第108回 50年ぶりの姫路・白鷺城

 〜蒼空に羽ばたく世界遺産の威容再び〜
         
 駅から北に真っ直ぐな道が城へ続いている。天守を見上げながら大手門に近づく。しかし、築城時はもとより、江戸時代は城下から大手門まではまっすぐな道ではなかった。まがりくねっている。城下特有の道だった。
 先の大戦で空襲を受け、江戸時代から明治まで戦火に合わなかった姫路城下は城を除いて焼失した。城南の武家、商家は焼け、駅から城へ広い道路ができた。これほどわかりやすい城下はない。
 播磨の室町期の城は山城中心である。守りを重視した縄張りになっている。山は高ければいいというわけではないが、標高100㍍から300㍍の高さで峻険であ る。近江の浅井長政居城の小谷城はこんもりした山に見えて奥深い。油断すれば命を落としかねない。ところが姫路城は平山城だ。だからこそあたりを睥睨し、 威圧する城構えが必要だった。
          
 駅前から大手門への道は大手前通。城を見上げて楠並木を歩く。室町末期から江戸初期の『人国記』は、播磨人気質を辛口で記している。
 『播磨の風俗知恵有で義理に不知、親は子をたばかり子は親をだしぬき、主は被官に領地を与えて好き人を掘り出したく志し・・・・・』
 群雄割拠した戦国時代の話のため、いささか辛らつであるが、よく言えば独立心に富んでいた。鎌倉時代赤松則村南北朝は小寺頼季、室町になると山名持豊が 城主になり、赤松・小寺の攻防が続く。小寺家家老の黒田職高の嫡男孝高(官兵衛)は毛利方につく主君をみかぎり、織田信長、秀吉に仕え、名参謀の評価を得 た。このあたりの変わり身も『人国記』の記述に影響しているのかもしれない。
 姫路城の本格築城は関ヶ原戦の軍功で三河から移った池田輝政からだ。輝政は秀吉に目をかけられて出世し、家康と秀吉の間をうまくたちまわり、家康の娘督姫を 妻にして秀吉死後は徳川方になり、家康の信任を受けた。家康が西国大名の牽制を輝政に命じた城の大拡張は9年におよび、5層の大天守を完成させると、内掘 と中掘の間に武家屋敷を置き、さらに中掘と外掘の間には町人町、寺を配置した。城下88町の町割りは城といい、城下といい、諸藩の反徳川の動向に神経をと がらし、城普請にいちゃもんをつけた幕府にすれば異例の普請だった。
 城まで駅から1キロ㍍の道である。空襲で迷路になった城下のまちは姿を消しているが、姫路市民にとって城と祭りは昔のままだ。毎年6月22日から3日間繰り広げられる「ゆかたまつり」は享保年間に江戸神田祭にならい、城主肝いりで始まった夏祭り。沿道はゆかた姿の市民であふれる姫路名物である。
 道は内堀まできて左にカーブして大手門前にたどりつく。大手門をくぐり、三の丸跡、正面に大天守がそびえている。平成の大修理は2009年から始まり、今年 3月で完了した。前回の修理は1964年(昭和39)だったから半世紀を経ている。前回は天守、小天守を解体する大がかりな修理であったが、今回は屋根と 壁の修復が中心で大天守の化粧直しといえる。天守屋根をすっぽり包む高さ52㍍の素屋根をかけ、6年間、天守は姿を隠した。
 天守の瓦は7万5千枚。新調は1万6千枚。代表するのが鯱瓦。再利用の古い瓦は色落ちして黄土色をしていて興味ある向きは400年前の遺産探しを楽しめる。
          
 マスコミでも取り上げられたが、天守の白さ。これは壁だけでなく、屋根の白さに起因している。姫路城の屋根瓦は屋根目地漆喰がほどこされている。漆喰を瓦と瓦の継ぎ目や隙間に塗ったため、遠めには白く見える。沖縄の民家屋根に使われる手法は補強効果と、見た目の美しさを意図したものといわれるが、高価な漆喰を使わせて財力を削ぐ幕府の意向という見方もある。
 二の丸の前には冠木(かぶき)に木製の花菱紋を掲げる菱の門。順路はここから櫓塀に沿って左に折れ、西の丸のワの櫓、ヲの櫓、ルの櫓、ヌの櫓を経て、化粧櫓に着く。ワの櫓から内部を歩いて進める。長い百間廊下が続く。 
 化粧櫓は千姫ゆかりの櫓である。千姫は姫路城で10年、過ごした。秀頼に嫁ぎ、大阪落城後は伊勢桑名の本多忠刻に輿入れして本多家の国替えで姫路に移った。大阪城から救出され、江戸への途中、桑名で本多忠政、忠刻親子の出迎えを受けた千姫は忠刻にひとめぼれ、家康にその思いを伝えたのだろう。家康は遺言でふ たりの縁談を命じている。父秀忠は千姫のために持参金10万石を贈った。忠刻の父忠政は桑名から転封にあたり、10万石から15万石に加増されているが、 千姫の持参金はそれを上回る破格のものであった。
 千姫は増築の化粧櫓の居室で23人の持女と16人の下女がつき、美男の誉れ高い忠刻と幸せな日々を過ごした。思い人と添えた千姫の胸中は姫路におけるのどかな日々が語っている。しかし、嫡男、夫を相次いで失い、江戸に戻り、落飾して天樹院を号した。ただ江戸での千姫には風評が伝わる。夜ごと男をひき入れた乱行が江戸のうわさになった。母は信長妹市の3女江。気の強さは母ゆずり、祖母似の美貌で家康、秀忠が可愛がり、弟家光との仲も良かったから、幕府は厚遇し た。ひっそり暮らす姫君ではなかった。乱行はフィクションであるが、物怖じしない性格で大奥などに介入して物議をかもした。
 城内の化粧櫓には千姫と娘勝姫が遊びに興じる人形が飾られている。傍らに三毛猫がうずくまり、猫好きの姫であったようだ。
 大天守は二の丸の東、輝政居館のあった備前丸の正面にそびえる。外観5層の造りは内部6階、地下1階で、地階には北東と南西の両隅に備前焼の壷を埋めた厠が ある。目をうばうモミの木の東大柱と、ヒノキ材の西大柱の威容。地階から6階までの高さ24・6㍍の天守を支えている。各階の床が大柱にとりつくように張 りめぐらされ、東柱は一本の木ながら、西柱は3階部分で継いである。これは構造上の強化を施した結果だ。それでは急勾配の階段をのぼる。年をとると、気 がせき、4階で早や最上階へ来た気がするが、4階は籠城用の内室になっている。
 最上階天守の四方の窓から播磨平野と瀬戸内海が一望できる。毛利輝元は広島から萩へ転封、代わって福島正則が広島にはいるが、関ヶ原後の天下の形勢は大阪に まだ秀頼健在で徳川磐石ではない。西国の秀吉子飼いの大名への警戒はこの大天守からの眺望からもわかる。西への備えだ。姫路城大拡張が完成したのは大阪夏の陣より5年前である。京では豊臣滅亡のいちゃもんの因になった方向寺が秀頼の手で復興し、家康が動き出していた。羽を広げた「白鷺」は風雲を呼んだ。
 天守の階段をそろりそろりと下りて、備前丸から腹切丸に出た。本丸に隠れるようになった一画である。櫓と石垣に囲まれた広場は、出入り口一カ所の袋曲輪に なっている。名前からして、切腹場とみられるが、藩の記録にはここで切腹の記述はない。確かに異様な雰囲気が漂う。古井戸もある。記録にはない藩の不祥 事。お家騒動の始末をここで内密に処理したという見方がある。宝暦年間に国家老が別の国家老と江戸屋敷公用人を殺害する事件はあった。
 藩政をめぐる対立が公用人をまきこみ、血の雨を降らした。藩主側近の江戸公用人をめぐる暗闘は姫路藩に限らず、各地で起きていた。国許の留守を預かる家老は 日ごろ、公用人の言動を快く思っていない。藩主はお気に入りの公用人を通じて難題を押し付けてくる。そこへ、国許の派閥争いがからみ、刃傷事件に発展し た。藩は外部にもれるのを恐れて関係書類を廃棄した。これが伝承の事件のあらましになる。
 想像するなら、刃傷は城内で発生し、斬った家老はこの腹切丸に幽閉され、切腹したことから、近寄りがたい名が付いたのではないか。あるいは輝政から本多、松平、榊原、酒井と藩主が代替わりした裏には、表にでない袋曲輪の切腹事件があったのだろうか。城をめぐる面白さは、時代と人を思いめぐらすことに勝るもの はない。
 内堀の周囲からながめる大天守はいろんな表情を持っている。内堀から旧町を歩く。姫路ビードロの文字が目につく。『人国記』に書き加えるなら城下町は新しいもの好きである。長崎に伝来したビードロは江戸時代、喜多川歌麿美人画ビードロを吹く女』に描かれるほど人気になったが、その後、すたれていく。その ビードロが姫路で復活した。明治末、姫路の柳川鉱泉を経営する夫婦が欧米に輸出用のクリスマスのガラス玉製造にヒントを得て、正月の松飾りにガラス玉を 「きんたま」と称して売り出したところ、あっというまに姫路に広がり、姫路独特の松飾りになった。
          
 伝統と格式を誇る城下町。その町で正月の松飾りにガラス玉を吊るす風習は全国に例をみない。現在でも海岸地方の風習として残っている。もうひとつがポッペ ン。姫路の場合、玩具でなく陰陽道の厄除けとして正月にポッペンをペコボコと鳴らした。ポッペンはガラスの底が薄く、ふくとポッ、離すとペンの音がする。 姫路の江戸時代にはなかった風習である。しかし、このポッペンも昭和40年代に姿を消していたが、柳川鉱泉の職人が技術を受け継いでいることがわかり、姫路ビードロとして復活した。一時は城の売店などで販売していたが、いまや、姫路の新しい「歴史遺産」。町あげて保存にのりだし、ビードロの音を城下に響か せている。鶴田浩二の歌にこんなセリフがあった。
 ♪♪ふるいやつだとおもいでしょうが、古いやつほど新しいものをほしがるものでございます
          *
 メモ 姫路城の歴史については城北の内堀北の県立歴史博物館が資料、展示物ともそろっている。バーチャル工房では城、町の様子を立体的に映像で再現している。建築も現代の城をイメージした斬新な建物。
 日本玩具博物館 城から10キロ離れた香寺町にある。個人の玩具展示からスタートして博物館指定を受けた。7万点のなつかし玩具や世界各国の玩具がそろう。079−232−4388
 書写山園教寺 城の西北に位置し、標高371㍍の書写山の山頂にある。天台宗三大道場のひとつ。豪壮、雄大な寺観は西の比叡山ともよばれる。西国33ヶ所霊場の27番札所。本多忠刻ら本多家5代の廟所がある。
          *