第14回 京都センチメンタルジャニー 2008/03/22 閲覧(462+282)

〜坂と丘のうえの下宿町〜


 卒業、入学の春を迎えた。学生の町、京都は引越しのトラックがフル回転している。相変わりませずの京都で様変わりの代表といえば、学生生活だ。かつては下宿暮らしが当たり前だったが、いまは、ワンルームのバス、トイレ付きを学生は選ぶ。京都を訪れる年輩の観光客の定番コースがある。名所旧跡ではない学生時代を過ごした下宿の町の散策。電化製品に囲まれた現代若者たちへ贈る旅は、祖父母、父、母の題して「京都センチメンタルジャニー」。

 吉田神楽岡神楽岡は吉田山の別称で、吉田本通から東に通じる道が神楽坂である。オールドボーイたちはこの界隈を京都のアルトハイデルベルグと呼んだ。かつては京都の学生下宿が集中する坂道と丘の上の町だ。アルトハイデルベルグはドイツの著名な大学都市。明治、大正の留学先といえば、ドイツ中心で、学生たちのあこがれの地だった。このハイデルベルグで学生生活を過したドイツ皇太子とレストラン娘のはかない恋を描いた小説の題名であるが、オールドボーイ神楽岡を小説に重ねて、ゲタの音を響かせて歩いた。その神楽坂から足音がしなくなった。学生たちはバイク、自転車で坂道をのぼり、くだりする。しかし、ワンルームマンション主流ながらも、昔ながらの学生下宿は健在である。

 京都の学生下宿は吉田周辺で始まり、北白川、浄土寺方面へ広がっていく。賄いつきが少なく、学生食堂が繁栄したのも京都の特徴といえる。孫を抱いて散歩中の年輩の男性を呼びとめ、神楽坂名物だった「大学湯」の話を持ち出すと、最初は迷惑そうにしていた男性の口がなめらかになった。「古い話やな。もう30年前にフロ屋は廃業した。ここで育ったから、なつかしい。戦前まではこの坂にはブセン(平安神宮西にあった教員養成の武術専門学校)の寮や、山口出身者の学生下宿があり、三高、京大は神楽岡に多かった。そら、1日中、ゲタの音が絶えなかった」と、話はつきない。

 こんな話もあった。近所の評判の娘がフロへ行くのを下宿2階から見届け、数人が先回りして大学湯の番台で待っていた。わざわざ、大きな札を出してつり銭をもらう時間稼ぎのすきに女湯の脱衣場をのぞく。そんな坂道を先回りするゲタ音が響いた。フロへはいれば、大先生とばったり、裸のふれあいも珍しいことではなかった。外人留学生の隠さない持ち物の大きさにびっくりもした。過ぎし日は美しく、現代になると、話は生々しくなる。

 「うちにも学生がいたが、いつのまにか、女の子が一緒に下宿する。その相手が4年で何人変わったと思う。5人ですよ。銭湯にしても、昔の男子学生は手ぬぐいひとつ、ところが最近は洗面器に化粧水からシャンプー、リンスの山盛りが普通。身奇麗になったのを喜ぶべきかどうか」

 坂道から神楽岡へ歩く。神楽岡界隈は名刹が並ぶ。黒谷さんで知られる金戒光明寺(浄土宗本山)は法然が最初に庵を結んだ寺。豪壮な構えから黒谷を庇護した徳川家康以来、徳川家の隠し城ともいわれ、幕末には京都守護職本陣があった。会津藩松平容保近藤勇芹沢鴨と会い、新撰組が生まれた地でもある。御所まで2キロの道は動乱の京都を治める要衝にふさわしく、52の塔頭会津藩士の宿舎になった。黒谷の北には真如堂がある。

 ある塔頭の住職は下宿生とのつながりを説明する。「どの塔頭寺も下宿生を置いていましたな。以前、下宿生が火事騒ぎを起こしたことがありました。この学生が出世して、えらい迷惑をかけましたと、多額の寄付をしたそうです」

 黒谷周辺は、戦前、大学自治の弾圧例として有名な滝川事件で京大を去り、立命館総長を勤めた故末川博の散歩道にあたり、静かなたたずまいは散策コースになっている。

 神楽坂に戻る道沿いで洗濯ものを干しているおばあちゃんに会った。「27年間、下宿の学生の世話をしましたんや。初月給で贈り物をもらい、子どもが生まれたら、こっちが祝いを贈る。6人の学生がいましたけど、消息のつかめないのは大学紛争の時の一人だけ。どこにいるのやら」

 現在の下宿代は4.5畳で2万円前後が相場とか。ワンルームに比べて割安である。経済的理由から下宿を選ぶ学生は多いが、就職時の意外な下宿効果から先輩、親に勧められ、下宿する学生もいる。三高生いらいの下宿人脈である。

 「就職試験で前にドーンと座っている質問者が、同じ下宿の出身者であった例は珍しいことではないですよ」と、神楽岡住人は語る。学生たちがめんめんと続く結び付きの強さを感じるのは、やはり就職時と会社に勤めてからだ。おばちゃんたちから見た現代学生は?

 「学生はこま(小さくの意)なりました。よく気がつく半面、面白みがない。荷物といえば、ないのは嫁さんぐらいの電気製品の山ですやろ。天井がぬけんかと心配するほどです」

 下宿生活の経験のある京大教授は「いまの学生は甘やかされ、実利的ですが、自分たちの時代と比べて学生が大きく変わったというよりも、昔はなにをしても許された時代でした。大学と市民のつながりもできていました」と、学生をとりまく環境の変化をあげる。深夜、部屋でシコを踏み、2階から堂々の放尿などかつての青春の再現は無理だろう。

 「いろいろ、いわれる若い人ですが、時々、アレッという表情を見せるんです。特に夕方、電気をつけたあと、ぼんやり座っていますわ。そんな時、声をかけてあげると、ほっとした顔でこっちを見る。私のほうがうれしくなって」

 学生食堂の主人は「昔は食べるのが楽しみ。食べっぷりもそら迫力がありました。ご飯と味噌汁は食べ放題でしたから。いまは、食べることを始末してますよ。魚はだめで肉、油ものが好きですね。以前、サラ洗いのアルバイトの学生さんが、ここで友人だけの結婚式をあげました。長いことこの商売していて、あんな嬉しいことはなかった」と、鼻声になった。ほのぼのとしたいい話に、現代の若者たちもなかなかやるではないか、と、見なおした。昔の下宿生活を実践しているのは、ほかならぬ外国人留学生だろう。食堂に下宿のおばさんを連れてきて、食事しながら会話を楽しみ、客の学生とも親しくなる。下宿コミュニティーの舞台が食堂になっている。

 神楽坂に灯りがついた。春の夜風が心地良い。アルトハイデルベルヒに日は落ちてと、にわか詩人になって坂を降りようか。

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