第15回  はるばると曇りなき庭 御所のしだれ桜は早や満開  閲覧(328+453)  2008/04/01



 花が誘う。見ごろの桜を探しに、出かけてみたものの、目当ての桜はまだつぼみだった。同志社沿いの今出川通河原町通へ歩きだして、思わず「さくら」と、呼んでしまった。

 冷泉家の塀越しに、ソメイヨシノが満開に近い。今出川通に、何本かの桜が植えてあるが、同志社のレンガの校舎を背景にしたこの一本が鮮やかに咲いていた。それも、開花が遅いソメイヨシノ。京の桜がつぼみふくらむの頃なのに、ここは早い。都の魁である。

 冷泉家は御所と今出川通隔てて向かいあう。御苑内の桜の様子は通りからわからないから、冷泉家の桜は案内役だ。御所の桜が呼んでいる。そんな気がして、予定変更し、御所の今出川門をくぐった。三月二十八日の昼下がり、御苑近衛邸跡までくると、糸桜(枝垂桜)が春風に揺れ、花の舞の最中。御所の桜はもともと、糸桜と呼ぶ枝垂れ桜と山桜が中心で、近衛邸跡は、糸桜の名所で知られ、歌に詠まれた。

 昔より名には聞けどもきょう見ればむへめかれせぬ糸桜哉(孝明天皇

 早咲きで知られるだけに、もう満開になっていた。ソメイヨシノと違い、枝垂れ桜はつぼみから開花まで優雅である。ちょうどピンクでぼかしたように、木の回りを染めている。

 源氏物語千年紀の行事が京都で始まっているが、源氏物語「8帖花の宴の巻」は、きさらぎの二十日余り、南殿(紫宸殿)の桜の宴せさせたまふ、と書き出している。二月下旬といえば、早く聞こえるが、旧暦だから三月下旬、ちょうど今ごろ、御所の南殿で花見の宴が開かれていた。

 近衛邸跡からずっと南の紫宸殿の庭、広々とした庭は、はるばると曇りなき庭と称され、左近の桜が植えられていた。ただ、源氏物語の頃の御所は、現在地から西にあり、南北朝の混乱期に光厳天皇が仮皇居のあった里内裏で即位し、ここを御所に定め、明治まで続いた。徳川時代の整備で建物、敷地の輪郭ができた。特に紫宸殿は天明年間(1788)の火災焼失後、平安期の姿で復元され、源氏物語の舞台がよみがえった。

 ソメイヨシノは江戸後期の花で、もちろん当時は山桜。近衛邸跡にも枝垂れとともに、山桜も混じる。桜の下に立っていると、源氏物語の宴がまるで現実の世界のごとく、浮かんでくる。その夜、源氏は、朧月夜の君と一夜を過ごした。

 天皇の日常住まいの清涼殿での酒宴が終わり、夜も半ば過ぎていた。たずねるつもりの藤壺の御殿はピシャリと閉められ、源氏の入る余地がない。がっかりして向かい側の細殿の三の口に手をかけて見れば、するすると開いた。これが朧月夜の君との出会いになった。皇太子妃に上がることになっている姫君。照りもせず曇りでもない朧月夜の春の夜はあやしげだ。夜桜は、なぜか、心高ぶらせる。お膳立てはできていた春の夜だった。

 源氏物語の世界から、現実に戻るのは時間がかかる。夢か。のどかな春の日差しが、いやおうなくテンポを遅くする。近衛邸跡では、自転車のお年寄りがベンチで、持参のバッテラ寿司をほおばりながら花見していた。桜と対話するぜいたくさ。コブシ、梅、桃の花の競演も春の御所のみどころでもある


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