第97回 京の隠れ里、花脊で火の饗宴「松上げ」

     〜夜空に描くタイマツの環〜

   大文字送り火の前日、北山の里で繰り広げられる火祭りは、観光客に見逃されている。大文字の陰で話題になることも少ないが、一見の価値はある。山里の夜空に描かれる火の環は、大文字にない郷愁を誘う日本の夏だ。

 里を離れた若者たちが戻り、参加する行事は、終わった後の余韻にひたり、ああこれで夏が過ぎていくか、と見上げる夜空がすばらしい。星の海である。
    京の夏は祇園祭に続いて愛宕山(924㍍)の千日詣で夏の盛りを迎える。千日詣は愛宕権現に火伏、防火の願掛けをするもので、一回の参拝が千日分のご利益 があり、「火迺要慎」(火の用心)札をもらい、台所に張っておくのが京のならわしになっている。明智光秀が本能寺急襲前に権現に参拝するシ−ンはドラマの 定番である。
          
  千日詣りは7月31日から8月1日にかけての深夜登山。道はこの日だけは込み合い、すれ違う参拝者は声を掛け合う。
  「おのぼりやす」「おくだりやす」
  この声かけは、簡単なようで難しい。のぼりは息をきらしているからだ。下りなら、励ましをこめて「おのぼりやす」といえるが、上りとなると息きれもあり、 「おくだりやす」が出てこない。2時間の深夜登山には3歳の子どもを同行すると、火難にあわないそうだ。花脊の人たちは千日詣りをすませないと、松上げの 日を迎えることができない。
          
  花脊から愛宕山麓まで車で2時間はかかるが、昔なら3日がかりの参拝だった。山里でなんとしても避けたいのが火事。このため、愛宕講を組み、交代で代表が札をもらうのが花脊の慣例になっていた。この松上げは花脊から日本海へ抜ける広河原、美山町福井県の名田庄、小浜市などに分布し、地蔵盆の8月24日夜、夜空を焦がした。先祖の霊を送る大文字送り火とは、由来を別にする行事だった。
  花 脊の松上げが15日夜のため、仏教行事の送り火と混同する記述が散見されるが、松上げは火の神として信仰を集めた神仏習合の行事である。私はこれまでも書 いてきたが、駆け出し記者時代、北山の里に出入りして、特に夏は夜の涼しい民家に滞在して山里の暮らしや行事を書いた。古老たちによると、松上げは江戸時 代の鎮守社の春日社竣工を記念して寛永年間に始まり、24日に行われてきたが、過疎化で若者は盆と正月しか戻ってこないため、24日に繰り上げたという。 隣の広河原は現在も24日に松上げをしている。
  花脊、広河原の過疎化は昭和9年(1934)の廃村八丁の集団離村に始まる。おそらく日本における挙家離村のさきがけになると思う。八丁は広河原からさらに 峠を越えた山奥の里。明治以来、炭焼き、木材の5戸が住み、分教場もあった。八丁を歩いて気づくのは、石積みや民家の敷居跡や土蔵の存在など隠れ里と呼ぶ にふわしい在所跡があることだ。炭焼きは大きな収入源であり、裕福な暮らしぶりがうかがえる。
  この年、日本海を襲った豪雪は八丁集落の屋根下まで積もり、孤立した。病人が出ても助けも呼べない。2軒が山を降りると、いった時、他の家もならった。5軒 あっての八丁だからである。広河原に移った段下常三郎さんから聞く離村いきさつは、雪に慣れた人たちでさえ身震いするような豪雪のすさまじさであった。
  「八 丁は雪さえなければ、炭と木材でいい暮らしができた。長男は残り、次男が京へ出て行くのが5戸の家の決まり。分校もある。学校と家庭がひとつなっていた。 夏は涼しい。夜は寒いぐらい。だから冬は厳しい。あのあたりは日本海と変わらぬ雪が降ったが、その年の雪はすごかった。真っ暗な空から雪が何日も降る。病 人がでた。医者も呼べない。病人の家がもうここにはおれん、といった時、いままで張り詰めていた糸がプツンと切れた」その広河原も38豪雪(昭和38年) で過疎化が始まり、京都市中 心部へ移転していく。八丁と違うのは家をそのまま置いての離村である。昭和43年、岩波新書から『日本の過疎地帯』が出版され、話題になった。著者の今井 幸彦氏は元共同通信京都支局長で、京都新聞に掲載された広河原主婦の投書「村がなくなる」から過疎を知り、過疎と過密を両輪とする社会構造の変化に迫っ た。広河原はジャーナリズムで取り上げられた最初の「過疎」になる。
  私が入社して間もない頃で、過疎を教えてくれた最初の本である。山があるから余裕があり、山を売り、京都へ移る家族たち。春から秋の間だけ年寄りが残るか、定期的に戻って、冬の間は都市部にある息子たちの家で過ごすのが常態化していった。
  2年後の昭和45年、政府は過疎ということばを使った白書を出し、社会問題になった。近年は過疎に代わって限界集落という言葉がマスコミに登場する。90年 代に大野晃・高知大教授が提唱した高齢者が人口の過半数を超え、地域コミュニテイが崩れたところを指している。過疎化のより進行した地域である。
  京都の鴨川沿いを北上すると、鞍馬、貴船を過ぎて花脊峠にさしかかる。水は北にも流れる分水嶺で、せせらぎは上桂川になり、蛇行しながら亀岡で保津川と合流して嵐山から桂川、南下して淀川を経て大阪湾に注ぐ。
  峠の下は随所にかやぶき屋根にトタンをかぶせた民家が並ぶ風景になる。京都市内より5度から10度も気温差があり、高原のさわやかさが漂う。京都からバスで1時間半の道だ。京都市左京区花脊地区。広河原はさらに奥になり、上桂川の源流地帯で、八丁はさらに山の中だ。松上げは花脊中心部の大布施から上流の八桝の中洲が会場である。
          
  花脊の松上げはばらばらになった家族がそろう日である。過疎とともに盆の行事になり、山里と町の生活をつなぐ絆の役を果たしている。松上げは修験道の流れを 組む神事のため、準備はすべて男の仕事。中心部に立てる『灯籠木』(とろぎ)』、それを大きく取り囲む『地松』、灯籠木に投げる『上げ松』づくりが里の年 寄りたちの日課になる。
  15日当日は上桂川が大きく蛇行する中州で早朝から本番の準備が始まる。中州は灯籠木場と呼ばれ、灯籠木の先端はモジという直系3㍍の籠を置き、この中に下か らハンマー投げの要領で上げ松を放り上げるのである。モジというのは川漁の大きな籠。運動会の玉入れをイメージすればわかりやすい。火のついた松の束だけ に危険が伴い、経験がものをいう。小さい頃から慣れ親しんだ地元の若者抜きには成り立たない。高さ20㍍の檜の柱が垂直に立つ。灯籠周囲には赤傘に提灯の 結界がつくられ、夕方になると千本もある地松が並び、あたりは幻想的な雰囲気に包まれる。
          
  午後8時、春日愛宕神から移された種火が会場に到着、地松に点火される。鐘と太鼓を合図に40人の男たちがいっせいに上げ松を.投 げ込む。上げ松には縄がついていて、ぐるぐる回しながら狙いをつけ、「オリャー」「どやー」のかけごえで手を放すことの繰り返しのすえ、モジに火がはい る。灯籠木が燃えさかり、歓声とともに柱が炎の中に倒され、火の粉があがる。やがて伊勢音頭がながれ盆踊りの輪ができる。
          
  松上げは北山の里に伝承され、京都から福井県小浜にかけてほぼ直線状に分布している。8月24日が多い。花脊の場合、大文字送り火の影響を考察する学者もいる。たとえば鴨川の源流にあたる京都市北区の雲ケ畑では24日に山の頂きで割り木による文字をつくり、点火する松上げである。お盆の精霊信仰と地蔵盆愛宕信仰が融合して今日の松上げの形になった見方ができるが、むしろ、愛宕信仰の松上げが先にあり、大文字送り火はその影響を受けて始まったといえなくもない。
  松明の消えた山里の夜は満天の星である。若者たちの踊りの輪の横で準備した年寄りたちが「達者でな」と、来年の再会を誓い合う姿は、いつ生命が燃え尽きるかも知れない火祭りの夜の約束だけにぐっとくる。松上げが終わると、北山の里に秋が急ぎ足でやってくる。
  

        ==メモ== 

  松上げ見物は、車は道が狭く混雑して規制されるため、避けるのが無難。夕方5時すぎ、三条京阪からバスがでる。往復2000円。問い合わせは075−871−7521
   このほかホテルがツアーを組んでいるので泊まるホテルに予約する方法もある。
   食事と松上げセットは、会場近くの料亭「美山荘」がある。ただ料金は京都トップクラスのため、前もって確認したい。
  
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