  空き店舗対策で隣にサバ街道資料館(www.wakasa-obama.jp/shiru/meisho/sabakaidou.html)ができた。かつての写真がかけてある。父親の掛け帳も出した。サバ街道は親父(おやじ)の道、遠ざかる父、母の背中を求めて足を運ぶ回数がめっきり増えた。


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