第17回  若狭の魚が塩になじんだ京まで18里   閲覧(732+463) 2008/04/18

鯖街道をゆく その1

  京の錦市場では若狭の魚を地ものという。しかし、錦で地ものがめったに並ばない。特に鯖の魚獲減は著しい。鯖寿司用の700グラムの大きさが手にはいらない。錦の魚屋の主人は「お客さんに若狭でっせ、というと、目の色が変わる。若狭から京は18里の道だが、錦からは距離以上に遠い産地になっている。九州の魚のほうが、手にはいりやすいという意味では、京に近い」となげく。

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  京都では浜で塩して京へ運ばれた若狭の魚を若狭一塩(わかさひとしお)と呼んで珍重する。おそらく魚ブランドのさきがけになるだろう。代表格が鯖だ。京から若狭へは6本の道が通じていた。主要道が若狭街道である。一般には鯖街道のほうがわかりやすい。八瀬から大原を経て行く道。70キロの道は歩けば20時間はかかる。車なら2時間余。鯖の道を歩き始めたのは16年前。小浜で鯖を買い、福井県境の熊川へ、そこから県境を越えて近江側の朽木―細川―梅木間を歩いた。後はバスに乗って帰った。この春、桜とコブシが一緒に咲く大原から久しぶりに歩いた。大原からの道は大津市の行政区域に紛地名が途中という集落に出会う。峠をひとつ越えた。峠から見る比良は暮雪、大原は緑に衣装替えしている。

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  若狭街道が鯖の道としてにぎわうのは、大正から昭和にかけての国鉄小浜線開通延長により、小浜―舞鶴経由で京へ魚を運ぶようになるまでである。しかし、鉄道開通でプツンと役目を終えたわけでない。奈良時代から続く日本海の海産物を運んだ道は、鉄道と対抗して飛脚便が残った。7人衆と呼ぶリレー式の人力便がSLとスピードを競った。大原の手前の途中は早朝、小浜出発の便が昼に着いた。鉄道便が二条駅から錦へ着く時間と差はなかった。その鉄道もいまは、トラック便になり、街道は車の道に変わった。

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  車で二時間もあれば小浜から京へたどり着ける便利な現代は、通る魚に比べて昔の道をたずねる人の方がはるかに多い。魚は小浜発であるが、人は反対に京都発でバスを利用しながらの鯖街道歩きが多い。京は遠くても18里でなく、小浜は遠くても18里という観光ルートになった。

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  鯖街道に関して、ひとつのミステリーがある。この呼び方がいつ頃から広まったのか、名づけ親は誰か、わからない。雑誌、新聞では鯖街道は固有名詞になっているが、私の新聞記者の駆け出し時代にはそんな名称はなかった。滋賀県朽木村(現高島市)が平成11年に作成した冊子「鯖の道」は、すでに一般化していた鯖街道にしないで、「鯖の道」にした理由を昭和49年発行の村誌からとったためとしている。当時は鯖街道と、呼ばなかったからだ。冊子編集の高島中学元校長、石田敏さんは「私の記憶では80年代前後、ある小説家が書いたのを読んだ記憶がある。ところが、いくら探してもみつからない。名乗りでる人もいない」と、首をかしげる。福井側で聞いても答えは同じだった。司馬遼太郎週刊朝日に「街道をゆく」連載中の頃で、開いて見るが、そんな記述はない。鯖街道と比較される富山から高山へ通じる飛騨街道がブリ街道と呼び出したのは最近だ。ひとつ、思いあたることがあった。

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  鯖のブランド化が話題になったのは大分の関サバ、関アジキャンペ−エン。89年から92年、九州を振り出しに東京、大阪で開催した。92年に商標登録している。鯖の漁獲減が進み、輸入鯖が急増した時代だ。鯖が時代の脚光をあびた。鯖街道もこんな時代背景の中で埋もれていた言葉が広まったといえる。

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  江戸時代の文献が小浜に残っている。京都の食彩が花開く江戸中期から後期

は、ハモ、タイなど瀬戸内の魚が大阪から淀川の船便で都に運ばれ、現代と相通

じる流通戦争が都を舞台に展開されていた。夜を徹して運ぶのが勝者への道。若

狭街道で魚を運ぶ掛け声が聞こえてくるような記録だ。小浜の市場仲買文書といわ

れ、若狭歴史民俗資料館の永江秀雄さんによれば「吾仲間・永代・記録簿」が表

紙の裏の名前になる。文化十年(1813)の記述のあとにこんな内容の文を記して

いる。

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  「京へ魚を担い、駅継いでいくが、とかく遅くなる。大阪もの、生、炙(あぶり)、

煮薄塩などにて夜を通して早船でのぼり、伊勢阿野津のもの、自ずから担い出て、

雲助にも持って走らせ、その夜、矢橋に着き船で大津へ出荷する。大阪、伊勢も

のが京、大津で張り合い、片時も早く届ける必要あり、近頃は夜通しで運ぶように

なった。夜間の駄賃二割り増し」(注・原文を要約)

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  途中から街道は川沿いの山の中になる。山と山に挟まれ、花折断層が地下を

走っている。この道は琵琶湖西岸の敦賀など北陸へ行く古代からの道のいわば

裏街道で、追いはぎが出没した。舗装され、車の往来のひんぱんな道に昔の面

影はない。

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  ぽつん、ぽつんとある集落の残る街道筋に「サバ寿司」の看板が増えている。

福井県境を前にした近江側の集落が旧朽木村。京まで10里、若狭8里の中間点

である。鎌倉期から続く名門、朽木氏が治め、室町期には都を追われた12代将

足利義晴が3年間、ここ朽木谷へ身を寄せた。近江であって京風の文化が根

付き、日本海文化と融合している。鄙にはまれな雅の里だ。日曜の朝は、遠方か

らのマイカーでにぎわう。朝市名物のサバ寿司が目玉になっている。朽木から近

江最後の集落、保坂を経て行く九里半越えの先に福井県上中町熊川がある。熊

川は小浜から四里半、歩いて五時間強のかつての宿場町。日本海の海産物が

集まり、京都、大阪までの中継地だった。

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  熊川きって旧家蔵見屋の萩野たか子さんと、以前、立ち話していて京言葉なの

に気づき、京都から嫁入りしてきたことを知った。頼山陽吉野葛よりも上質と評価し

た熊川葛は、いまも京都へと納めている。亡くなった荻野さんが、ここでは負い縄

一本あれば生活できた、と語った物流の要所は京まで十五里、六十キロの道のり

になる。

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  「鯖寿司はよく食べるのですか」と、地元のお年寄りに聞くと、「祭り以外はめった

と、つくらない。ところが鯖街道で町が知られ、立ち寄る観光客から食べたいと、い

いなさるので、家庭でつくるようになった」の答えが返ってきた。古老の一人は「鯖

寿司は福井から離れるほどうまい。いまは、福井も工夫して味も負けんが、昔は京

や近江の味にかなわんかった」と、食べ比べの経験を語る。

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  熊川あたりは山の中でも浜に近く、新鮮な魚がはいり、料理に工夫がいらない。

ところが近江に行くと、凝ったつくりをする。浜から離れるにつれて鯖は貴重品になり、

塩もなじみ、味がねれる。海沿いは魚の鮮度で食べる。料理に手間がかからない。

確かに近江側の集落では「あそこのおばあちゃんが名人」という自慢話にいたると

ころでぶつかった。家で食べるよりも、京や大津の親戚の届け物にした。保存食の

役割もさることながら、親戚、知人への変わらぬ付き合いの印が鯖寿司交換だった。

我が家の味が外へ出るから、おのずと洗練されてくる。鯖寿司の届いた京の家など

は想像するだけでも楽しくなるにぎやかさに包まれただろう。やはり、京のほうが塩

になじんでいる。若狭に近いだけに鯖の臭みがないなどと互いの味評が飛びかった

に違いない。なんやかんやいっても、腕の違い、と結論づけた女たちの腕まくり姿が

目に浮かぶ。

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