第114回 世界で唯一の淡水湖の集落、沖島をゆく

  〜琵琶湖最大の島で人と猫が共生

   夏の終わりに琵琶湖で久しぶりに泳いだ。10年前、次男とダブルスカルで瀬田川から近江大橋まで漕いだことがある。風が強く、艇は沈(ちん)して真冬の琵琶 湖を泳ぐ経験をした。それ以来の水泳である。琵琶湖は周囲235キロもある。淡路島がすっぽり入る面積のため、神々が現在の琵琶湖のあるあたりを杖でかき まわし、すくいあげて海に落としたのが淡路島。形も良く似ている。そのあとが湖になったという神話である。
  地質学的には日本列島が折れ曲がる地にある琵琶湖はもともと三重県伊賀上野あたりに生れ、北へ移動し、300万年前に古琵琶湖のかたちになった。その後、 湖西と伊賀方面が隆起して比良、鈴鹿山脈に囲まれた。北湖は広く、深く水も澄んでいる。南湖は浅く、水質を示す透明度はよくない。近畿の水瓶と呼ばれる琵 琶湖であるが、この呼称には滋賀県は反発する。琵琶湖の生態系は日々、営みを続け、水を貯めるだけの瓶ではないからだ。 40年前、国土開発の波にのり、 琵琶湖総合開発が施行された。近畿の飲料水の安定確保を目的にしていたが、周辺整備で内湖の干拓、護岸整備というコンクリート化が計画に盛り込まれ、知事 選の争点になり、推進派の自民党知事が落選し、生態系重視派が当選。全国初の合成洗剤を規制する石鹸条例が制定された。
  当時、県庁担当だった私は、建設省官僚から琵琶湖をコンクリートで固め、川の上流にはダムをつくり、下水道を整備して水質を守るプランを聞いたことがある。
  人の管理する水瓶は効率的ながら、琵琶湖300万年の歴史を無にする傲慢な試みだった。あれから40年すぎ、水質は改善、生態系も維持されてきた。
          
  今回でかけたのは沖島。ちょうど琵琶湖の中央線に近い湖岸から1キロ余沖に浮かぶ周囲12キロの島。JR近江八幡駅を降りて北を望むと、鳥が羽を広げた形の山が八幡山。信長死後、秀吉の甥、豊臣秀次安土城下をそっくり移して出来た城下町は、江戸時代には近江商人を輩出し、明治にはアメリカ人青年宣教師ボーリズが英語教師からスタートして建築や薬品、医療の事業を成功させた。
  沖島八幡山の裏にあたる水郷の内湖沿いを車で30分ほど走り、連絡船の乗り場に着く。沖島(おきしま)、沖の島ともいうが、1時間に1本の連絡船が対岸の 宮ヶ浜の間を往復、辺鄙な島のイメージはない。意外なのは世界の淡水湖で人が集落を形成しているのはここだけでしかない。つまり、湖の島の暮らしが息づ く、極めて珍しい民俗を残している。
  連絡船は蒼い湖面を波たてて進む。旧三高生たちがボートで琵琶湖周航した2泊3日の後半部分が近江八幡周辺である。加藤登紀子らの歌う琵琶湖周航歌は3番ま でであるが、近江八幡は6番の歌詞に登場するため、歌われることはまずない。旧三高生らは「なんといっても6番がいい」と、なつかしがる。
    ♪♪西国十番、長命寺 汚れの現世 遠く去りて
     黄金の波に いざ漕がん 語れわが友 熱きこころ
  最初の「西国十番、長命寺」は正しくは三十一番札所である。三十一番では歌いにくいから十番にしたという大らかな話が残る。長命寺沖島の対岸にある古刹。 聖徳太子ゆかりの寺は高さ300㍍の山の中腹にある。1800年前、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5帝に仕えた武内宿禰がここで長寿を祈り、300歳ま で生きた故事から西国札所めぐりの人気スポットになった。桟橋から流れる就航歌を聞きながらの参拝は、旅情豊かに心にしみる。
  安土城は寺から南東に位置し、朝夕の鐘が内湖へだてて天守の信長まで届いた。いまも鐘は琵琶湖を伝い、安土に届く。
  関西以外の人で沖島を知るのはまれだ。実際に島を訪れたことのある滋賀県民も多くない。世間の注目をあびることのなかった島も近年の離党ブームで観光客が増 え、民宿、喫茶店がぽつり、ぽつりと開業し、観光地の体裁を整えている。むろん、島に車はない。足は3輪自転車と船である。集落は島の南にあつまり、北は 岩場になっている。ボートで回る島の北沖は水深40㍍あり、青々とした水を手ですくい、飲んでみると甘みを感じる。 最近まで島の飲料水はすべて琵琶湖で まかなってきた。
          
  船着場に向かって右に沖島小の校舎がみえる。児童数は10人の小規模校である。中学は対岸の中学へ船で通うが、沖島の自然を生かした授業は注目され、オープ ンスクールには各地から子どもたちが集り、島の子どもと交流する。「あぶない」「やめとけ」が親の口癖の昨今、ここではのびのび授業だ。車の心配がない。 島を自由に動き回り、ウナギ釣りから遠泳など全校児童がスポーツに取り組み、国語の授業は小規模校のハンデを克服するため、全校児童の前で発表する表現力 を重視している。
  島の学校から島外の学校に通う例は多いが、ここでは逆で島外の学校から船で通学する児童がいる。近江八幡市は 校区以外からの通学を認めているため、学校の環境や授業内容に惹かれた親が通わせている。この春にも町から二人が入学、先生たちと毎日、船通学している。 塾もない離島を教育の原点に選び、子どもと向き合う教師はたくましい。いじめなどここでは死語なのだ。明治8年、お寺の本堂で沖島小は産声をあげた。明治 維新から8年でこの島に学校をつくった明治の教育。1960年(昭和35)の児童は129人にのぼった。校庭は子どもであふれていただろう。
          
  夏休みの学校の前で島の歴史をひもとく。島の歴史は古い。奈良期の和銅開珎通貨が発掘され、この時代から往来があったことがわかる。平安中期に源満仲の家臣 が島に住み着いたといわれるが、定かでない。南北朝時代には水軍の基地になり、当時、近江を支配していた近江源氏の六角氏の湖上関所があったという。信 長、秀吉までは琵琶湖の水運を担い、信長、秀吉、家康から漁業権を与えられ、明治以降も漁業が島の生業になっている。江戸時代から明治にかけて島北の石英 岩産地から石の切り出しが行われ、東海道線や近江の土木事業の礎を提供したことがある。
  沖島の朝は、漁村同様に早い。100隻も船がでかける。島周辺は魚の宝庫で知られ、琵琶湖の漁業は沖島が他所を引き離してトップを占めている。島の東にはエ リが仕掛けられ、上空から眺めると、幾何学様な形を描き、琵琶湖の風物詩になっている。海の定置網に相当する伝統漁法である。平安時代には歌の題材にな り、「ささき津に簀(す)かきさ干せり春海にえりさす民のし業ならしも」と、歌った。ささき津というのは沖島の東、安土近くで、かつての琵琶湖は現在の安 土城跡あたりまで広がっていた。
          
  エリは対岸に近い、魚の通路に簀をしかけ、後ろへ下れない習性を利用してエリの奥へ誘い込み、網ですくう漁法だ。魚を傷めず、鮮度を保てることから料亭など が得意先である。エビ、アユ、イササザ、ハス、シジミ、フナなどが主な魚。寿司の原流の滋賀県名物の臭いのする鮒寿司も島で漬け込み、出荷しているが、沖 島小の子どもたちも漬け込みを学んでいる。くせのある醗酵酸味は炊いた米をニゴロフナの腹に詰め、半年ほど保存して正月に食べるハレの料理。これを肴にし て飲むと、まず悪酔いの心配はない。ただ、あの臭いが苦手の人も多く、進物でもらった家が腐った魚を送ってきたと、捨てたという話がいつも引き合いにださ れる。私などご飯の上に切り身を並べ、熱湯をかけて食べるお茶漬けが好きだ。
  この鮒寿司もニゴロフナの漁獲が大幅に減少し、家庭の味が高級料理になってしまった。
          
  漁船が帰港すると、島のどこからとなく猫が集ってくる。水揚げのこぼれ魚をちょうだいするわけで、猫にとってはねている小魚の朝食だ。島には猫に「エサをや らないで」と、表示があり、猫たちは朝の魚や島の小動物をエサにしているようだ。これは見たわけでなく写真で知ったのであるが、船からこぼれて、船着場に 浮いている魚を猫が器用にすくいあげるという。子猫たちも学習して真似るというから微笑ましい。猫好きにはその話だけで一日が心豊かになる。あ、えらい こっちゃ。旅先で猫は禁物。家で留守番のニャンコを思い出した。もう景色もうわのそら、ベテイとボンの顔が思い浮かび、帰路を急ぐことになる。
  メモ 長命寺  西 国31番札所。寺伝によると、景行天皇の時代に武内宿禰が長寿祈願し、聖徳太子も参拝して堂宇を建て、自ら観世菩薩像刻んで本尊とし、宿禰の長寿にちなみ 長命寺命名した。鎌倉期には頼朝の名を受けた近江佐々木源氏が七堂伽藍、鐘楼、僧坊を整え、延暦寺別院として隆昌した。兵火に遭うも再建され、信長、秀 吉、家康の時代に再建の堂宇は重要文化財に指定。鐘楼の鐘は突くことができ、琵琶湖にながれる鐘の音は心にしみる。門前の石段は808段あり、年輩者には きつい。石段脇に車であがれる道が救いの道。
  近江八幡休暇村  沖島の対岸にある休暇村。湖岸と山沿いに2棟あり、部屋からは琵琶湖が一望できる。近江牛をつかった料理、琵琶湖特産の佃煮、冬はカモ鍋も提供する。温泉露店風呂がある。休暇村出発の沖島さんぽとクルージングが毎土、日に出ている。電話0748(32)3138