第115回 暗殺後に幕府、息子、家臣から排斥された井伊直弼

  〜藩論二転三転して徳川に引導の彦根藩の幕末〜

  
  彦根へは年に何回かはでかける。彦根城と周辺散策、さらには湖東三山めぐりの帰りに立ち寄ることもある。9月は城の庭、玄宮園で虫の声を聞く風流な催しが開 かれ、虫の声を聞きながら、茶人直弼をしのんでいる。今年は彦根城博物館井伊直弼生誕200年記念展示が開かれている。幕末の大老井伊直弼ほど評価が分 かれた藩主もまれだ。桜田門で水戸浪士らによる襲撃死した直弼は、死後、後継の実子直憲から家老にいたるまで「暴君」と呼ばれ、側近は「奸臣」として斬死 している。
  直弼の死は、徳川譜代筆頭の彦根藩の凋落はおろか、徳川幕府の崩壊を早めたといっても過言ではない。彦根藩が藩主死後、極端な尊王攘夷主義者の徳川斉昭、慶 喜親子に恭順を誓った藩政の一大転換に、私はかねて疑問を持っていた。藩政転換を主導した家老、岡本半介の資料を読むことと、その資料の内容を藩邸や堀 端、城下に重ねることで真相に近づきたい思いがあった。
  博物館は外堀表門東にある。旧表御殿跡だ。ここは表に藩庁が置かれ、登城した藩士が執務をとり、来客を迎えた。家老たち重臣も詰め、会議を起こして、藩主諮 問の政策を評議した。奥は藩主の私邸で、彦根に帰郷した藩主の生活の場である。彦根城は内堀、中堀、外堀の3重の堀に囲まれていた。戦後、旧外堀は埋め立 てられ、いまは中堀を外堀と呼んでいる。内堀と外堀の間は家老屋敷が並んでいた。現在、藩校の後身、彦根東高や裁判所が並ぶあたりだ。

  安政7年(1860) 旧暦3月3日朝、桜田門における藩主暗殺は7日夜、彦根に届いた。江戸藩邸の急を知らせる早駕籠が崩れ落ちるように城門をくぐる。全藩士に登城の太鼓が鳴 り響いた。初代直政以来、武勇を誇り、徳川譜代を牽引した井伊家が築城260年で初めて経験するお家の一大事であった。藩士らは藩庁大広間に集合し、ここ で事件を知らされた。
  現代でいえば、日本を代表する企業がいきなり倒産の危機に陥ったといえば、藩士らの衝撃の深さがわかる。要領を得ない重役の説明に怒号がとびかったであろ う。そのはずである。大名の不慮の死は理由のいかんを問わず、改易は幕府の大法であり、朝、登城途上で暗殺となればお家断絶は必至だった。ところが重役た ちは幕府の対応も江戸藩邸の動きも説明できない。幕府自体が大老暗殺に動転してしまっていた。これまで幕政を指揮してきた大老がいなくなったのである。ま して登城の門前で襲撃される前代未聞の事件は、幕府の屋台骨を揺るがした。彦根藩水戸藩の衝突を避け、13歳の直憲の相続を認め、彦根藩には直弼の死を 隠すことを決め、江戸屋敷に通知した。しかし、直弼暗殺はすでに世間の耳目を集め、江戸では多数の目撃情報がとびかっていた。
  彦根藩の江戸上屋敷は現在の憲政記念館あたり、桜田門西500㍍にあった。近くには豊後杵築藩、安芸広島藩の屋敷が掘沿いに並んでいた。
  彦根藩は暗殺に関与した浪士の引渡しを要求するも、幕府は拒否。藩内の不満を抑えるため、7日に家茂の名代で若年寄2名を藩邸に派遣、病気見舞いの品を届 け、藩士を慰撫した。幕府は3日以降、再三にわたり、藩の動揺を沈静化させるよう命じ、異例の家督相続を認めて藩の不満を抑えた。8日にはハリスら英、 米、仏の公使が直弼遭難の事情説明を求め、幕府の意図に反して暗殺の波紋は広がった。
  国許では木俣清左衛門を筆頭に5人の家老がつめよる藩士らをなだめ、江戸表からの続報を待つように説得していた。彦根の藩邸は騒然とし、当然、水戸討ち入りを叫ぶ藩士らがいて、彦根を後にした脱藩者の名がささやかれていた。
  彦根城下が落ち着きを取り戻したのは、直憲相続の報が届いてからだ。同時にかん口令が敷かれ、「藩主病気で倒れる」で世間体をつくろうも、城下では町民、農 民まで信じるものはいなかった。国許では、警護の供に批判が集中した。60人の供が18人の浪士になすすべもなく襲われ、浪士側はわずか一人が現場で斬ら れたにすぎない。このため、国許では江戸表に内通者がいるなど噂が噂を呼び、揺れた。
  彦根藩の政策は家老評議を経て決定された。直弼が藩主に座った彦根藩は直弼側近と、藩政からはずされていた重役の間に溝ができていた。代表的な例が評議で通 商条約締結に反対した家老岡本半介である。水戸家とも交友のある岡本半介は尊王攘夷論者で、直弼に自説を直言し、評議をはじめ藩政から外されていた。
  隠居していた元家老が評議の席で幕府批判を展開した。
  「この変たるや邸内にあらず、天下の人々が往来する大道で白昼起こった。主君は大老就任時から今日あるを覚悟せられていた。しからば、その死は私にあらず、公 務のための死。戦場の死と異なるところはない。やがて天下に暴露されるは必定。姑息な手段で死を秘し、かえって大老の死を汚し、彦根藩のみならず幕府の権 威を失墜せしむるごとき手段は誤っている」
  家老らはお家存続を第一にしていた。主君を守れなかった藩の責任をいかにして免れるか、と、苦慮していたから幕府の事後処理策に安堵していた。ところが元家老は江戸家老が責任をとり、切腹し、大老の死を届けて公にするよう迫った。
  「後日、幕府は覆い隠すことができなくなった時、その罪を藩に帰せしめるに相違ない」この正論はお家安泰にほっとした重役から一蹴されるが、彦根藩は直弼警護の不備、その後の対応で大名たちの嘲笑を誘い、譜代筆頭の権威を失っていく。天下の笑いものになった。
  直弼死後も、幼少の直憲の後ろ盾として家老木俣清左衛門、直弼の懐刀の長野主膳、宇津木六之丞ら直弼側近が藩政を動かしていくが、襲撃の責任を問う藩士の声は城下まで及んでいた。ここで宇津木、長野の二人について説明したい。
  宇津木六之丞は「公用方秘録」を書き残した中心人物で幕末、直弼研究の第1級資料になっている。先代直亮の側供として江戸詰めをへて、藩の要職についた能吏 であった。家格は350石で中堅藩士。直弼は当初、信用していなかったが、大老就任後は手腕を発揮し、江戸表と彦根の調整から大名間の連絡など非凡な才を みせ、江戸における直弼の片腕と評価された。
  宇津木が交渉ごとのほかに直弼から重用された理由は大老の行動費を幕府からでなく自前でまかなう経理手腕にあった。当時の大名の台所は逼迫して藩士の禄を借 り上げ名目で減らし、豪商から借金でしのいでいた。貸し手の代表が近江商人である。湖南の日野、湖東の八幡商人が江戸初期に江戸、関東で成功し、彦根藩領 から豪商が輩出するのは幕末である。天秤棒かついだ商人の時代は終わり、貿易、金融による商いで莫大な富みを築いていく。横浜開港がきっかけになったのは いうまでもない。大老井伊直弼がバックにいた。
  彦根藩が御三家、親藩を相手に幕政を動かせた背景は、譜代筆頭の家格に加えて、豊富な台所事情があった。京都守護職として京の守りと公家との付き合いは、ま ず金が必要だった。彦根藩の御用商人のトップは「丁吟」。江戸店開業から30年で日本屈指の富豪に躍り出ていた。金銀の投機で14万両を稼ぎだし、彦根藩献金や融資をしていた。この窓口が宇津木六之丞である。ちなみに江戸末期の緒大名は莫大な借財に苦しみ、近江商人から融資を受けている。東北の雄、伊達 藩は日野の中井家から万両単位で借財を重ね、返済不能の借りをつくり、藩政に中井家が口をはさむまでになった。御三家も頭があがらぬ影響力を持ち、維新で 大名貸しがちゃらになり、倒産に追い込まれた豪商も多い。その中で彦根藩は健全財政を誇った。
  丁吟の本家は彦根の近郊の湖東町小 田刈にある。現在はホテル・ギンモンドチェーンや不動産、アパレルなど事業で知られ、株式は公開していない。初代丁字屋小林吟右衛門は呉服行商からスター トし、2代目が江戸を基点に事業を拡大した。為替、綿・絹輸出など今日の商社の先駆けになった。伊藤忠も元彦根藩領出身である。このほか日本生命東洋紡 などの前身にあたる店が江戸末期から明治にかけて彦根藩領を出て大阪で成功している。
  丁吟は直弼暗殺の日、江戸屋敷に1万2千両を献金、預かり金4千両を用意している。水戸との戦に備えた軍資金だ。
  京都で直弼の朝廷工作を担当したのは長野主膳。直弼の部屋住み時代に親交を結び、国学の師になる。兄の死で思いもかけぬ彦根藩主後継になった直弼の命で朝廷 と幕府の関係をまとめている。直弼は公武合体論者であり、幕府の力と朝廷の力が均衡し、やがてひとつになる展望を持っていた。長野主膳の献策によるもので あったことはいうまでもない。孝明天皇即位にあたり、国文学者として即位式に参列するなど京都における知名度は高かった。
  江戸の宇津木六之丞からの資金により、公家社会に深く入り込み、関白九条尚忠家臣と不測の事態には天皇彦根に一時、遷座する計画を練っている。当時の幕府 にあってこれだけの動きができるのは彦根藩しかなく、金と武の両面で直弼は幕政を牛耳った。水戸の徳川斉昭が直弼を目のかたきにしたのは、政策の対立より も、尊王派の水戸に劣らぬ京都人脈を築きつつある直弼は、公武合体の暁にはその地位が不動のものになり、息子慶喜の将軍後継は消えるからだった。
  斉昭の本心は権力闘争であって、直弼に負けたあと水戸蟄居後に描いた打倒直弼の思いが桜田門の変につながったといえる。
  直弼死後の宇津木、長野は幕政、朝廷工作を続けていた。しかし、人材のいない幕府では直弼から外された大名が復活し、慶喜が事実上の将軍後継になり、条約勅 許、安政の大獄批判が大勢を占めた。彦根藩でも反直弼派のクーデターが進行する。宇津木、長野への批判を展開して藩政のキーマンになったのは、家老岡本半 介である。
  水戸学派ともつながる岡本の登場は、彦根藩が直弼仇討ちから転換し、幼君のもとでいかに生き延びるかに軸足を置いたことがわかる。岡本は直弼の条約勅許に反 対した尊王攘夷論者である。桜田門の変にあたり、幕府に密かに具申し、幕府の対応を助けた説も残る。岡本の屋敷は現外堀と内堀の間の西、家老屋敷では表門 から西はずれにあった。武を重視する彦根藩では数少ない学者肌で水戸学派を信奉し、頼三樹三郎橋本左内ら勤皇志士が安政の大獄で刑死したことで直弼への 怒りを強めたといわれる。
  幕府において水戸派復活、慶喜後継が固まった文久2年。直弼の死から2年経過していた。旧暦8月24日夜、岡本は帰国中の藩主直憲を尋ね、藩政の転換を具申 した。それまでの岡本は病と称して出仕せず、藩内で勤皇派の至誠組を組織して機をうかがっていた。岡本は直弼存命中より京都に出入りする徳川斉昭に加担す るよう提言していた。学者でありながら中々の策士である。木俣、庵原両家老に隠居、長野主膳を捕らえ、3日後に牢内で「討捨」にした。2カ月後の10月 27日、江戸から護送の宇津木六之丞が刑死。
  岡本屋敷跡の南、堀隔てた町の中に碑がたっている。長野、宇津木の拘束された牢屋跡だ。宇津木は「亡き大老は独断でなく幕府の意向のもと、条約を結んだ。ま ことに無念」と、家族に遺言した。長野については、岡本家老配下の至誠組にすら評価する文書が残るなど藩士の評判は悪くなかった。歴史は安政の大獄主導の 長野主膳にきびしい。吉田松陰はじめ勤皇の英才を逮捕、斬死にいたらせた影の主役として小説の素材になり、西郷隆盛を心酔した鹿児島出身の作家海音寺潮五 郎は一刀両断で長野を謀略の輩と切捨て、悪役になった。舟橋聖一は『花の生涯』で直弼、長野を別の角度から取り上げ、長野主膳評を変えた。
  岡本は直憲に「先君は、安政の大獄を主導し、勅許をまたずに通商条約を結び、『暴政』を推進した」と断じ、長野、宇津木を暴政の君主を支えた奸臣として処罰 を求めた。幼少の藩主に父親を「暴君」とまで呼ばせた岡本の直弼嫌いは、藩政刷新、尊王攘夷の美名にかくされた怨恨に近い。
  出勤途上の大老がピストルで撃たれた集団テロに目をつむり、徳川斉昭ら政敵に与した岡本の画策は、権力闘争のクーデターにほかならなかった。
  牢跡にたたずみ長野主膳の辞世の歌を読む。
     飛鳥川きのふの淵はけふの瀬と かわるならひに我身にぞみる
  「先君を知るものは我なり。我もまた業終ずして中途に逝く、天命なり」
  宇津木は遺言に岡本を極悪人ときめつけ、いずれ仮面がはがれ、我らの正義が報われる、としたためた。文久2年の秋は彦根藩にとって次の受難の風が吹いた。幕 府は彦根藩が公に直弼を批判し、人事を刷新するのを待って、彦根藩の処分を断行した。幕府にとって藩自らが非を認めたことで処分の名分ができたのである。 京都守護職の解任、領地10万石の減封は彦根藩にとって予想外であった。幕府は大老の死の責任を彦根藩にかぶせ、藩はあろうことか前藩主と奸臣の責にして 乗り切ったものの、後にしっぺ返しを味わうのが幕末の歴史である。
  幕末の徳川幕府は責任回避の官僚社会と化していて、わが身、お家大事が優先して武士道は建前の政権末期に陥っていた。宇津木六之丞の遺言や暗殺時に元家老が 暗殺秘匿に反対した通りの展開に藩士は動揺した。10万石減封で出費の切り詰めを余儀なくされ、京都引き上げは藩の誇りすら奪った。長州、薩摩は彦根藩の 動向に神経をとがらし、伊藤博文(越智斧太郎)らに探索を命じ、城下で岡本の使者と面談して「彦根藩挙兵、上京」が噂にすぎないことを確認した。彦根藩が 京へ上る事態になれば、薩長の戦略は見直しを迫られるからだ。
   岡本の藩政はその 後も徳川慶喜、水戸頼みで推移し、長州出兵など前線に駆りだされるも、往年の譜代筆頭の座から降り、影響力を失う。藩士らは幕府の対応に不満を抱き、公然 と家老岡本の批判が起こり、反幕勢力に接近していく。鳥羽伏見の戦いでは慶喜幕府軍にいながら、薩長軍に寝返る。圧倒的に優位であったはずの幕府軍が敗 退の一因となり、慶喜は大阪から江戸へ逃げ帰る醜態をさらした。
   悪人呼ばわりの直弼が彦根で見直されるのは岡本半介が7年間の藩政から退く明治になってからだ。直弼が顕彰され、ゆかりの彦根天寧寺には供養塔、さらに討ち捨てのため墓もなかった長野主膳墓所もこの寺にできた。彦根市内が眼下に広がる寺には直弼の血染めの羽織が供養塔に埋められ、明治になっても白骨のまま捨てられていた「朝敵長野」の遺骨が戦後、ここに埋葬された。毎年、3月、供養が営まれ、市民が参拝する。
   堀端の秋風は激動した安政7年から明治までの9年の出来事を松並木と語り合う。城下を歩く楽しみは石垣に、堀端に、並木のささやきに耳をかたむけることにある。歴史家や資料にない民意があるからだ。いまでは直弼の決断を暴挙という研究者はいない。彦根市長 選で直弼暗殺の一人が薩摩藩脱藩の浪士だったことから、鹿児島出身の候補(県議)を地元出身の元検事候補が、「直弼公暗殺の薩摩に負けられない」と、マイ クで俎上にのせ、当選している。犬猿の関係にあった水戸と彦根の市は1970年に和解するが、市民感情はいまなお複雑なものがある。直弼が明治以降、批判 されても市民は「直弼」に親しみを抱き、再評価につながっていく。幕府と朝廷の狭間に揺れた彦根の民意は、東京でも京でもない、彦根の道を選んで直弼生誕 200年を迎えた。

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  メモ 
   彦根城博物館 井伊家伝来や彦根ゆかりの美術工芸品や古文書を展示。藩主の生活を伝える御座之、茶室、能舞台などが復元され、井伊家の歴史をたどることができる。
     電話0749−22−6100
   玄宮園 TV、 映画で江戸城の将軍が庭に出て天守を見上げる場面の多くはここ玄宮園が舞台になっている。池を琵琶湖に見立て、近江八景の縮景を池畔に再現。江戸初期の大 名庭園の代表格。直弼は数奇屋造りの茶室で茶の湯を楽しんだ。この庭の北にあるのが楽々園槻御殿。藩主下屋敷として建てられ、総槻(けやき)の大書院が目 をひく。直弼はここで1815年(文化12)、14男として生れた。
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